第3章
4月7日。
21:00。
英華マンション。
小原雪美はメモに書かれた文字を読み取った瞬間、ふっと息を止めた。
4月7日――半月あまり前。桐生明瀬がいつ死んだのか、正確な日付までは知らない。だがここ二日ほど耳に入ってきた断片的な話をつなげると、どうやらそのあたりらしい。
中本デザインはA市でも名の通ったデザイン会社で、請け負う案件の幅も広い。一般的な内装設計も、そのうちのひとつだ。
英華マンションは中~高価格帯のマンションで、建ってまだ日が浅いのだろう。中本デザインが仕事を受けていても不思議はない。
――ただ、問題はそこじゃない。
桐生明瀬の遺体が見つかった場所が、たしか英華マンションだった。
そのとき、背後からばたばたと少し乱れた足音が近づいてきた。小原雪美は何食わぬ顔でメモをコートのポケットへ押し込み、流れるように引き出しを閉める。
やって来たのは、見目のいい女が二人。年の頃は周防雅子と同じくらいに見える。
左の女は、質の良さが一目でわかる緑のサテンのロングドレス。黒髪のストレートを背中まで垂らし、化粧は薄めで上品だ。
右の女は、肩を出したタイトなトップスに細身のジーンズ。肩までの栗色の髪は、ゆるくウェーブがかかっている。
二人とも小原雪美には見覚えがあった。周防雅子と仲が良いのだろう。先日も病院へ見舞いに来ていたし、桐生明瀬についての取るに足らない情報は、だいたいこの二人から拾った。
黒髪ストレートが小岡弘子。
色気のある巻き髪が津下菜美。
「雅子、出社したなら連絡くらいしてよ。弘子と会議から戻ってきたら席に人がいて、びっくりしたんだから」
津下菜美が親しげに肩へ手を回してくる。甘ったるい香水が鼻先に刺さった。
「英華マンションの件でさ、もうしばらくまともに寝て――」
「ちょっと、菜美」
小岡弘子が、タイミングよく津下菜美の口を遮った。小原雪美の手元のノートを一瞥し、それから何かを思い出したように言う。
「そうだ。桐生……の件が起きてから、警察が一度うちに来たの。令状持っててさ。あなたの机も少し見られてたけど、何かなくなってない?」
言い終えてから、まずいと思ったのか、慌てて付け足す。
「あなたの机だけじゃないよ。みんなのも」
「うん……」
小原雪美は頷いてみせた。
「警察は規定どおりに仕事してるだけでしょ。……私が見る目なかったせいで、ああいう人に引っかかったんだし」
自嘲気味の言い方に、二人は気まずそうに笑う。だが会話はそれ以上続かず、小岡弘子と津下菜美はそれぞれ自分の持ち場へ散っていった。
周囲が再び静けさを取り戻すと、小原雪美はメモの入ったポケットを指で軽く叩いた。
警察は周防雅子に向く何かしらの材料を掴んでいる。だからこそ机まで当たったのだろう。とはいえ決定打があったなら、彼女がこうしてのんびり座っているはずがない。今ごろ公安局にいる。
メモの内容を思い返し、小原雪美の眉がわずかに動く。
一日はあっという間だった。中本デザインは社員数も多い。人が多ければ口も多い。数時間もいれば、面白い話はいくらでも転がっている。
彼女の姿を見れば皆が反射的に口をつぐむ。だが近頃いちばんの話題が桐生明瀬から外れるはずもない。ぽつりぽつりと漏れる断片だけで、小原雪美は使えそうな情報をいくつも拾えた。
たとえば、桐生明瀬が死んだのは4月7日から8日にかけて。
たとえば、遺体が見つかったのは10日。
たとえば、周防雅子と桐生明瀬は別れるときに相当揉めた。会社の誰もが、周防雅子が疑われていることを知っている。
警察どころか、社内でも「周防雅子がカッとなって桐生明瀬を殺し、事故を装って後追いしようとしたんじゃないか」などと囁く者までいる。
後追い?
小原雪美は可笑しくなって額のあたりを掻いた。だがすぐに気分が重く沈む。
――周防雅子は、本当に桐生明瀬の死に関わっているのか。
胸の内でどれほど波が荒れていようと、PCの時計が18:00を示せば、彼女は鞄を手に定時で会社を出た。
帰宅ラッシュの時間帯。小原雪美はなんとか地下鉄に押し込まれ、周防雅子が借りている住宅地へ戻る。
四月の夕暮れはまだ少し冷える。住宅地の入口で買った野菜の袋を提げ、無意識に歩調が速くなった。
タッ、タッ、タッ。
ヒールが地面を叩く鈍い音。そのとき、小原雪美はゆっくりと目を細め、前方の路肩に停まっている一台のセダンへ、さりげなく視線を流した。
どこにでもある黒い車。地元ナンバー。目立たない。
横の窓が指一本ぶんだけ開いていて、そこから薄い煙がすうっと流れている。
歩みは止めない。車の横を通り過ぎる瞬間、濃い煙草の匂いが鼻を刺した。
車内には、どうやら二人いる。
見慣れた光景だった。周防雅子の疑いは、彼女が思っていた以上に重い。二十四時間の張り込みなど、普通の人間が受けられるサービスじゃない。
平然と帰宅し、彼女は少し困った。今夜、隙を見て英華マンションへ行くつもりだったのに、これでは動きづらい。
小原雪美は台所のまな板の上で、にんじんを丁寧に刻み始める。
ぐつぐつ煮立つ牛肉スープの鍋へにんじんを放り込んだとき、ふと何かを思いついたように首を傾げ、ぱん、と手を打った。
周防雅子の整った顔に、どう見ても不自然な笑みが浮かぶ。
深夜。
住宅地の小道に人影はほとんどない。たまに野良猫や野良犬の鳴き声が響く以外、しんと静まり返っている。
バン!
集合玄関の扉が乱暴に閉められ、廊下のセンサーライトがぱっと点いた。
灯りが照らす小さな空間に、フードを被った小柄な影が現れる。腹ごしらえを済ませ、動きやすいジャージに着替えた小原雪美だった。
彼女は出てきたあとも、きょろきょろと周囲を窺いながらしばらく玄関前でもじもじしている。あまりにこそこそした様子で、見れば誰だって勘ぐる。
やがて彼女は足早に住宅地を出て、タクシーに乗り込むと、夜の闇へ溶けるように消えた。
三十分あまり後、タクシーが路肩に停まる。小原雪美は降りると、来た道をそれとなく振り返り、すぐにフードを深く被り直して前方の路地へ入っていった。
A市の路地はもともと入り組んでいる。しかも古くて街灯のない区画もあり、足元は悪い。
荒くなる息の音を連れて、二つの影が交差点で足を止めた。二人は顔を見合わせ、そこに浮かぶのは焦りと不安、そして敗北感。
迷っている暇はない。片方が携帯を取り出して発信し、数秒後、低い声で告げた。
「矢野隊長……対象、見失いました」
A市公安局にいる矢野智は、その電話で眠気が一気に吹き飛んだ。
「位置は?」
受話口から聞こえる切迫した男の声を聞きながら、矢野智は背筋を伸ばして座り直し、PCでA市の地図を開く。二人の現在地をマークしたところで、眉間に深い皺が寄った。
沈黙が続く。数分後、矢野智はマウスを放り投げるように置き、椅子の背に掛けていた上着を掴んで飛び出した。
「英華マンションだ」
…………
ワンワンワンワン! アオォォッ――!
声が潰れた野良犬の遠吠えが、墨を流したような夜の闇に不気味さを増す。英華マンション正門の警備室では、当直の警備員がベッドから起き上がり、眠そうな目でガラス越しに外を窺った。
敷地内は相変わらず暗い。影のような植え込みが夜風に揺れているだけだ。
英華マンションは引き渡しが始まったばかりで、昼間も内装工事をしている部屋は一部に過ぎない。設備もまだ整いきっておらず、見渡せばどこか荒涼としていた。
警備員は半月前の殺人事件を思い出し、背筋がひやりとする。悪態をつきながら室内の灯りをさらに明るくし、そのままベッドへ戻ってスマホをいじり始めた。敷地内にすでに何人か入り込んでいることなど、知る由もない。
そのころ矢野智は、同僚二人を連れて桐生明瀬殺害事件の現場付近まで来ていた。だが三人で手分けして探しても、しばらく何の成果もない。
「おかしいだろ! どこ行ったんだよ!」
先ほど電話した刑事が苛立たしげに髪をかきむしり、吐き捨てる。
続いて、少し年上の刑事が口を開いた。
「俺たち、遊ばれたんじゃないですか。周辺の痕跡を見ても、人が来た感じがしない」
桐生明瀬の遺体を見つけたのは、管理会社の清掃員だった。前方の、まだ花も植えられていない大きな花壇に倒れていたという。
場所が奥まっていて日陰だったせいで、発見が遅れたのだろう。警察が到着したとき、遺体には薄く土がかぶっていた。司法解剖の初動所見では、死亡推定時刻は7日夜22時から8日未明1時。
死因は高所からの転落。遺体に付着した土の状況から、事故や自殺の可能性は早い段階で排除され、第一現場は花壇正面のこの棟――1903号室だと特定された。
同僚二人のぼやきを聞き流しながら、矢野智は事件現場の階を見上げていた視線を引っ込め、周囲をもう一巡する。表情を変えないまま顎で合図をした。
ほどなく三人は英華マンションを出て、横断歩道を渡り、広い道路の向こう側へ向かった。
と、矢野智が不意に足を止める。
後ろの二人も視線の先を追い、反射的に声が漏れた。
「矢野隊長、あれ……!」
深夜でも営業している卤味の店。その店から、探していた小柄な影が、鴨の首肉、手羽、腸、鎖骨――袋いっぱいに提げて、のんびりと出てきたところだった。
小原雪美は店を出て二歩も行かないうちに、驚いたように口元を緩めた。
「矢野警察官?」
矢野智は両手をポケットに突っ込んだまま立ち、数メートル先の、実年齢より幼く見える丸みのある顔を見据える。胸の奥で煮え立つ苛立ちをどうにか押し込み、平然と口を開いた。
「周防さん。こんな時間に、ずいぶんとお散歩ですね」
「ちょっと口が寂しくて。まさか、ここでお会いするとは思いませんでした」
小原雪美は淡々と答え、手元の買い物袋を軽く持ち上げてみせる。
「まさか、ね」
矢野智は薄く笑い、道路の向こう側へ視線を投げた。街灯に照らされた『英華マンション』の文字が、不自然な光の輪を作っている。
ここまで来て、今夜の一件が鴨の首肉のためだけだなど、信じられるはずがない。
「偶然にしては都合がいい。周防さんがここにいるなら、こちらも探す手間が省けます」
矢野智は笑みを保ったまま、目尻には喜色がない。
「桐生明瀬死亡事件について、捜査の進展がありました。いくつか確認したいことがありますので、周防さんにはご協力いただきたい。署までご同行ください」
小原雪美は少し驚いたように、腕時計へ目を落とす。
「今から?」
「今です」
「わかりました」
意外なほどあっさりした返事に、向かいの三人がわずかに目を見開く。
矢野智は眉をひそめ、視線を上げて彼女と目を合わせた。
小原雪美は肩の力が抜けたままだ。
「警察の仕事に協力するのは、市民の義務ですから」
そして、穏やかに言葉を重ねる。
「……そうですよね、矢野警察官?」
