第6章
目の前の光景が、めまぐるしく切り替わりはじめる。まるで世界そのものが、いきなり早送りボタンを押されたみたいに。
周防雅子があの夜、英華マンションに足を踏み入れたところから。桐生明瀬と激しく言い争い、どうにか理性を取り戻してドアを叩きつけるように1903号室を出て、エレベーターへ向かったところまで――。
不意に、記憶の映像がぴたりと止まった。
周防雅子が電話をしながら、21号棟のエントランスを出ていく、その瞬間。
小原雪美は眼球だけをわずかに動かし、視界の端に引っかかった「影」に意識を向けた。
英華マンションは、まだ正式に入居が始まっていない住宅地だ。昼間は内装業者が出入りしているものの、深夜になれば人影はほとんど消える。
そんな場所で、唐突に生身の人間が現れたなら、普通は目を引くはずだ。
なのに、なぜこのとき周防雅子は、その影に特別な注意を払わなかったのか。
記憶の中の周防雅子の視線を、ほんの少し右へ。
薄い光の下で、ようやく見えた。反射テープの入った濃紺の作業着――英華マンションの管理会社の清掃スタッフが着る制服だ。
ただ、顔は影に沈んでいる。どれだけ目を凝らしても、輪郭すらはっきりしない。
「……ふぅ」
さらに二分ほど粘ったところで、小原雪美は自分から周防雅子の記憶から抜け出した。濁った息を吐き、ソファにぐったりと身を投げる。
場面を再現するような没入型の記憶探索は、想像以上に精神を削る。警察が当事者に対して、見落とした細部を拾わせるために使うこともある手法だ。
とはいえ、毎回うまくいくわけじゃない。そもそもこの状態に入れる人間が少ないし、入れたとしても「何か」を掴めるケースはさらに稀だ。
清掃員……か。
小原雪美の表情が、わずかに動く。
英華マンションは確かに工事ゴミが多い。だが、わざわざ深夜まで残業するほどなのか?
確かめるのは難しくない。管理会社に聞けばいいだけだ。
天井を見上げたまま、脳裏に浮かんだのは、警察に見せられた二本の監視映像だった。周防雅子の姿が映っている、あの短い映像。
特に不審な点はない。連続する映像の中で、周防雅子以外の人間は、画角に一度も入っていなかった。
チリリリ……チリリリ……
せわしない目覚ましの音がリビングに響き、ソファに寝転がった小原雪美の身体を、形だけ動かした。
数秒後、彼女はすっと起き上がり、手を伸ばしてスマホを取り、アラームを止める。
一睡もしていないのに、目だけは冴えていた。以前、部隊で任務に出ていた頃は、二日二晩目を開けたまま張りつくこともあった。睡眠が少し欠けた程度で、簡単にへばるような体じゃない。
シャワーを浴びて身支度を整え、周防雅子が好んでいたオフィス向けの服に袖を通す。バッグを掴み、出勤の準備を終えた。
もし、あの夜に周防雅子がちらりと見た影が、英華マンションの関係者ではなかったとしたら――それは殺人犯の可能性がある。
周防雅子はエントランスの灯りの下にいた。相手は暗がりに潜んでいれば、彼女の顔を確実に見られる。だが周防雅子は、相手を完全に見落とした。
それで?
犯人は桐生明瀬を殺して下へ降りたあと、遠くのベンチで作業している周防雅子を見つけた。目撃された、あるいは何かを聞かれたと恐れて、二度目の殺意を抱いた――そういう筋も成り立つ。
だが、どうやって周防雅子の「身元」を知った?
知っていたとしか思えない。
周防雅子の交友関係は比較的シンプルだ。学生時代からの友人が数人。あとは職場の同僚と、仕事の取引先くらい。
それに、小原雪美は覚えている。周防雅子と桐生明瀬の口論の中で、男の「浮気相手」の話が何度も出たことを。だが周防雅子自身、その相手が誰なのか確信がなさそうだった。
犯人と、桐生明瀬の浮気相手――この二人の正体を突き止めるなら。
小原雪美にとっては、警察よりも自分のほうが有利だ。
それから一時間ほど。
中本デザイン。
今日も小原雪美は、昨日に劣らない熱烈な声を浴びた。怪我は本当に治ったのか、無理するな、身体が一番だ――そんな心配が次々に飛んでくる。
彼女は笑って受け流し、席に戻る前に社長に呼ばれて会議へ回された。
週例会。内容は相変わらず薄い。社長の決まり文句を耳に入れながら、小原雪美は議事録ノートを前に、意識をふっと遠くへ飛ばしかけた。
そのとき。
小原雪美は軽く眉を寄せ、何かを感じ取ったように視線を上げた。四、五十人は入る会議室をぐるりと見回し――一人の男社員で目が止まる。
男は、ひどく不快な目つきでこちらを見ていた。目が合った瞬間、遠慮もなく白目をひとつ。そうしてから、何事もなかったようにスマホをいじり始める。
ほどなくして週例会が終わり、会議室の扉に人が殺到した。押し合うように外へ流れ出ていく。
ばさばさっ。
書類が床に散らばる音は、誰の注意も引かなかった。だが最後尾を歩いていた小原雪美だけが、数歩先の惨状に気づき、自然にしゃがみ込んで拾い始める。
まとめ終えた書類を、まだしゃがんで整理している相手へ差し出した。
顔を上げたのは――さっき会議中に妙な態度を取っていた、あの男社員だった。
会議室に残っているのは、彼と小原雪美、それから真っ先に掃除に入ってきた清掃のおばさんだけ。男は一瞬だけ彼女と目を合わせ、書類の束を受け取ると、くるりと背を向けて足早に去っていった。
空気のどこかに、鼻で笑うような小さな音が漂った気がした。
なんだか、妙だ。
そう思った矢先、津下菜美と小岡弘子が勢いよく飛び込んできた。二人とも驚いた顔で、小原雪美と、遠ざかっていく男社員を交互に見る。
「雅子、あんた正気? 頭ぶつけておかしくなった? 遠坂博を助けるとか、ありえないんだけど」
津下菜美は目を丸くし、巻き髪が驚きでさらに膨らんだように見えた。
小岡弘子も頷きながら言う。
「冷たい相手にわざわざ親切にしてさ。損しただけじゃない?」
二人の小言を聞きながら、小原雪美は記憶を探る。
確かに周防雅子の中で、遠坂博という男との関係は良好とは言い難い。むしろ、かなり険悪だ。
ただ、どうしてそうなったのか――周防雅子本人も、いまいち腑に落ちていない節がある。
小原雪美は目を細め、興味深そうに眉を軽く跳ね上げた。
そしてその日一日。
仕事をきっちりこなしつつ、小原雪美は意識的に遠坂博を観察し続けた。
年齢は三十を少し越えた程度。職業柄か、服のセンスがいい。今日は清潔感のあるキャメル色のTシャツにデニム。耳にかかる短髪もすっきり整っている。身長は一七三センチ前後。顔立ちは平凡だが、妙に雰囲気がある。
――が、結局。
退勤までに、目立った異常は何ひとつ見つからなかった。
夜。時刻はまもなく二十時。
中本デザインが入るオフィスビルの向かい、1階のカフェ。小原雪美は大きな窓際の席で、退屈そうに頬杖をついていた。右手は癖のようにスプーンを動かし、焦げたような香りのするコーヒーをくるくるとかき混ぜる。
やがて、目が光った。
見慣れた背中が、向かいのビルから出てくる。
バッグを掴み、小原雪美はすぐに店を出た。行き交う人の流れに紛れ、距離を詰めすぎず離れすぎず、前方の男を追う。
尾行なら慣れている。手癖も、まだ鈍っていない。
遠坂博は何も気づかないまま、地下鉄に乗り、降りる。途中で果物屋に寄り、袋いっぱいの果物を提げて、のんびりと自宅の住宅地へ戻っていった。
小原雪美も、手慣れた動きでそのまま侵入する。住民のカードキーがなければ入れないはずの区画だが、混雑と死角を使えば、混ざるのは難しくない。
遠坂博が一棟のエントランスに入ったのを確認すると、小原雪美は見通しがよく、なおかつ暗い場所に立った。目を細め、数分後に六階右側の部屋で灯ったリビングの明かりを見つめ、考え込む。
ふと我に返り、闇の中で息を殺すようにため息を吐いた。
自分は今日一日、何をしていたんだ。
そんな苦い感情が、喉の奥に残る。
そのとき。
静まり返った夜に、ぶぶぶ……ぶぶぶ……と低い振動音が走った。
小原雪美はゆっくりバッグからスマホを取り出す。視線は、遠坂博が住んでいると思しき部屋の窓から、片時も外さない。
「周防雅子さんでいらっしゃいますか」
通話が繋がると、丁寧な声が尋ねてきた。
「そうです」
「平区の交通警察大隊です。周防さんのひき逃げ案件を担当している者で、病院で一度お会いしています」男は簡潔に名乗り、用件を続けた。「疑いのある車両が見つかりました。もしよろしければ、今から調書を取りたいのですが、ご都合いかがでしょう」
もう見つかった?
――あの体格のいい重案の班長、こちらが言葉の端に仕込んだ情報を、ちゃんと拾ってくれたってことか。
別に交通の捜査が遅いと言いたいわけじゃない。A市で起きる事故は毎日何十件もある。特別な事情がなければ、優先順位がつくのは当然だ。
あの夜のひき逃げは、防犯カメラのない脇道で起きた。逃走ルートを割り出し、沿道の映像を片っ端から洗うには、どうしても人手と時間が要る。短期間で片づく仕事量じゃない。
交通のほうも何日も詰めていたのだろう。そこへ重案が噛めば、急展開もあり得る。
「私……」
小原雪美が返事をしかけた、その瞬間。言葉が喉で止まった。
八階の部屋の窓辺に、遠坂博がふいに姿を現したのだ。
カーテンを閉めようとしているのだろう。片側を掴み、立っている。
そして、本当に彼女を驚かせたのは――その背後にいた、もう一つの影だった。
意外で、けれど妙に腑に落ちる。
「周防さん? 聞こえていますか」
返答がないことに、電話の警察官が促す。
「はい。時間あります。すぐ向かいます」
通話を切り、小原雪美は再び八階の窓を見上げた。今はもう、カーテンが隙間なく閉じられている。
ここまで来ると――
面白くなってきた。
