第1章

 人間帝国と狼人帝国の同盟は、すでに数百年にわたって続いている。盟約により、一定の期間ごとに人間帝国は姫君を一人、狼人帝国へ送り出す。狼王の伴侶とすることで、二国の結びつきを強めるためだ。――そして今、またその時が来た。

 父上は高齢で、退位を考えている。私と姉は選ばなければならない。

 前世では、アデレードが王位を継いだ。権力を握れば好き放題できると思い込んで。だが、三年も経たないうちに、人間帝国は彼女の手で崩れかけた。内には民を搾り取り、懐を肥やし、暮らしは荒れた。外には傲慢さで同盟国を怒らせ、ドワーフ帝国もラミア帝国も、次々に交易を断った。

 やがて周辺諸国が手を組み、人間帝国は総攻撃を受けて炎の中で滅びた。両親は敵兵の刃に倒れ、彼女は逃亡するしかなかった。

 そして私は? 盟約どおり、狼王に嫁いだ。

 表向きは、万の狼に拝される狼族の女王。壮麗な王庭に住み、各国の宴に列する――そう見えただろう。だが実態は、囚われ人だった。狩猟の儀では獲物として追われ、評議の場では衆目の前で殴り倒され、争いが起きれば人質として前に押し出された。

 ある宴の席で、アデレードが突然、私の前に現れた。手には短剣。目は狂気で濡れていて――

「全部あなたのせいよ! 狼人帝国で役立たずだったから、私たちまで終わったのよ!」

 刃が胸を貫く。血の海に沈む私。

 次に目を開けたとき、私は王座の大広間に座っていた。父上が、私たちを見つめている。

 アデレードはほとんど迷いもなく、先に口を開いた。

「私が狼人帝国へ参ります。ブリンが王位を継げばいいわ」

 私は笑った。

 愚かなアデレード。女王の冠の下にあるのが、鎖と血涙だということを――彼女は何も知らない。


「狼人帝国へ行くのが正しい選択よ!」アデレードの声が大広間に響く。

「狼人帝国は北境でもっとも肥沃な草原と森を握ってる! ブリンのほうが政務に向いてるわ。あの子、小さい頃から退屈な書類を読むのが好きだったもの。面倒でつまらない雑事は、あの子に任せるのが一番!」

 その瞳は、欲にきらついていた。先月の夜会では、貴族令嬢たちに向かって「自分の力で女王になる」と誓っていたくせに。今となっては、恥も外聞もない。

 宰相が眉をひそめて言う。

「狼人は生来、剛毅で手に負えぬ気質。まして現狼王アッシャー・ナイトシェイドの人間への態度は……姫殿下が軽々しく向かわれれば、極めて危険です。過去にも、狼人帝国で悲惨な目に遭った政略婚の姫君は少なくありません」

 アデレードは手を振って遮った。

「惨めだったのは、弱くて無能だったからよ。泣いてばかりで人にすがるから、狼に踏みつけられるの。賢く気高い女は、魅力と手腕であの獣を従わせる。跪かせればいいだけ」

 そして私を見る。嘲るような目で。

「負け犬は環境のせいにする。でも本当は、自分が役立たずなだけ」

 吹き出しそうになった。

 前世の私が「賢くなかった」から負けたとでも?

 滑稽だ。アッシャーは魅力で籠絡できる相手じゃない。あの男の野心は、病みきっている。

 会議で言葉を誤れば、長老たちの前で平手打ち。実家の利益を守ろうとすれば、寝室に閉じ込められ、密約に署名させられる。国境の三都市を差し出す契約書に、無理やりだ。

 伴侶? 違う。私はただの人質だ。対立が起きれば、いつでも前に押し出されて捧げられる。

 あれは婚姻じゃない。監禁だ。

 けれど、私は言わない。狼の巣で、自分の身で味わえばいい。

「……決めたのだな」父上は長い沈黙の末、疲れたように息を吐いて頷いた。

「人間帝国は年々弱り、周辺諸国は虎視眈々だ。いまさら盟約を改める交渉力はない。彼らが誓いを守ることを祈るしか……」

 アデレードがまた遮る。

「ご心配なく、父上! 私は歴史上もっとも成功した狼族の女王になります。同盟を盤石にし、人間帝国にもっと利益を引き寄せるわ! ブリンが重い政務に押しつぶされて、貴族同士の争いで頭を抱えるようになったら――使者をよこして私に頼ればいい。気が向けば、狼人帝国の宴に席を用意してあげる。『本当の権力と栄光』ってものを見せてあげるわ」

 私は顔も上げずに言った。

「ええ。楽しみにしてるわ」

 彼女はすぐ知るだろう。評議の場で跪かされる「栄光」を。満月の夜、獲物として追われる「権力」を。

 一方の私は――国庫の食糧の配分に頭を悩ませ、各地の領主を宥め、途切れた外交を繋ぎ直す。彼女が「退屈でくだらない」と切り捨てた仕事こそが、真の権力の中身なのに。

 まったく、残念なことだ。

 人間帝国と狼人帝国の同盟が改めて固められたことを祝し、王宮では盛大な国際祝典が催された。ドワーフ帝国、ラミア帝国、さらには遠いエルフ王国からの使節まで招かれている。

 アデレードは豪奢な礼服をまとい、背の高い冷ややかなアッシャー・ナイトシェイドの腕に絡みながら、客の輪を渡り歩く。全身から「勝った」という光を放っているようで、誇らしさがはち切れそうだった。

 二人が私の前まで来る。アデレードが水晶の杯を掲げた。

「ブリン、未来のお義兄さんにご挨拶なさい。王位を継いで、どう? 最近は暴れる貴族を宥めたり、国境で獣人の襲撃に対処したり、国庫の空っぽさに頭を抱えたり……女がそこまでみじめになる必要ある? 強い帝国を後ろ盾にするほうが賢明よ。残念ね、誰でも狼族の女王になれる運命じゃないの」

 アッシャーは礼儀正しく、わずかに頷いた。だがアデレードが話している間、彼の眉が、ほんのわずかに歪むのが見えた。

 苛立ちが芽を出し始めている。女王に求められるのは沈静と優雅。だというのに、いまのアデレードは誇示が過ぎ、言葉の棘も鋭い。女王の器とは真逆だ。

 当の本人は危険信号に気づきもしない。嘲りをいくつか投げ捨て、アッシャーの腕を取って去っていった。

 私は杯を持ち直し、各国の代表と会話を始める。前世、アデレードの傲慢さで完全に怒らせ、最後に人間帝国包囲へと動いた要人たち。今回は同じ過ちは繰り返さない。

 ドワーフ帝国の鉄槌大使と、貿易協定について声を落として詰めていた、そのとき。

大広間が、ふっと静まり返った。

誰もが会話を止め、視線が一斉に入口へ吸い寄せられる。

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