第5章

「三時間も言い争ったなんて、ありえないわ」

小原雪美はそう否定して、ふるふると首を振った。

「桐生明瀬のところを出たあと、運悪く会社から電話が入ったの。私が担当してる案件のクライアントが、提出した案にあまり納得してないって」

「急ぎだったし、たまたまノートPCも持ってたから、下でその場で直したのよ。全部片づいてから、家に帰った」

それから、ふっと口元をゆがめる。

「それと。私みたいな「元カノ」に時間を使うより、桐生明瀬のだらしない女関係でも洗ったほうがいいんじゃない? 私たちが別れたのは、あいつが浮気したからよ」

「私が警察なら、あいつが『手を出しちゃいけない相手』に手を出してなかったか調べるわね」

「周防さん、あなたの話が本当だと、どうやって証明するんですか」

陸田暁が露骨に不満を滲ませて言った。

「残念だけど、前の携帯は事故で粉々になっちゃった。でも警察なら、直近の通話履歴を照会するくらい簡単でしょ?」

小原雪美は淡々と問い返す。

「それに、聞かれたことには全部答えたわ。信じないなら、真偽を確かめるのは私の仕事じゃないでしょう? そういうの、警察の得意分野じゃないの?」

「……」

陸田暁は胸の奥がむっと詰まった。だが相手は、まだ「確定」した容疑者ではない。口まで出かかった皮肉を、無理やり飲み込む。

その隣で、陸田暁の視線を受けていた矢野智は、眉間の皺をいつの間にかほどいていた。机上のタブレットを手に取り、落ち着いた口調で言う。

「本日はご協力ありがとうございました。今後も、こちらからすぐ連絡できるよう、電話はつながる状態にしておいてください」

その一言で、非公式の聴取が終わったのだと分かる。陸田暁は驚きを隠せなかったが、余計な口は挟まなかった。

矢野智は腕時計に目を落とし、申し訳なさそうに続ける。

「外はまだ明るくなっていませんね。こちらで車を手配しましょうか」

小原雪美は床から、卤味の鴨肉が入った袋をひょいと持ち上げ、笑って首を振った。

「お気遣いなく。スマホで呼べば、数分で正門に来ますから。お仕事、どうぞ続けて」

そう言い残し、彼女はドアへ向かって取っ手を引いた。細い背中が、冷たい金属扉の向こうへすっと消える。

バタン、と扉が閉まる。

取調室は、一瞬だけ完全な静寂に包まれた。

だがすぐに、その沈黙を陸田暁が破る。

「矢野隊長。さっきの周防雅子の話、どれくらい本当だと思います?」

矢野智は形のいい濃い眉をすっと上げた。精悍な顔立ちに似合わない、どこか狡猾な色が浮かぶ。しかし質問には正面から答えず、唇だけ動かす。

「この部屋に入る前、俺たち何を言った?」

陸田暁は表情を引き締める。

「周防雅子は、今回は「目的があって」うちに来た、って」

そこまで言って、眉をひそめた。

「でも、何も得てないですよね? せいぜい、俺たちが「事件当夜に英華マンションへ出入りした映像」を持ってるって知ったくらいで」

実際、警察は周防雅子について相当洗っている。社会的な背景も、職場の人間関係も、目立った異常は出ていない。

「仮に彼女が見たかったのが当夜の映像だとして……俺たちは何をもらったんです? 桐生明瀬の私生活が乱れてるって話を投げて、等価交換のつもりなんですか」

警察だって被害者の交友関係は掘っている。周防雅子のような元恋人、曖昧な関係の男女も何人かは出た。だが、その中で一番怪しいのは周防雅子だった。

ほかは大半がアリバイ持ち。アリバイが弱い者もいたが、被害者の桐生明瀬と接点があった証拠がない。

つまり、桐生明瀬の私生活から犯人へ辿る線は、十中八九行き止まりだ。

「周防雅子が伝えたかったのは、それだけじゃないはずだ」

矢野智は無意識にタブレットの画面を指で軽く叩く。先ほどの小原雪美の微細な表情を思い返し、やがて横顔のまま、ためらうように言った。

「……事故で入院したって話だったな?」

「はい。ICUにも入ったって聞いてます。回復も早いみたいで……」

陸田暁は頷き、続ける。

「桐生明瀬の遺体が見つかった翌日に、彼女が浮上して。俺が病院に行ったとき、医者が言ってました。ひき逃げで、車はまだ見つかってないって」

ひき逃げ。

矢野智のまぶたがぴくりと跳ねた。何かを掴んだように、声が低くなる。

「陸田暁。ひき逃げの担当、交通課に当たってくれ。事件はもう片づいたのか、確認しろ」

「……了解です」

陸田暁は反射的に答えたものの、腑に落ちない顔で後頭部をがしがし掻く。次の瞬間、ひらめいたように声を上げた。

「隊長、まさか……二つの事件が繋がってるって疑ってるんですか?」

「現時点では何も断定できない」

矢野智は肯定も否定もしない。

「だが、周防雅子が嘘をついていないなら……方向性としては、十分あり得る」

英華マンションは設備が不十分だ。事件当日まで、正門の監視カメラ以外はほとんど機能していなかった。

もし彼女の言うとおり、仕事で敷地内に長くいたのなら。時間的には、桐生明瀬が犯人ともみ合い、転落した瞬間に――彼女が何かを聞いてしまった、あるいは見てしまった可能性がある。

聞いていなくても、見ていなくても。

誰かが「見られた」と思い込んだなら?

そうでなければ、桐生明瀬が転落死した直後に、周防雅子がICU送りになるほどの事故に遭うなど、出来すぎている。

陸田暁はそれ以上は尋ねず、勢いよく取調室を飛び出して交通課へ連絡を取りに行った。

…………。

小原雪美が袋を提げて周防雅子の部屋へ戻った頃、空はようやく白み始めていた。

さっきまた下を通ったが、以前、警察が張り込みに置いていたセダンはもういない。戻る暇がなかったのか、それとも監視を切ったのか。

牛乳を温め、簡単な朝食代わりにする。ソファに腰を下ろすと、ぼんやり意識が遠のいた。

もし周防雅子が桐生明瀬を殺したのなら、必ず自首させるつもりだった。だが昨夜、英華マンションで溢れ出した記憶を見る限り、周防雅子が犯人である可能性は高くない。

そうなると、自然に思い当たるのは――彼女がこの身体に来る前に起きた、あの交通事故だ。

事故そのものの記憶はほとんどない。だが入院中、医師や看護師から断片的に聞いた話はいくつもある。

会社からそう遠くない、交通量の多くない裏道で撥ねられたこと。加害車両は通報せず逃げたこと。事故から三十分以内に通りがかった誰かが救急通報してくれなければ、周防雅子は死んでいたかもしれないこと。

津下菜美と小岡弘子にも確認した。事故当日、周防雅子が深夜まで残業していたのは事実らしい。だが、なぜあの道を通ったのかまでは分からないという。

小原雪美は、惜しむように長く息を吐いた。この身体の「元の魂」がどこへ行ったのか――結局は持ちこたえられず、消えてしまったのかもしれない。

沈みかけた気分を無理に引き剥がし、カップの底に残った牛乳を飲み干す。

今の自分は、ただの一般人だ。あの事故の真相を突き止めるなど、夢物語に等しい。

だからこそ、矢野という警察官に、さりげなく示してやるのがいい。言わなくてもいずれ警察は辿り着くだろうが、互いに得があるなら損はない。

それに、自分も欲しいものは手に入れた。

逃げた運転手を追うのは難しい。だが周防雅子の記憶を糸のようにほどき、見落としていた痕跡を拾い上げること。数時間前に公安局で見た映像と照らし合わせ、新しい違和感を探すことなら――小原雪美の得意分野だ。

何しろ、かつては特警隊の優秀な隊員だったのだから。

ソファで楽な姿勢を探し、ゆっくり目を閉じる。頭の中の雑音を一つずつ消し、呼吸のリズムを整えていく。

そして――周防雅子の記憶へ、沈み込んだ。

ほどなく、視界がくるりと反転する。

気づけば自分は、事件当夜の英華マンションの敷地内にいる。夜風が脛を撫でる感触まで、生々しい。

小さく首を動かすと、膝の上にノートPCが載っていた。画面の文書には、最上段に大きく「江天格麗設計方案」とある。

どうやら彼女は、敷地内のありふれた長椅子に座っている。辺りは暗闇そのものだ。街灯は近くになく、百メートル以上先に、ぽつぽつとした光が見えるだけ。

次の瞬間、隣のバッグの中で携帯が鳴った。

周防雅子の記憶が、そのまま小原雪美の身体を動かす。通話を取ると、耳に入ってきたのは聞き覚えのある声――中本デザインの社長だ。クライアントの追加要望を、だらだらと並べ立てている。

小原雪美は受話口から流れ込む騒がしさを意識の端へ追いやり、周囲を観察した。

まだ入居者のいない高層住宅が、闇の中に沈んでいる。まるで獣が息を潜めているようで、理由もなく背筋が冷えた。

遠くの街灯の明かりを頼りに、斜め前方の棟番号がようやく読める。21号棟。

そして21号棟の1903号室こそ、桐生明瀬が突き落とされて死んだ現場だった。

ここまで来て、小原雪美は首を傾げる。

周防雅子が座っている長椅子は、その棟の側面にある。反対側の花壇は見えない。つまり、誰かが落ちたとしても目視できない位置だ。

同じく、1903号室側から長椅子の人物を見つけるのも、ほぼ不可能だろう。

それに何より――桐生明瀬が落ちた瞬間、なぜ物音一つ聞こえなかった?

花壇の厚い土が着地音を吸ったとしても、落ちる直前に短い悲鳴が漏れるのは自然なはずだ。

さらに、周防雅子の記憶では、作業を始めてから英華マンションの正門を出るまで、門衛の警備員以外に誰とも会っていない。

もし事故が桐生明瀬の死と関係しているなら。あの暗さの中、五十メートルも離れれば人かどうかも判別しづらい。犯人はどうやって彼女の顔を特定した?

桐生明瀬を殺した人間は、周防雅子を知っている。

そして当日、英華マンションのどこかで――二人は一度、狭い範囲で同じ空間にいたはずだ。

ソファの上の小原雪美は、ゆっくり眉を寄せた。

いったい、どこで……。

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