第2章

 アデレードは若い少女の手首をがしりとつかみ、甲高い声を張り上げた。

「あなた、何者? 誰の許可でここにいるの? ここは女王専用の観礼台よ。身分もわからないくせに、勝手に入り込むなんて!」

 少女は引き抜こうともがく。

「お兄さまを待ってるの。ここで待てって言われて――」

「待ち人? もう少しまともな嘘をつきなさいよ!」

 アデレードは狼族の衛兵へ顔を向け、吐き捨てるように言った。

「どうせ紛れ込んだ卑しい者よ。狼族の貴族に近づく隙をうかがってるんだわ。衛兵、つまみ出しなさい!」

 周囲の客たちがざわめき、ひそひそと声を交わし始める。

 私の視線は、その少女に落ちた。仕立てのいい絹のローブ。腰の宝石飾りが陽光を受け、きらりと瞬く。こんな身なりの子が「紛れ込んだ」……?

 間違いない。アデレードが絡んでいるだけだ。

 理由はわからない。それでも、目尻を赤くした少女の顔を見て、私は一歩前へ出た。

「彼女はどなたかのご親族かもしれません。今日は祝祭ですし、そこまで――」

 アデレードが私をねめつけ、目の奥に毒々しい光を走らせる。

「私が女王になるのが気に入らないの? わざと逆らってるんでしょ。あなたが手を回して、私の祝祭を台無しにしようとしてるんだわ!」

 そして衛兵へ向き直り、さらに声を吊り上げた。

「言ったでしょう、つまみ出しなさい! 私は女王よ。私が決めるの!」

 衛兵がためらいがちに近づく。少女の頬を涙がつうっと伝った。

 私はそれ以上、口を挟まなかった。言っても無駄なら、それでいい。自分のしたことの報いは自分で受ければいい。

 ――衛兵が手を伸ばしかけた、そのとき。

 空が裂けるような、耳をつんざく龍の咆哮が降ってきた。

 全員が顔を上げる。

 祝祭の上空に、巨龍が現れた。翼は空を覆い、鱗は幽かな蒼で鈍く光る。大きく旋回し――次の瞬間、急降下。

 ごうっと風圧が吹きつけ、客の衣がはためき、卓上の杯が倒れて酒が散った。

 巨龍は広場の中央へ降り立つ。どん、と地面が震え、悲鳴混じりのざわめきとともに、人々が後ずさる。

 龍の背から、背の高い男がひらりと飛び降りた。深色の豪奢なローブ。男は片手で龍の鱗を撫で、低く何事か囁く。巨龍は静まったが、黄金の縦瞳はなおも会場を鋭く走査していた。

 誰かが小声で息をのむ。

「……龍の帝国の国王、ヴァリアン・ストームボーンだ」

 少女はその姿を見るなり、駆け出して胸へ飛び込んだ。嗚咽で言葉が途切れ途切れになる。

「お兄さま! わたし、紛れ込んだって言われて、追い出されそうになって……!」

 ヴァリアンは少女の背を軽く叩いた。

「もう大丈夫だ。兄さんがいる」

 それから、ゆっくり顔を上げる。視線がアデレードに落ちた。

 ――蟻を見下ろすような、氷より冷たい眼。

 アデレードの顔から血の気が引き、震えながらアッシャーの背へ隠れた。

 アッシャーは額に汗を滲ませ、慌てて前へ出て深々と頭を下げる。

「これは誤解です! まさか、そちらが陛下の妹君とは存じ上げず……直ちに謝罪を――」

 ヴァリアンは見向きもしない。静かで、だからこそ恐ろしい声で言った。

「私は――何が起きたかを聞いている」

 その場の空気が凍る。

 ドワーフ帝国の使節が機を見て進み出ると、へつらうように口を開いた。

「龍王陛下、どうか真相をお目にかける栄誉を」

 使節は懐から記憶の晶石を取り出し、魔力を注ぎ込む。宙に投影された映像は鮮明だった。

 アッシャーは各国の使節と挨拶し、握手し、終始忙しなく立ち回っている。隣のアデレードは完全に放置されていた。腕を絡めようとしても、アッシャーは適当に手の甲をぽんと叩くだけ。彼の横で、彼女は飾り物のように立ち尽くし、作り笑いが徐々に固くなっていく。

 ――だから、吐き出す先が必要だった。

 隅で静かに立っていた少女が、ちょうどいい標的になっただけ。

 真相は、あまりにも明らかだった。

 ヴァリアンは小さく頷き、アッシャーへ向き直る。

「記憶している。龍の帝国と狼人帝国は、北境の秘銀鉱脈を共同開発する予定だったはずだ。私は今夜、その採掘利益の四割を狼人帝国に譲ると発表するつもりだった」

 彼の視線が、私へ移る。

「人間帝国は資源の拡張が必要だろう。秘銀鉱脈の共同開発権は――お前たちに渡す」

 会場がどよめいた。

 巨額の富を失うだけではない。衆目の前で、顔を潰されたのだ。アッシャーの顔色は鉄青になり、背後の狼族の長老たちは互いの顔を見合わせて言葉を失った。

 ヴァリアンは踵を返し、去ろうとする。二歩、三歩――ふと立ち止まり、振り返った。

「自分の女王すら躾けられないなら、外に出して狼族の恥を晒すな」

 アッシャーは羞恥と怒りで顔を歪め、アデレードの腕を乱暴につかむ。ほとんど引きずるようにして脇門へ向かった。彼は目だけで「黙れ」と命じる。アデレードは唇を震わせたが、ついに一言も吐けなかった。

 主役が去った。盛会は、始まる前に終わった。

 客たちは次々と散っていく。侍従に導かれ、各国使節のために用意された宿へ。低い噂が波のように広がっていった。

 私も立ち去るつもりだった。表情は平静のまま、頭の中ではすでに秘銀鉱脈の利益計算を始めている。

「待って!」

 振り返ると、少女が小走りで追ってきた。背後にはヴァリアン。

 少女は私の手を取った。

「ありがとう! わたしをかばってくれたの、あなただけだった。お名前、教えてもらえますか?」

 私は少女の後ろのヴァリアンを見る。彼もまた、私を見据えていた。揺れない、落ち着いた目だ。

「名は?」

 彼が短く問う。

「ブリン・ソーンウェルです」

 ヴァリアンは頷き、少女へ言った。

「見る目がある」

 腰のドラゴン・スケイルズ・バッグから、手のひらほどの水晶を取り出す。表面には精緻な龍紋。内部に淡い光が流れていた。

「龍の帝国の通信水晶だ。ほんの少し魔力を流せば、こちらに繋がる」

 彼はそれを私へ差し出した。

 少女が小声で付け足す。

「お兄さま、滅多に人に贈り物しないんだよ! あ、わたしはライラ!」

 ヴァリアンは私に軽く会釈し、ライラを伴って侍従の後を追い、広場を後にした。

 私は、次第に人の消えていく会場の中央に立ち尽くし、手の中の水晶を見つめた。

 遠くでは、侍従たちが、巨龍の着地でひっくり返った装飾や卓を片づけている。

 口元が、わずかに上がる。

 明日になれば、今夜の出来事は各大帝国へ瞬く間に広がるだろう。アデレードは龍の帝国を敵に回し、アッシャーから秘銀鉱脈という莫大な利益を奪った。

 アッシャーが彼女を許すはずがない。怒りも屈辱も、すべて彼女にぶつけるだろう。

 そして私は?

 龍の帝国との共同開発権を得ただけじゃない。ヴァリアンの私用の通信水晶まで手に入れた。

 前世では、アデレードの愚かさに足を引っ張られ、人間帝国は孤立した。だが今世の私は、最強の帝国と手を結んだ。

 ――今回は、運命がようやくこちらを向いた。

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