第1章
「こんにちは、周防さん。A市公安局の者です」
静かとは言いがたい大部屋に、どこか艶のある男の声が響いた。唐突ではないのに、その一声が、ベッドにもたれて窓の外をぼんやり眺めていた小原雪美の意識を引き戻す。
視線を戻し、ベッドの足元に立つ男女を見る。二人とも若い。二十六、七といったところか。
差し出された身分証を見つめた瞬間、小原雪美の頭がふっと揺れた。
意識を失う直前に覚えているのは、目の前で倒れた仲間と、周囲に弾けた火の海――それだけだ。
なのに目覚めたら、なぜか「周防雅子」という女になっていて、しかも場所はA市。
A市……。
小原雪美はゆっくりまばたきをする。
彼女が暮らしていた海沿いの観光都市とは違う。四季がはっきりしていて乾いた北方の街。空気にまで、どこか凛とした鋭さが混じっている。
「周防さん?」
若い男警官が、しばらく反応のない彼女に探るように声をかけた。表情は程よい気遣いだ。
「医師から聞きました。もう命の危険はなく、意識もはっきりしていると。どこか具合が悪いところは?」
小原雪美は小さく首を振り、かすれた声で問う。
「……あなたたち、何か用?」
この身体で目を覚ましてから、周防雅子の「友人」や「同僚」を名乗る人間が次々と見舞いに来た。おかげで、周防雅子が交通事故で頭を打ち入院したことくらいは把握できている。
小原雪美は額に手を当てた。網状の包帯が滅菌ガーゼを押さえていて、鏡を見なくても間抜けな姿だとわかる。
「桐生明瀬。周防さん、知ってますよね?」
男警官は問いながら、彼女の反応を観察するように目を細めた。
その名を聞いた瞬間、小原雪美の脳裏にぼんやりといくつかの映像が走る。断片的で、まとまりがない。
「……いえ」
言いかけたところで、男警官が被せてきた。
「こちらが把握している限り、周防さんと桐生明瀬は恋人関係でした。否定するつもりですか?」
「……」
小原雪美はわずかに首を傾げる。
この二人の態度で、霧がかかっていた思考が少しずつ澄んでいく。
――この場面、嫌というほど見慣れている。
現役の特殊部隊員として、容疑者を取り調べる側には慣れている。
だが、自分が容疑者として問われるのは初めてだ。
「すみません。頭が痛くて」
職業的な癖で、小原雪美はリスクを避けた。周防雅子の記憶はあまりに薄い。事故の後遺症なのか、そもそも中身が入れ替わったせいなのか――判断がつかない。
真相が見えないうちは、余計な誤解を招きたくなかった。
その返答を聞いた途端、ベッドの足元の二人は「やっぱり」という顔をした。男警官は身分証を懐にしまい、背後の女性警官に小声で言う。
「矢野隊長には連絡したか? まだ来ないのか」
女性警官も声を落とす。
「しました。矢野隊長、外で聞き込みしてるみたいで……急いで来るって」
男警官は腕時計を見て、ベッドの上で明らかに協力する気のない女を横目でうかがった。
二人とも配属されたばかりの新人らしい。事情聴取のコツも、まだ身についていない。
ここは四人部屋。ほかの患者と家族のひそひそ声が耳に入る。
だが小原雪美のベッド周りだけ、空気が妙に重く、固まっているようだった。
「周……」
男警官が口を開いた、その次の瞬間。
廊下の向こうから、凄まじい悲鳴が突き刺さった。
「きゃああああああっ!!」
「人殺し! 人殺しよ!」
ざわめき。乱れた足音。かすれた助け声と泣き叫ぶ声。
数秒で、若い警官二人は飛び出していった。
病室の中も一気に動く。歩ける者は皆、扉へ集まり、廊下をのぞき込む。危険がなさそうだとわかると、三々五々、廊下へ出て騒ぎ始めた。
「何があった?」
「向こう、人が多すぎて見えねえ……でも走って戻ってきた人が、誰か刺したって」
「嘘でしょ……」
「本当だって。血だらけだって……」
断片的な悲鳴の中、小原雪美は隣のベッドの、眠り続ける高齢の男をちらりと見た。唇を軽く結ぶ。
そして、すっとベッドを降りた。数日寝ていたはずの身体に、もたつきはない。
廊下に出ると、二百メートルほど先のナースステーションが見えた。人だかりの隙間から、さっきの新人警官の姿がかすかに見える。
小原雪美は病衣姿で、野次馬の群れに紛れれば目立たない。皆の意識はナースステーションの異変に吸い寄せられていて、彼女に注意を向ける者はいなかった。
そのまま彼女は人波をすり抜け、最前列へ。
病院の警備員が必死に群衆を押し止めている。
「下がって! みんな下がってください!」
怒鳴り声の中、小原雪美は首を伸ばし、ようやく状況を捉えた。
ナースステーションの奥。
男が壁を背にして、白衣の女医を抱え込んでいる。鋭いナイフが女医の首筋を裂き、細い傷口に赤い雫が滲んでいた。
女医は恐怖で泣き叫びたいのに、それすらできない。犯人の盾にされ、全身が小刻みに震えている。涙で顔がぐしゃぐしゃだ。
小原雪美は眉を寄せた。右手の指が無意識に擦れ合う。狙撃位置を瞬時に割り出す――が、銃がない。
視線を落とすと、犯人と女医の足元にもう一人、看護師が倒れていた。カウンターに遮られて詳しくは見えない。目を閉じ、顔は真っ青。出血がひどい。
床に広がる血溜まりが、その推測を裏づけていた。
「落ち着いて話そう! 頼む、衝動的になるな!」
新人の男警官が最前で必死に宥める。しかし一歩も近づけない。犯人の精神状態が不安定なのは明らかで、人質の安全が最優先だ。
女性警官は怯えて泣く看護師たちのもとへ行き、早口で尋ねる。
「どういうこと? あの男、知ってる?」
年上らしい面長の看護師が、ぐしゃぐしゃに頷いた。
「見覚えあります……たぶん患者さんの家族……でも、誰だろうが人を刺すなんて……!」
医療トラブルからの凶悪傷害か。
そのとき別の看護師が叫んだ。
「師長! 師長を助けて! 血が……このままじゃ死んじゃう!」
男警官は一度呼吸を整え、声を張る。
「なあ、名前は? どう呼べばいい!」
犯人は首を傾け、女医の肩越しにこちらを見た。細い目に凶暴さが満ちている。返事をする気はない。
「事情があるんだろ。やむを得ない理由が――」
男警官は言葉を選び、表情をさらに穏やかにした。
「でも人が死んだら、もう取り返しがつかない……」
「脅すなよ。俺はやるって決めたら怖くねえんだよ!」
犯人は吐き捨てるように言いながらも、顔を少しだけ前に出し、足元の倒れた看護師をちらりと見た。
そして目をぎょろつかせ、いやらしく笑う。
「助けたい? いいぜ。一命は一命だ。もう一人、看護師を寄越せ。人質にする」
看護師たちは悲鳴を上げて抱き合い、誰も前に出ない。
そのとき女性警官が堪えきれず、一歩踏み出した。
「私が代わる! 私を人質にして!」
だが犯人は突然、笑い声を漏らした。女医を締め上げ、陰湿に嘲る。
「警察を人質? お前が狂ってんのか、俺が狂ってんのか」
一人で先手を取ったからこそ、医療スタッフ二人を押さえられている。女警なんて相手にしたら、制御できるか怪しい。そんな博打は打てない。
女性警官は言い返しかけて、飲み込んだ。
焦燥が広がる中、野次馬の群れから女の声が上がった。
「……私と代わるのは、だめですか?」
小原雪美は警備員の制止を巧みにすり抜け、男警官と犯人の間へ進み出ていた。
「周防雅子?!」
男警官の顔に露骨な驚愕が走る。
「患者だろ! 何してる! 戻れ!」
小原雪美は、床の血に怯えたかのように固まった。柔らかな顔立ちに、怖さと善良さを混ぜた表情を作る。声にも震えを滲ませた。
「師長さんはいい人です……お願い、助けてあげて……!」
彼女が周囲の地形を測る間、犯人も彼女を値踏みしていた。
小柄で病衣、頭には分厚い包帯。歩き方もどこか頼りない。脅威には見えない。
犯人はナイフを女医の首に押し当てたまま、顎で合図した。来い、と。
周囲は息を呑む。
男警官が「だめだ」と言いかけ、踏み出しかけた右足も、女医の泣き声混じりの悲鳴に止められた。
女医が震えながら小原雪美の手足を縄で縛る。
縛り終えたところで、犯人は二人を引きずるようにして壁際へ下がった。
小原雪美は手足を縛られたまま乱暴に足元へ投げ捨てられる。
犯人は再び女医を盾にし、警察と病院側が瀕死の看護師を引きずり出すのを冷ややかに見ていた。
「助けたんだろ? じゃあ次は俺の要求だ」
男は脅すように笑い、女医の首をさらに切った。
「大村方則に会わせろ!」
「大村院長……?」看護師の一人が思わず声を漏らす。
同時に、犯人の足元でウサギのように丸まっている小原雪美は、視線を引き戻した。眉がわずかに動き、伏せた瞼が瞳の感情を隠す。
