第2章

「院長に電話しないのか!」

犯人が要求を口にした途端、周囲の医療スタッフは一斉に動き出した。だがすぐ、スマホを握った医師が顔面蒼白で叫ぶ。

「大村院長は今日、県の会議で出てるはずで……電話、全然つながりません!」

現場が再びざわつく中、若い男警官は小柄な女警の肩口へ身を寄せた。壁際の犯人の動きを視界の端で追いながら、歯を食いしばって小声を落とす。

「所轄の交番はあと何分だ。区局からの応援は?」

「どっちも向かってます。交番は……三、四分。区局の応援はもう少しかかるって」

「三分か……」

男警官の眉間の皺がさらに深くなる。胸の内は息が詰まりそうなのに、こんな大勢の前で弱さは見せられない。警察官になってまだ半年も経っていない。いきなりこんな修羅場に放り込まれて、頭が真っ白になりかけていた。

そのとき女警が、はっとしたように言った。

「そうだ、さっき矢野隊長が、もう下の駐車場に着いたって……たぶん、すぐ上がってくるはずです」

言いながら背伸びして、同じフロアのエレベーターの方を覗く。だが視界を埋めるのは黒い頭、頭、頭。何も見えない。

それでも男警官は、胸の奥でようやく息を吐いた。

矢野智――彼らにとって、あの人は「最後に頼れる柱」だ。少なくとも区局の応援が来るまで、時間を稼ぐことくらいは――。

そう思った、その直後。

壁際の犯人のいる一角が、ふっと揺れた。

「きゃっ――!」

女医の短い悲鳴。次の瞬間、視界がぶれるほどの勢いで、女医が投げ出される。よろめきながら前方のカウンターにぶつかり、呆然としたまま身動きが取れない。

カラン――。

金属が床に落ちる乾いた音が響き、群衆が息を呑む。壁際では二つの影が一瞬で絡み合い、もつれ合うように取っ組み合っていた。

「……あれ、まさか!」

女警が反射的に声を上げる。

男警官は目を見開きながらも、まず女医を引きはがして安全圏へ移動させた。振り返ると、壁際にはほどけたロープが散らばっている。

――見間違いじゃない。

派手な縞模様の病衣を着た周防雅子が、相手の油断を突いて縄を抜け、跳ね起きたのだ。匕首を握る手首を一気に押さえ込み、その勢いで人質を突き飛ばして逃がした。

数合の攻防の末、犯人は落ちた匕首の近くまで下がる。拾い直して、もう一度――その意図が見えた。

小原雪美はその瞬間を逃さない。相手が腰を落とした刹那、膝を折りたたむようにして――

ドンッ!

膝が男の顔面に叩き込まれた。

「ぐっ……あ゛っ!」

遅れて悲鳴。男は鼻を押さえてよろめき、二歩、三歩と下がったところで床に倒れ込む。涙が滲み、転げ回るたび指の隙間から暗い赤がじわりと流れ落ちた。

小原雪美は追撃しない。駆け込んできた男警官と女警が、もはや脅威になりきれない犯人を押さえつけるのに任せた。

それでも犯人は、倒れたままなおも暴れようとする。

小原雪美は視線を落とし、足を伸ばす。犯人の手元にあった匕首を、思いきり蹴り飛ばした。

シャララ……。

金属がタイルを滑る細い摩擦音。匕首は遠くへ走り、ある人物の靴先で止まった。

急ぎ足で来たはずのその男は、光景を見た途端、ゆっくりと眉を上げる。靴先の血のついた匕首を一瞥し――薄く笑った。

「矢野隊長!」

犯人をようやく制圧した男警官が、振り向いて叫ぶ。

ここから先は、小原雪美の出番ではなかった。後続の警察が現場を引き継ぎ、騒然としていた空気は、数人の指揮でみるみる整っていく。証拠の確保、聞き取り――すべてが手順通りに回り始めた。

まだ回復しきっていない患者であり、直前にあの騒動を経験したこともあって、小原雪美は他の目撃者のように廊下で待機させられなかった。病院側が簡易の処置室を用意し、そこへ通される。

しばらくして、穏やかな顔つきの中年医師が入ってきた。さっきの「行動」のせいか、態度はやけに柔らかい。検査の手つきも声も、必要以上に丁寧だった。

異常なしと確認すると、医師は二言三言を残して出ていった。

居心地のいい椅子に腰かけたまま、小原雪美は首を傾げる。扉に背を向けた横顔は、何かを考え込んでいた。

その扉の外。

矢野智が立っていた。

身長は190センチ近く、がっしりした体格。無精ひげが目立つのに、造作の良さが隠しきれない。粗野な雰囲気の中に、妙な色気がある。

だが今は、その背の高さが仇になっていた。彼は窮屈そうに背を丸め、扉の小窓から中の影を覗き込み、淡々と尋ねる。

「中の女が、桐生明瀬の元恋人……周防雅子か」

「はい。身元確認のとき、周防雅子がちょうど交通事故で入院してまして。俺が病院で確認しました。本人で間違いありません」

「陸田暁。さっきの刃物の立てこもり、もう一度最初から説明しろ」

矢野智が目を細める。

陸田暁は背筋を正した。

「はい、矢野隊長!」

…………。

十分あまりが過ぎて、処置室の扉が開いた。

小原雪美はまつげを小さく震わせ、予想していた感情をすっと引っ込める。顔には七分の好奇心と三分の困惑を貼り付け、さっきナースステーション付近で見た背の高い刑事を見上げた。

「周防さん、こんにちは。市局の矢野です」

矢野智は大股で近づき、向かいの椅子を引いて腰を下ろす。

小原雪美は礼儀正しく頭を下げる。

「矢野警察官。さっき同僚の方に聞かれましたけど……今の私じゃ、役に立つことは何も言えません」

周防雅子の記憶は、粘りのある不透明な膜に覆われているみたいだった。協力したくても、どこから話せばいいのかさえ分からない。

「分かってます。医師からも聞きました。頭部を強く打ってるなら、しばらく記憶が混乱したり抜けたりするのは珍しくない」

矢野智は想像していたほど強圧的ではなかった。懐から紙片を取り出し、机の上に差し出す。

小原雪美が受け取って開くと、そこには「矢野智」と、力強い字で書かれた名前。続けて数字が並んでいる。

「記憶が戻った、あるいは何か思い出した。そういうときは、できるだけ早く連絡してください」

矢野智は立ち上がり、見下ろすように言った。笑っているのに、目が笑っていない。

「桐生明瀬とは、付き合っていただけだとしても……警察に真相を突き止めてほしいと思ってますよね。周防さん」

――死んだ?

紙片をつまむ指が、わずかに動く。

目を覚ましたら、いきなり殺人事件の渦中。冗談みたいな話だ。

矢野智は彼女の反応を待つ気もないのか、そのまま扉へ向かう。だがノブに手をかけたところで、ふと動きを止め、振り返った。

「数日前に危篤の通知が出た患者にしては、今日の動きは出来すぎてる」

「手足を縛られて、あれだけ短時間で自由になれる」

「……格闘、やってたのか」

小原雪美は背筋を伸ばしたまま、微動だにせず答える。

「縛った先生が慌ててたんでしょう。結び目が甘かっただけです」

その返答に、矢野智は驚きもせず口角を上げた。

「さっきの犯人、身長も体重も……桐生明瀬と大差ないように見えたがな」

意味を含ませた一言を残し、矢野智は処置室を出る。

バタン、と扉が閉まり、室内はまた不気味な静けさに沈んだ。

小原雪美は瞬きを一つして、紙片を丁寧に病衣のポケットへしまう。

矢野智の言葉は、ほとんど宣戦布告だった。

警察の目には、周防雅子が桐生明瀬の死に深く関わっているように映っている。そして今日の「協力できない」という態度は、その疑いを濃くしただけだ。

小原雪美は息を吐き、ゆっくり立ち上がる。病室へ戻る足取りは、重かった。

五日後。

小原雪美はきっちりしたスーツに身を包み、黒いハイヒールでエレベーターを降りた。方向を確かめ、入口に「中本デザイン」と掲げられた会社へ入る。

退院してからの二日間、周防雅子の数少ない友人たちから、断片的に聞いた。桐生明瀬と周防雅子は確かに付き合っていたが、長くは続かず、別れ方もかなり揉めたらしい。

それだけでは、何も思い出せない。

だから来た。二人が同じ職場にいた場所へ。環境が記憶を刺激することもある。

周防雅子と仲が良かったらしい同僚たちの心配を適当に受け流し、限られた印象を頼りに自分の席へ辿り着く。

ごく普通のデスク。整いすぎてもいないし、散らかりすぎてもいない、小さな縄張り。

椅子に座り、机の上をじっくり眺める。予想通り、家と同じだ。桐生明瀬の痕跡はどこにもない。

スマホを取り出し、LINEを開く。ほとんど動いていないトーク一覧をスクロールし、桐生明瀬とのトークを開いた。

文字は、ゼロ。

空白の画面を見つめたまま、意識が遠のく。

警察はなぜ周防雅子を疑うのか。元恋人だった、それだけで? そんな単純なはずがない。だが内情を、警察が彼女に教えることもないだろう。

こちらが聴取に応じない以上、向こうも証拠や進捗を「容疑者扱いの相手」に渡す理由がない。

背後でキーボードを叩く音が、タタタ……と響く。小原雪美は我に返り、唇を結んだ。

身体の「慣れ」に任せて机を片づけ始める。手つきは驚くほど滑らかで、何度も繰り返してきた作業みたいに自然だった。

引き出しを開け、使い込まれたノートを取り出す。開いた瞬間、視線が内側の表紙で止まった。

なぜか、指先が勝手に動く。内表紙の隙間へ、そっと引っかけるようにして――

確かに、何かに触れた。

「……ん?」

小原雪美は、挟まっていた緑色の付箋をつまみ上げる。

これは――?

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