第7章 沙梨おばさんは浮気相手なのか?
希美の口調はきっぱりしていた。彼女は自分から受付へ向かい、スタッフに声をかける。
夏川翔太の胸に渦巻く、言葉にできない感情が、じわじわと濃くなっていった。
だが整理する間もなく、希美はノートパソコンを抱えたスタッフを連れて戻ってくる。
先ほどの防犯カメラ映像がコマ送りで再生され、夏川日向は目を見開いたまま、唇を震わせた。
「ママ……沙梨おばさんに触ってない。ぼくたち、ママのこと……疑っちゃった……」
夏川翔太もまた複雑な顔で希美を見る。唇がひくひくと動き、何度も言葉を探して――結局、出てこない。
希美はそれを見なかったことにするように、スタッフへ丁寧に礼を言い、見送った。それから父子に視線を戻す。冷えた目だ。
「これで真相ははっきりしたよね。さっき私を疑ったこと、ふたりとも謝るべきじゃない?」
夏川翔太も夏川日向も、表情だけが揺れている。沈黙が落ちたまま、肝心の言葉は最後まで出なかった。
「希美、俺は……」
「ん……っ」
ふいに、甘い喘ぐような声が空気を裂いた。
翔太が見下ろすと、伊藤沙梨が眉を寄せ、ゆっくりと目を開けていた。血の気のない頬に、痛みだけが浮かぶ。
「翔太……頭が……すごく痛い……病院、連れてってくれる?」
こめかみに指を当て、下唇をきゅっと噛む。弱々しく、可哀想なくらいに。
翔太は頷かなかった。代わりに、関係のない問いを投げる。
「沙梨。さっき、どうして倒れた?」
沙梨はこめかみを揉む手を止め、きょとんと首を傾げる。
「朝、何も食べてなくて……低血糖、だったのかも……」
言いながら、瞳の奥に涙をためた。
翔太は眉を寄せる。初めて、それを鵜呑みにしない顔だった。
「本当に、低血糖だけか?」
沙梨の表情に、薄い傷つきが滲む。
「翔太……私、疑ってるの?」
言い終えた途端、場の空気を察したように目を大きくして、
「え……翔太、まさか希美さんのこと、誤解してたの……?」
翔太は答えない。顔だけが、妙にいろいろ物語っていた。
希美はその白々しい驚き顔を眺め、堪えきれずに冷たく笑う。
「伊藤さんの体って本当に便利ね。倒れたいときに倒れて、起きたいときに起きる。そりゃ芸能界でもうまくやれるわけだわ」
遠慮の欠片もない。沙梨の目が一気に赤くなる。
「希美さん……私、何かしましたか? どうしてそんな言い方……」
泣きそうな声で、徹底的に被害者の形を作る。
それに気づいたのか、周囲の視線がちらほら刺さる。希美は内心で舌打ちした。
さっき沙梨が自分を陥れた場面は誰も見ていない。なのに今は、見物人ができている。下手をすれば、明日にはまた不利な噂が流れる。
自分ひとりなら構わない。けれど今の彼女は、西村智也のマネジャーだ。迷惑はかけられない。
迷うのは二秒で終わった。希美は三人からすっと距離を取る。
「泣かないで。私は何もしてないし、いじめてもいない。……私、帰るわ。どうせまた『冷たい女』って言われるのがオチでしょ」
そう言って立ち去ろうとした、そのとき。
黙っていられない人がいた。
伊藤沙梨が、翔太の腕の中から降りようと身をよじる。焦った声。
「翔太、希美さん……私を抱いてるから怒ってるんじゃ……? お願い、下ろして。誤解があるのに、これ以上誤解されたくない……!」
無理に降りる。足が床についた瞬間、ふらり――前のめりに崩れた。
「っ……」
翔太が慌てて抱きとめ、きつい声で叱る。
「倒れたばかりだろ。まだ治ってない。無茶するな」
沙梨は頬を赤らめ、「うん……」と小さく頷いた。さらに不安げに希美を見る。
「でも、希美さん……」
翔太も釣られて顔を上げ、希美の目とぶつかる。
その目は、嘲りを隠していなかった。
さっきまでの罪悪感が一瞬で消え、翔太の口調はいつもの責めに戻る。
「希美、いい加減にしろ。沙梨は今、具合が悪いんだぞ。刺激するようなこと言うな」
希美は言い返す気力すら湧かず、ただ白目で天を仰いだ。
そのとき、防犯カメラを見てからずっと黙っていた夏川日向が、ふいに口を開く。
「間違えたの、ぼくたちだよ。ママは何もしてない。ママが正しいのに、なんでパパはママを怒るの?」
子どもの澄んだ声が、ぴんと空気を張った。
その場にいた全員が言葉を失い、数秒、妙な静けさに包まれる。
そこへ、オーディションに来たらしい母子が横を通り過ぎた。
母親が優しく息子へ顔を寄せる。
「見て、あの日向くん。勇敢だねえ。ママを守ってくれるんだって。碧も、ママを守るいい子になれる?」
「なる! 碧もママ守る!」
その子どもの声は、まるで鈍い槌で日向の胸を殴った。
日向が思わず目で追うと、母親は子を抱き上げ、碧と呼ばれた子はそのまま首に腕を回し、頬にちゅっとキスをする。二人は楽しそうに笑った。
その親密さを見て、日向の頭がふわりと白くなる。
自分と希美の間に、あんな温度はあっただろうか。
希美が抱きしめようとしたときも、キスしようとしたときも、いつも自分は嫌そうに押しのけてきた。
――本当に、嫌いだった?
違う。
じゃあ、どうして。
どうして自分は、母親にあんなにも冷たく、距離を取ってきたのだろう。
日向の小さな顔に、迷いがにじむ。
彼は希美を見る。希美もまた、去っていく母子の背に目を奪われていた。羨望と――日向には読み取れない、何かがその瞳の底に沈んでいる。
だが日向がそれを見極める前に、希美は視線を切り、冷めた声を落とした。
「用がないなら、私は帰る。邪魔しないでしょ、あなたたち家族三人の時間」
足早だった。背後に猛獣でもいるみたいに。
「ママ……!」
追いかけようとした日向は、沙梨と翔太に呼び止められる。結局、希美が消えていくのを、ただ見送るしかなかった。
病院。
翔太は眉を深く寄せ、伊藤沙梨を診ている医師に、念を押すように尋ねた。
「先生、もう一度よく見てください。本当に、体に異常はないんですか?」
医師は根気よく再検査し、検査結果にも改めて目を通す。鼻の眼鏡を押し上げてから、落ち着いた声で言った。
「お嬢さんはとても健康ですよ。特に問題は見当たりません。頭痛や失神は、睡眠不足か、強いストレスが原因でしょう。しばらくしっかり休めば、回復します」
丁寧な説明だったが、翔太の眉間はむしろ深くなる。
医師を見送ったあと、翔太はベッド脇に腰を下ろし、何気ない調子を装った。
「沙梨。低血糖って、いつ頃から? 普段は何か対策してるのか」
沙梨の口元の笑みが一瞬だけ固まる。視線がわずかに泳いだ。
「前から……少しは、ね。いつも飴を持ち歩いてるの。今日は急いでて、忘れちゃっただけ」
「そうか」
翔太の声には、消えない疑いが混ざっていた。
沙梨は笑みを引っ込め、目尻を赤くする。
「翔太、やっぱり……私を疑ってる?」
「違う」
翔太は顔を背け、淡々と続けた。
「心配してるだけだ。だって前は、そんなこと言わなかっただろ」
沙梨は唇を噛む。
――まずった。今回は、翔太に引っかかれた。
すぐに頭を切り替え、寂しげな声音を作る。
「海外に長くいたでしょ。たぶん、水が合わなかったのかも。大丈夫、すぐ治るよ」
計算通り――過去を匂わせた瞬間、翔太の瞳は容易く凪いだ。彼は沙梨を抱き寄せ、慈しむように慰め始めた。
その横で日向は、翔太の胸に寄りかかり、甘えるように振る舞う沙梨を見つめていた。
なにかが――おかしい。
眉を寄せ、必死に考える。やがて、日向は顔を上げた。真剣な目で、沙梨に問いかける。
「沙梨おばさん……あなたって、浮気相手なの?」
