第4章
当然、事情の筋はわかっている。狼人大帝国は各国の使節の面前で面目を潰し、秘銀鉱脈という莫大な利益まで失った。しかもアッシャーは権力と資源を何より重んじる男だ。だからその怒りの矛先が、アデレードに向かうのは当然だった。
アデレードは血の気の引いた顔で、即座に話題を逸らす。
「そんなにわたしのことが気になるなら、自分の心配でもしたら? 見てよ、国を治めるのに必死で、伴侶すらいないじゃない。わたしは一応、夫も子どももいる。あなたは? たった一人でしょう」
彼女は首を振った。まるで、それが私には永遠に手の届かない夢だと言わんばかりに。
その瞬間、脳裏を影がよぎった。
冷ややかな横顔。ふとした拍子に口元だけを釣り上げる、あの目。低く響く声。
龍の帝国の王であるはずの彼が、なぜ自国へ戻らず、ここにいるのか。忙しいはずなのに。どうしていつも、時間だけは——。
心臓が、理由もなく速く打ち始めた。私は慌てて、その考えを振り払う。
しばらくして、宴会場の扉が唐突に押し開けられた。アッシャーが数名の狼人護衛を引き連れ、大股で入ってくる。
私はグラスを置いた。
「ここは家族だけの私的な晩餐です。アッシャーが来る理由は?」
父上がすぐに立ち上がる。
「アッシャーはアデレードの夫だ。家族みたいなものだろう。私が招いた」
父上の視線は泳ぎ、私をまっすぐ見ようとしない。
晩餐は、異様な空気のまま続いた。アッシャーはアデレードの隣に座りながら、時おり私へと視線を滑らせる。
食事が終わると、私はアッシャーとともに書斎へ向かった。人間帝国と狼人大帝国の貿易協定について話し合うためだ。扉の外には狼人の護衛が数名、陣取っている。
書斎の扉が閉まった瞬間、アッシャーは仮面を脱いだ。
「お前は賢い。なら理解しているはずだ。今の人間帝国には、俺たち狼人大帝国の後ろ盾が必要だろう」
距離が近すぎる。私は一歩退いた。
「要点を言って」
アッシャーが笑う。
「アデレードは懐妊中で、いろいろ不自由だ。だが同盟には、関係を繋ぐ人間が必要になる。お前が俺の伴侶になれ。そうすれば狼人大帝国は人間帝国に一切の脅威を与えない。最高の取引だ」
伸びてきた手が、私の頬に触れようとする。
私はその手を叩き落とし、掌に魔力を集めた。霜が薄く結晶していく。
「寝言は寝て言え」
アッシャーの口元が歪む。
「公平な取引だ。お前が従えば人間帝国は守られる。それに……俺はお前が思っている以上に、女の扱いを知っている」
前世の光景が、脳内で何度も反芻された。怒りが理性を焼き切る。
次の瞬間、掌の魔力が炸裂し、氷の槍がアッシャーへ一直線に突き刺さった。
反応は速い。狼人の本能が致命の一撃を躱したが、肩口に赤い線が走った。アッシャーが唸り、暗がりで金色の縦長の瞳がぎらつく。
私は止まらない。炎、氷霜、風の刃——間髪入れずに叩き込む。
だがアッシャーは狼王だ。化け物じみた肉体は魔法を受けてもなお、傷は浅い。
「この狂った女が!」
肩を押さえたアッシャーの瞳に、剥き出しの殺意が宿る。
書斎の扉が勢いよく開いた。父上、母上、アデレードが駆け込んでくる。
「なにやってるの?!」
アデレードが金切り声を上げ、アッシャーへ飛びつくようにして傷を確かめる。
「その人はあなたの義兄よ! 二国の同盟を壊す気?! 小さいころから、あなたはわたしのことが気に入らなかった。今わたしが妊娠してるのに、それでも夫を殺すつもり?!」
私は鼻で笑った。
「先に私に手を出したのはあちらです。父上、今すぐ宮廷衛隊を集めてください。勝手に入り込んだ者たちを追い出して」
父上は、黙ったままだった。
母上が、罪悪感を滲ませた声で言う。
「ブリン……アッシャーの言うとおりよ。あなたはいずれ、政略結婚で二国の関係を固めなきゃならない。もしあなたが彼の伴侶になれば……人間帝国は安全になるの」
背骨を氷で撫でられたような寒気が走る。
信じられなかった。
「……何を、言っているの?」
アデレードが、苦渋の決断をしたとでも言いたげに息を吐く。
「あなたのためよ。わたしは姉として、人間帝国が狼人大帝国に呑まれるのを黙って見ていられない。アッシャーが……あなたを望んでいるなら、そうしましょう。狼人は伴侶を複数持てる。あなたは狼人大帝国に来て、わたしが真の女王になるのを支えて。そうすれば同盟も守れるし、人間帝国も守れる。全部、あなたのため」
冗談じゃない。
私は父上を見た。
「父上……?」
父上は、なお沈黙した。
その沈黙は、どんな言葉よりも致命的だった。
アッシャーが肩を押さえたまま嗤う。
「聞いたな。お前の家族は全員賛成だ。抵抗して何になる? 狼人大帝国の庇護がなければ、周辺の帝国はいつでもお前たちを食い尽くす!」
頭が高速で回る。
祝宴でアデレードは龍の帝国を怒らせた。狼人大帝国は秘銀鉱脈を失い、損失は甚大。
アッシャーが欲しいのは私ではない。人間帝国を握ることだ。私を伴侶にすれば、私を通して人間帝国全体を操れる。
アデレードは妊娠中に寵愛を失うのが怖い。アッシャーを繋ぎ止める誰かが必要で、しかも都合よく動かせる相手——たとえば、実の妹。
父母はどうか。彼らが欲しいのは帝国の安全と同盟の安定だけ。娘がどんな目に遭うかは、関係ない。アデレードの足首の傷痕を見ても見ぬふりをしたのと同じだ。最初から、気にしていない。
彼らにとって娘は道具だ。交渉のための駒。必要なら差し出せる生贄。
——だから、最初から決まっていた。私を差し出すと。
私は、この「家」と呼ばれる空間を見回した。
父上は俯き、母上は申し訳なさを滲ませながらも揺るがない。アデレードは「あなたのため」と言い張る偽善の顔。アッシャーは傷を押さえ、私が折れるのを待っている。
私は腰元へ手を伸ばし、龍紋の水晶を取り出した。
その動きを見た瞬間、アッシャーの顔色が変わる。
「止めろ!」
狼人の護衛たちが一斉に私へ突進してくる。
私は指に力を込め、水晶を握り潰した。砕けた欠片が掌の中で眩い光を放つ。
目を閉じ、残った力のすべてを声に乗せる。
「……助けて」
