第4章
夜明け前のA市公安局庁舎は、想像していたよりずっと騒がしい。エレベーターがひっきりなしに上下し、ときおり人影が横切っていく。
小原雪美は、窓のない一室に座らされていた。頭上のやけに眩しい蛍光灯と、壁の時計――短針がかろうじて「3」を指しているそれだけが、外の時間が確かに流れている証拠だ。
ここに通されて、もう三十分以上。
警察は彼女を拘束椅子に縛りつけたりはしていない。だが、目の前の鋼鉄製の机が放つ冷たい光沢を見れば、ここがさっき見知らぬ刑事の言った「聞き取り室」などではないことくらい、嫌でもわかる。
椅子が硬いせいか、小原雪美は落ち着いたまま体勢を変えた。その拍子に、靴先が椅子の脇の床へ無造作に置いていた紙袋に触れる。
「チッ」
鼻先に残った匂いをくん、と確かめてから、残念そうに赤い唇を結ぶ。半晩も振り回されれば、さすがに腹も減る。
一方で、小原雪美のいる取調室が静まり返っているのに対し、向かいの観察室は沸騰寸前だった。
矢野智は腕を組み、マジックミラー越しに向こうの女を無言で観察している。その背後には、尾行を外した刑事二人に加え、数日前に病院で顔を見た陸田暁という若い巡査もいた。
陸田暁はだらしなく伸びをしながら大あくびを噛み殺し、口の端でからかうように言う。
「道野さん、聞きましたよ。真夜中に人、見失ったんですって?」
その一言で、さきほど矢野智に電話を入れていた道野律哉が跳ね上がった。
「うるせえ、俺の勝手だ! だいたい今こうして署にいるだろ。お前みたいなヘタレよりマシだ。病院まで行って何も聞き出せねえどころか、危うく大惨事じゃねえか!」
言いながら、男は妙に嬉しそうな顔まで浮かべる。
「しかも人質助けたの、あの周防雅子だって?」
案の定、そのニヤつきが陸田暁の神経を逆撫でした。大股で一歩踏み出し、言い返そうとする。
「誰がそんな……!」
だが次の瞬間、矢野智が振り返っただけで、二人の口はぴたりと閉じた。
陸田暁と道野律哉は目を合わせ、そろって気まずそうに視線を逸らす。
やがて陸田暁は矢野智の隣へにじり寄り、しばらくガラスの向こうを観察してから、のんびりと言った。
「……にしても、あの人、座らされてもう1時間近いですよね? 普通あんな落ち着いてられます? 俺、あの周防雅子、絶対クロいと思うんすけど」
そしてふと思い出したように顎を撫で、首を傾げる。
「でも矢野隊長。事件当夜、英華マンションの正面入口の外の映像で見つけたときは、連れてこようって話にならなかったじゃないですか。今夜はどうしたんです?」
言い終えると、陸田暁は惜しそうに唇を鳴らした。
殺人事件から日数は経っている。警察は被害者・桐生明瀬の交友関係を徹底的に洗ったが、目立った突破口は、あの夜の英華マンション入口付近の監視映像くらいしかない。
そこに映っていた人物は、桐生明瀬の元恋人――周防雅子。
動機という点では疑いがある。だが、よりにもよってそのタイミングで彼女は交通事故に遭った。
本当に記憶を失ったのか、演技なのか。いずれにせよ、その線は長く止まり、捜査は遅々として進まなかった。
「前は証拠が薄かっただけだ」
矢野智は短く答える。監視映像一本では決め手にならない。現場にも、周防雅子がそこにいたと裏づける物証は何ひとつ残っていなかった。
「今夜は……」
二時間前からの流れを思い返すように瞼を落とし、矢野智は口元だけでゆっくり弧を描いた。
「互いに得るものがある。それだけだ」
互いに得るもの?
陸田暁は目を見開き、反射的に道野律哉を見る。道野の目にも同じ驚きが浮かんでいて、陸田暁は少しだけ気が楽になった。
――わからないのは自分だけじゃない。
矢野智はそれ以上説明する気はないらしく、二人に向けて軽く頷いた。
「道野さん、羽田さん。今日はご苦労だった。先に戻って休め。あとは俺が陸田暁を連れて、本人と話す」
道野律哉たちも食い下がらなかった。張り込みは体力勝負だ。徹夜で振り回されれば、骨身に堪える。
矢野智が陸田暁を連れて観察室を出て、取調室へ向かおうとしたとき――陸田暁はどうしても湧き上がる好奇心を抑えきれず、口を開いた。
「隊長。さっきの『互いに得るもの』って、結局どういう意味なんすか?」
「周防雅子を、どういう女だと思う?」
矢野智は答えず、足を止めて問い返す。
陸田暁は数日前の病院での出来事を思い出し、悔しそうに唇を動かした。
「狡いっていうか……小賢しいっていうか。行動力もある。けど、調べた限りじゃ、あんな簡単に男を倒せるほど強いなんて思わなかった」
「周防雅子にそれだけの力があるなら、桐生明瀬の転落現場に揉み合いの跡が少ないのも説明つきますよね」
「だから事故後の一時的な記憶欠落ってのも、捜査から逃げるための手じゃないですか? ――」
「彼女に少し知恵がある、というのは同意だ」
矢野智が、陸田暁の勢いを淡々と断ち切った。表情は動かない。肯定なのか否定なのか、読み取れない。
「その程度の知恵で、現場の痕跡だけ消して監視カメラを見落とすのか?」
「それとも、記憶喪失を言い訳にして逃げるくせに、退院した途端また現場付近に現れて、警察の目を引くのか?」
「……確かに」
陸田暁は一気に自信を失った。
「じゃあ、あの女は何がしたいんです?」
矢野智は手にしていたタブレットを軽く叩き、黒い瞳を細める。長い脚で歩き出し、取調室へ向かった。
「何がしたい、じゃない。何が欲しい、だ」
カチャリ。
ドアのラッチが鳴った瞬間、椅子に座っていた小原雪美は背筋をわずかに伸ばし、顔を上げてにこやかに目を向けた。
「すみません。少し立て込んでいて、待たせました」
矢野智は陸田暁とともに取調卓の向こう側へ腰を下ろし、説明とも宥めともつかない言葉を投げる。
小原雪美は気にも留めず、形の整った眉をふわりと上げた。
「刑事さんのお仕事って忙しいでしょう。理解してます」
もちろん理解している。
容疑者の動きを観察し、心理を読み、弱点を掴んで一気に折る。そういう手口は、特殊警察官として後方の取調に直接関わらずとも、横で見ていれば嫌でも身につく。
「それで、矢野警察官は私から何を得たいんですか?」
友好的な笑みのまま、言葉だけが驚くほど直球だった。灯りを受けた杏の瞳が、妙に澄んで真っ直ぐだ。
不意打ちのストレートに、陸田暁は一瞬言葉を失い、隣の男を横目で窺う。
矢野智は驚いた様子もない。相手が回りくどい駆け引きを望まないなら、こちらも楽でいい。
タブレットを起動し、映像を呼び出して画面を向ける。
「この監視映像は4月7日深夜から8日未明にかけてのものだ。周防さん、何か言うことは?」
映像は後から切り出したらしい短い二本。深夜の光量不足で、画質は決して良くない。
7日21時11分。英華マンション正面入口の外――人通りの少ない歩道に、ふいに黒い影が現れる。近づいてようやく、女性だとわかる。
身なりはきちんとしていて、ヒールで早足。肩までの髪をまとめていないせいで、顔は判別しづらい。
その細い背中が画面から消えると、次の映像へ切り替わった。
左下の時刻表示は、8日0時04分。
同じ影が再びカメラの範囲に入ってくる。今度は足取りがさらに切迫していた。
夜風がびゅうと吹き、乱れた髪が持ち上がる。そこに映ったのは、整った甘い顔立ち。鮮明ではないが、顔認証には十分だったのだろう。
ぷつり。
映像はそこで途切れ、画面はその姿のまま静止した。
小原雪美はぱちりと瞬きをする。なるほど、警察が掴んでいる「材料」のひとつはこれか。
この二本だけでも、周防雅子が疑われるのは当然だ。桐生明瀬の死亡推定時刻の範囲で現場付近にいる。ノートに残された付箋。複雑な関係と、愉快とは言い難い過去。
「周防さん、説明は?」
沈黙が続いたため、陸田暁が先に口を挟んだ。言い方はお世辞にも柔らかくない。
矢野智は、対面の表情の変化を逃さぬよう凝視している。
だが二人の期待は外れた。小原雪美は怯えもしないし、動揺もしない。薄い笑みを崩さないその顔が、かえって目障りなくらいだ。
「私が何を言うより、警官さんたちが目で見たもののほうが説得力ありますよね。事実として、桐生明瀬さんが亡くなった日に、私は英華マンションへ行きました」
柔らかな声が耳に入る一方で、矢野智の眉間には深い皺が刻まれた。
「警察の調べでは、中本デザインが英華マンションで関わっていた案件は、桐生明瀬の持っていた一件だけだ。周防さんは、なぜその夜に?」
小原雪美はほんの少し瞼を落とした。数時間前、現場付近で脳裏に流れ込んできた、途切れ途切れの断片を拾い上げる。
そうだ。尾行を撒いたあと、彼女は英華マンションへ向かった。路上で矢野智たちと「偶然」出くわしたことも、署に連れて来られたことも、すべて想定の範囲内。
矢野智の読みどおり、今夜の小原雪美の目的は――互いに得るものを得ること。
彼女は警察の手持ちの材料を知りたい。警察は彼女から何かしらの情報が欲しい。利害が一致するなら、取引は成立する。
胸の内で軽く天秤をかけ、小原雪美は断片的で繋がらない記憶に沿って「白状」を始めた。
「覚えている限りでは、あの日は私から彼を呼び出しました。要するに、私たちの関係にきちんと決着をつけたかったんです」
「それで、彼が設計を担当していた部屋で会って……案の定、口論になりました。でも手は出してません」
「それで?」
陸田暁が、話が途中で止まったことに苛立って促す。
「話にならなかったから、帰りました」
小原雪美は肩をすくめる。表情はどこまでも誠実そうだ。
「英華マンション21号棟1903に行ったって言うなら、なんで現場にあなたの痕跡が一切ないんですか?」
陸田暁は言葉の綻びを素早く掴み、詰め寄った。
「警官さん、それ……私に聞くことですか? 喧嘩して帰った。それだけです。私が知るわけないでしょう」
小原雪美の「言い逃れ」に、陸田暁は腹の底がむっと熱くなる。さらに言い募ろうとしたが、矢野智が視線だけで制した。
そして矢野智は、改めて小原雪美へ目を戻し、今の話のもうひとつの穴を容赦なく突いた。
「前日の21時過ぎから、翌日の0時過ぎまで。周防さんは、喧嘩を3時間もしていたのか?」
