第3章
人間帝国を引き継いでからの日々は、終わりの見えない戦争そのものだった。
領地資源の再配分、腐敗した貴族の粛清、崩れた税制の立て直し。どれも一歩踏み外せば転ぶ綱渡りだ。面白がって私の失敗を待っていた古参貴族どもは、前世で積んだ経験と鉄腕のやり方で黙らせた。
ヴァリアンが寄越した秘銀鉱脈の共同開発権が、流れを変えた。
わずか三か月。破産寸前だった国は息を吹き返し、国庫は潤い、穀物備蓄は満ち、国境の守りも固まった。市場では新女王の手腕が噂になり、吟遊詩人までが私を讃える歌を口ずさみ始めたほどだ。
祝典が終わると、各帝国の使節は次々と王都を去っていった。残っているのは龍の帝国の使節団――正確には、ヴァリアン本人だけ。
「秘銀鉱脈の開発進捗を視察する」と言いながら、実際は数日おきに王宮へ顔を出し、共同事業の点検だの何だのと口実をつけて居座る。
私は復興した穀物倉庫、新たに開いた交易路、整え直した軍営を案内した。彼は私の隣を歩き、時に頷き、時に助言を落とす。
あるとき、厄介な領主同士の紛争を片づけたあとで、私は疲れ切って回廊の石柱にもたれた。
彼が水の入った杯を差し出す。
「よくやったな。あの頑固者どもも、おまえには逆らえない」
私は笑った。
「従ってるのは私じゃない。規律よ。あの人たちがいちばん大事にするのは、それ」
ヴァリアンの口元がわずかに持ち上がった。彼が笑うのを見たのは、そのときが初めてだった。
その日、私はヴァリアンと王宮の庭園を歩きながら国境防衛について話していた。すると腰に下げた通信水晶が、ぶるりと震えた。
アデレードの信号。
魔力を流し込んで起動すると、甲高い声が飛び出してくる。
「なんで返事しないの?! わざとなの?!」
「用件だけ言って」
「人間帝国、最近うまく回ってるんでしょ。忘れないでよ。私が狼人帝国に嫁いで同盟を繋ぎ止めたから、あんたは他国に呑まれずに済んだの。私に借りがあるのよ!」
前世では彼女が帝国を傾け、今世では彼女が嫁いだ隙に私が帝国を立て直した。どう転んでも、その勘定が彼女の手柄になるはずがない。
「それで?」
「だから補償しなさい。まず金貨五千枚送って。必要になったら、そのたびにまた出してもらうから」
金貨五千。頭でも殴られたのか。
「アデレード。あなた、アッシャーとあまりうまくいってないって聞いたけど?」
「うまくいってるに決まってるでしょ! あんたと違って、私にはちゃんと伴侶が――」
「じゃあ、どうしてまだ印をつけてないの?」
狼人の伴侶の印は永久で、神聖で、部族がその相手を正式に認めた証だ。なのに、アッシャーがアデレードに印をつけたという話は一度も耳にしていない。つまり彼女の立場は、狼人の中で危うい。
水晶の向こうで、アデレードが癇癪じみた悲鳴を上げた。
「でたらめ言わないで! 彼は……彼は、ただ……タイミングが……!」
「へえ」
私は通信を切った。
ヴァリアンがこちらを見て、また口元を少しだけ上げる。
「狼人の習俗に詳しいな」
「この仕事してたら、他人が知らないことくらい知っておかないと」
あの通信のあと、アデレードはしばらく大人しくしていた。
――家族の私的な宴会の日までは。
父上が、家族の中枢だけを集めた小さな宴を開いた。アデレードが狼人帝国から戻ってきたのだ。嫁いで以来、初めての里帰り。
彼女は三十分遅れで現れ、部屋に入るなり妊娠したと宣言した。
豪奢なドレスに身を包み、腹はまだ平らなのに、しきりに撫で回す。まるで腹の子が未来の新たな狼王であり、自分に無上の栄光をもたらす切り札だと言わんばかりに。
席に着くと、優越の滲む口調で言った。
「女が命を削って国を治めて、何の意味があるの? はっきり言って人生の無駄よ。本当に高貴な女性は、夫を支えて子を育て、帝国の血を繋ぐべきなの。あなたを見なさい。毎日貴族の揉め事だの国境の衝突だの、危ないことばかり。いつになったら私みたいに、強い帝国に守られる立場になれるの? ……あ、そうだった。まだ独り身だったわね」
私は返さなかった。
初夏だというのに、宴会場の魔法水晶は涼やかな光を放っている。それなのにアデレードは重たい長袖のドレスを着込み、首元まで煌びやかなネックレスとスカーフで隙間なく覆っていた。
化粧もいつもより濃い。特に手首と首筋は、ファンデーションが不自然なほど厚い。
母上が眉をひそめる。
「こんなに暑いのに、その格好で苦しくないの?」
アデレードは微笑んだ。
「母上、妊娠してから身体が弱くて。治療師に冷えに気をつけろって言われたの。全部、この子のためよ」
正々堂々と言い切り、わざと私を一瞥する。まるで「母になる偉大さを知らないのね」とでも言いたげに。
私の視線は、ドレスの裾から覗いた足首へ落ちた。そこには、はっきりとした痣が一本。縁は黒ずんでいる。
「アデレード。スカートの下、それは何?」
