第8章 おめでとう、願いが叶ったな

「日向! デタラメ言うんじゃない!」

病室がしん、と数秒沈黙したあと、いちばん先に我に返ったのは夏川翔太だった。顔を険しくして、鋭く叱りつける。

「自分が何言ってるか分かってんのか? しつけはどうした」

伊藤沙梨も翔太の腕の中からそっと身を引き、目尻を赤くした。

「翔太、日向を責めないで。まだ小さいんだよ、そんなこと分かるわけないじゃない」

顔を背け、声を詰まらせる。

「分かってる……希美さんが私のこと好きじゃないの。でも、日向は無関係なのに。まだこんなに小さいのに……」

――つまり。日向にそんな言葉を吹き込んだ“誰か”がいる、という含み。

翔太の視線が日向へ刺さり、声が低く沈む。怒りを押し殺した、湿った響き。

「希美だろ。やっぱりな。あいつが大人しくしてるわけない……」

翔太は勢いよく立ち上がり、スマホを取り出して希美を問い詰めるつもりで――

「ちがう! ママじゃない! パパ、ママを怒らないで!」

小さな手が必死に翔太の腕を掴んだ。日向の幼い顔は真剣そのものだ。

スマホを出しかけた翔太の動きが止まる。意外そうな目。

――いつもなら、日向は希美をかばったりしない。今日は、どうした?

沙梨は慌てて日向を自分のそばへ引き寄せる。

「私も信じてるよ。きっと希美さんが教えたんじゃない」

「うん! ぼくが、自分で思ったの!」

日向は何度も頷き、食い下がるように問いを続けた。

「じゃあ、沙梨おばさんは浮気相手なの?」

「沙梨おばさんは浮気相手じゃないよ。もうそんなこと言って、沙梨おばさんを悲しませちゃだめ」

それでも日向は引かなかった。どうしても答えがほしい顔で、真っ直ぐ翔太を見る。

「じゃあ沙梨おばさん、これからぼくのママになるの?」

翔太の表情が、いっそう複雑に歪んだ。けれど声だけは妙にきっぱりしている。

「ならない。お前のママは希美だけだ。今はちょっと拗ねてるだけで、すぐパパが機嫌を直させる」

「……よかった!」

欲しかった言葉を聞けた途端、日向はようやく息をつき、翔太の手を引いて病室の外へ向かった。

「パパ、沙梨おばさん体調悪いんだよね。何か食べるもの買ってこよう」

翔太は断らず、沙梨に軽く頷いて日向と一緒に出ていく。

扉が閉まった瞬間。

伊藤沙梨の表情から、作り物のやわらかさがすべて消えた。ぎり、と歯を噛み、手の届くものを片っ端から床に叩きつける。

「……クソガキ。ほんっと、あの女そっくりでムカつく」

胸の奥で毒づきながら、目がすうっと細くなる。口元に、冷たい笑みが浮かんだ。

スマホを取り出し、短い文面を打ち込んで送信する。

――希美。恨まないでね。あんたが邪魔だっただけ

――あんたが死ねば、私は安心できる

――だから、死んで

……

検査の結果、沙梨の身体には大きな異常はなく、ほどなく退院となった。

翔太は「また何かあったら」と気にして、そのまま彼女を自宅へ連れて帰る。

玄関を入るなり、使用人が駆け寄ってきた。

「若様。奥様が、若様は胃がお弱いからと、週に一度は薬膳を作るよう言いつけておりまして。ちょうど煮えたところです。今、お召し上がりになりますか?」

翔太の身体が、ぴくりと止まる。反射的に室内を見回した。

「希美は?」

使用人の顔が強張り、視線が泳ぐ。

「奥様は……お戻りになっておりません」

翔太の顔が一気に沈み、瞳の奥に怒りが燻る。

その様子を見て、沙梨がさっと前に出た。心配そうな声を作る。

「希美さん、私が来るって聞いて怒っちゃったのかな……翔太、だったら私、帰ったほうがいいよね。私のせいでまた揉めたら――」

「いい」

翔太は冷たく切り捨てた。

「揉めたいなら揉めさせとけ」

「でも……私のせいで夫婦喧嘩になるの、さすがに心が痛むよ」

困ったふりをしながら、沙梨の口角はわずかに上がっている。

見かねた使用人が、堪えきれず口を挟んだ。

「若様。奥様は、先日のパーティーのあとお出かけになってから、ずっとお戻りではありません。私どもは、奥様が残された決まりに従っているだけで……」

そう言って懐からノートを取り出す。

「若様の胃に合う薬膳を見つけるために、奥様はたくさんの処方を調べておられました」

翔太はノートを受け取り、わずかに目を見開く。

細かな文字がびっしりと並ぶページ。胸の内で、何かが渦巻く。

「……これ、全部、希美が?」

「はい」

使用人がさらに言いかけた、その時。

沙梨がぴたりと翔太に寄り添った。

「翔太、よかったね。希美さん、やっぱり翔太のこと好きなんだよ。今回はちょっと拗ねてるだけ。数日したら、私がプレゼント選ぶの手伝うよ。翔太が謝りに行けば、きっと帰ってくる」

どこまでも“あなたの味方”の顔。無害な笑み。

翔太は小さく口元をゆるめ、「……ああ」と短く返すと、ノートを持って二階へ上がっていった。

翔太の背が消えた途端、沙梨の笑顔がすっと消える。冷えた目で使用人を見下ろした。

「薬膳、こっちにちょうだい。私が翔太に持っていくから」

使用人は渋っていたが、沙梨から『夏川家を去ることになるわよ』という冷徹な通告を受け、沈黙した。最終的にその身分を盾にした脅迫に屈し、彼女は震える手で薬膳を差し出した。

沙梨は受け取ってすぐには上がらず、薬膳の写真を撮り、どこかへ送った。

……

その頃、希美は書類を整理していた。スマホがぶるぶる震える。

画面を開くと、見慣れた薬膳の椀が映っていた。添えられた文。

『希美さん、ちょっと胃が痛くて。翔太に薬膳を作らせたんだけど、味がなんか違うの。悪いけど、戻ってきて作ってくれない?』

最後に、ふざけた絵文字。

画面越しでも、沙梨の得意げな顔が浮かぶようだった。

希美は息を吸い、問い詰めようとした――が、すぐに別の通知が跳ねる。

家族三人のグループチャットに、知らない参加者が増えている。いや、知らないはずがない。

伊藤沙梨。

希美は無視するつもりだった。だが沙梨はわざわざ名指ししてくる。

『@希美さん これからよろしくね』

希美は画面を見つめたまま、しばらく指一本動かなかった。

やがて、ゆっくりと文字を打つ。

『おめでとう。思いどおりになってよかったね』

送信すると同時に、希美はグループを退出した。

それでも、書類を持ち直した手が微かに震える。

七年、必死に守ってきた家だ。手放すと決めたからといって、平気でいられるはずがない。

希美は仕事をなんとか片づけ、西村智也に一言だけ告げて退社した。

だが――タクシーを降りた瞬間、手首を乱暴に掴まれる。

「――っ!」

叫ぼうとした口を塞がれ、鼻と口を押さえつけられたまま、薄暗い路地へ引きずり込まれた。

希美は必死に暴れ、腕を振り回す。乱れた動きの中で、何かを掴んだ気がした次の瞬間、

どんっ。

身体が投げ飛ばされ、地面に叩きつけられる。

「クソ! 思ったより力あるじゃねえか!」

頭がぐらぐらする。けれど希美は歯を食いしばり、ふらつきながらも立ち上がって走った。

走りながらスマホを取り出し、緊急連絡先を押す。

すぐ繋がった。だが返ってきたのは、甘ったるい女の声。

「希美さん、翔太に用? 今お風呂入ってるから、出られないよ」

――風呂?

希美の頭が真っ白になる。ほんの一瞬、足が止まった。

その一瞬で、背後の男が追いつく。

どん、と重い衝撃。蹴りが希美の背中を突き飛ばし、彼女は前のめりに倒れた。

スマホは勢いよく転がり、遠くへ跳ねる。

「……っ!」

視界が回る。起き上がろうとした髪を、男が乱暴に掴んで引き上げた。

「逃げろよ。どうした、逃げねえのか?」

下卑た笑い声。男の手が、希美の身体を這う。

希美はもがくが、びくともしない。涙が滲む。

腕で必死に胸元を隠し、叫んだ。

「やめて! お金なら出す、出すから! お願い、放して!」

「放す?」

男は腹を抱えて笑い、さらに力を込めた。

「ムダだって。お前の命に大金出した奴がいる。俺も金は好きだけど、仕事の筋ってもんは守るんだよ」

そう言いながら、男の視線がねっとりと希美を舐め回す。

「ま、送る前に一回くらい気持ちよくしてやっても――」

「やめろ!」

男が近づく。希美の胸の奥に、冷たい絶望が広がっていく。

――終わった。

そう思った瞬間。

耳元で、短い悲鳴が上がった。次いで、身体にかかっていた重みがふっと消える。

そして、聞き慣れた声が怒鳴りつけた。

「――失せろ!」

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