第6章 それなら防犯カメラを調べよう
不意に割って入った声に、二人とも一瞬、動きを止めた。
我に返った夏川翔太の表情がみるみる冷え、濃い眉が苛立ちに歪む。
「西村智也……お前、俺に喧嘩売ってんのか?」
「喧嘩だなんて、とんでもない。俺、身内には甘いんでね。俺のマネージャーに手ぇ出すってんなら、さすがに黙って見てられません」
西村智也は相変わらず気だるい口調のまま、しかしその一言一言が、火に油を注ぐみたいに翔太の神経を逆撫でした。
「……何だと?」
まずい、と希美は瞬時に判断し、西村智也の背中を小さく押して後ろへ下がらせる。声を落とし、焦るように囁いた。
「西村智也、これは私と夏川翔太の問題。あなたは関係ないから、先に行って。あとで私から連絡する」
「関係ないわけないだろ」
西村智也は一歩も退かない。あろうことか、希美の手首を掴んで離さなかった。
「希美。お前は今、うちの事務所の人間だ。社長が社員が理不尽に扱われてるの、見て見ぬふりすると思う?」
「……だからって」
「安心しろ。うちの社長が、ちゃんと筋は通してやる」
断言されるほど、希美の胸は逆に締めつけられた。
夏川翔太は、西村智也が軽々しく噛みついていい相手じゃない。せっかく手に入れた仕事だ。社長まで巻き込んで台無しにしたくない。
けれど、そのやり取りの外に置き去りにされた翔太の怒りは、静かに、しかし確実に濃くなっていく。
目の前で「引っ張り合う」二人を見つめ、瞳の底に冷えたものが滲んだ。
「……いい加減にしろ」
低い声が落ちる。
「希美。3秒やる。戻ってこい。何もなかったことにしてやる。……それが嫌なら、容赦しない」
凍るような圧が、じわじわと周囲へ広がった。
希美は眉を寄せ、うんざりしたように笑う。
「夏川翔太、話通じないの? 戻るわけないでしょ。諦めて」
そして、口元に薄い嘲りを浮かべた。
「それとも、あれだけ大きい夏川グループなのに、使える人材が見つからないから……『元奥さん』にいつまでも執着してるの?」
「希美!」
翔太は目を剥き、手を伸ばして掴もうとする。
希美は身をひねってするりとかわし、声を冷やした。
「私に構ってる暇があるなら、あなたの愛人でも慰めたら? あの人、今にも壊れそうな顔してる」
翔太がはっとして振り返る。
少し離れたところに伊藤沙梨が立っていた。涙を溜めた目でこちらを見て、どうしていいか分からないまま、頼りなく震えている。
翔太は伸ばしかけた手を引っ込め、数歩で沙梨のもとへ行くと眉をひそめた。
「どうして降りてきた。車で待ってろって言っただろ」
沙梨は翔太から目を離さず、かろうじて笑みを形にする。
「日向がトイレに行きたいって言うから、連れてきたの。……ついでに少しだけ近くを見てただけ。邪魔、しちゃった?」
「してない。外暑いし、中入ろう」
そう言って沙梨の肩を抱き、希美へ視線だけを投げる。
「希美。今日のことは終わってない。あとで必ず話をする」
言い捨て、翔太は沙梨を連れて足早に去っていった。
希美はその背中を見送りながら、目の奥に薄い自嘲を浮かべた。
結婚して7年。翔太は一度も、妻として堂々と自分を隣に立たせてくれなかった。
それなのに今は、人目のある場所で、別の女を大事そうに庇っている。
……滑稽なくらい、刺さる。
西村智也のオーディション自体は終わっていたが、今回は少し特殊らしく、さらにもう一段、選考があるという。
希美は彼のジャケットを抱えたまま廊下に立ち、俯いてぼんやりしていた。
コツ、コツ、と足音。
視界に、つややかなハイヒールが止まる。次の瞬間、耳元で甘い声が弾んだ。
「痛い目を見たはずだと思っていたけれど……まだ懲りてないのね。退職したくせに、恥もなくのこのこ顔出して」
甘さに悪意が混じって、やけに耳障りだった。
希美は眉間を押さえたくなるのを堪え、顔を上げる。
……本当に、どこまで追ってくるの。
伊藤沙梨の目を真正面から捉え、冷えた声で返す。
「耳が悪いの? それとも目が悪い? 絡んできたのは夏川翔太のほうだったって、見えなかった?」
「伊藤沙梨。あなたみたいに、ゴミを宝物扱いする人ばかりじゃない」
言い切って、踵を返す。
「私に噛みつく暇があるなら、離婚協議書にサインさせる方法でも考えたら? そうしたら、夏川夫人の席はあなたのものよ」
沙梨の顔色がみるみる悪くなるのを横目に、希美はそのまま歩き出そうとした。
だが、沙梨が突然、行く手を塞ぐ。
「そんな言葉で誤魔化せると思わないで。同じ女だもの、あなたが何考えてるかくらい分かる」
ぎらついた目で言い切り、さらに一歩、希美の方へ詰める。
「希美。小細工なんて通用しない。あなたが私に勝てないって、思い知らせてあげる!」
吐き捨てた次の瞬間、沙梨は希美の背後へ視線を投げ――そのまま身体を反らせるようにして倒れた。
……は?
また何の芝居。
希美が息を吐く間もなく、肩をどん、と強くぶつけられる。
大人と子ども、二つの影が希美を追い越し、倒れた沙梨を囲むようにしゃがみ込んだ。
希美が体勢を立て直した、その刹那。
小さな影が突進してきて、拳で希美の太ももを何度も叩く。
「悪いママ! 沙梨おばさんを突き飛ばすなんて! ぶっ殺してやる!」
太ももに鋭い痛みが走る。
けれど、もっと痛かったのは胸の奥だった。
希美は俯き、怒りで顔を赤くした夏川日向を見下ろす。小さな拳を掴み、冷え切った声で問う。
「……今なんて言った? この女のために、私を殺すって?」
希美の力が強いのか、それとも視線があまりに冷たいのか。
日向は一瞬、言葉を失い、唇がわずかに震えた。
だが次に、翔太の不機嫌そうな声が割り込む。
「日向は間違ってない。悪いことをしたら罰を受けるのは当然だろ」
翔太は眉を寄せ、希美を責めるように続ける。
「希美、お前は子ども以下か? 日向は心配して言葉が過ぎただけだ。そこまで目くじら立てることか」
「そうだよ! ママが悪いんだから、沙梨おばさんに謝れ!」
日向は翔太の言葉に勢いづき、希美の手を振りほどいて翔太のそばへ逃げるように戻った。
翔太と日向、そして沙梨。
三人が寄り添う光景は、やけに「家族」らしくて、眩しいほど不快だった。
希美はそれを見つめて、ふっと笑う。
「夏川さん、教育熱心ね。先生にでもなればよかったのに」
そして、淡々と言い切った。まるで天気の話でもするみたいに。
「でも、あなたの言う通り。私、較真だから」
「日向が伊藤沙梨のことが大好きで、私が嫌いなら――伊藤沙梨の子になればいい」
翔太の胸が、どくん、と嫌な音を立てた気がした。
希美の背中が遠ざかるのを見て、何か大事なものが抜け落ちそうになる。苛立ちまぎれに髪を掻き上げ、翔太は声を荒げた。
「希美! 沙梨とはただの友だちだって何度も言ってるだろ。嫉妬するのもいい加減にしろ!」
そして沙梨を抱き起こしながら続ける。
「病院に連れて行く。一緒に来い。沙梨が目を覚ましたら謝れ。そうしたら最近のお前の非常識も全部水に流してやる。だが、その後は――」
「夏川翔太」
希美が振り返る。瞳は静かで、冷え切っていた。
「あなた、本当に重症ね。耳も心も目も、全部腐ってる」
言葉を切り、はっきり叩きつける。
「私は触ってない。なのに、なんで私が謝るの?」
翔太の顔が歪む。
希美は背筋を伸ばし、少し先の天井角にある監視カメラを指さした。
「私の言葉が信じられないなら、防犯カメラを確認して」
