第7章

深夜の平区警察署の交通課は、相変わらず白々と明るかった。

小原雪美がタクシーを降りた直後、目の前をパトカーが二台、赤色灯を回しサイレンを鳴らしながら通り過ぎていく。門を出るなり大きくテールを振り、そのまま闇に溶けて見えなくなった。

事故の確率は、夜になったからといって一直線に下がるわけじゃない。むしろ視界の悪さが、いろんな種類の犯罪を増長させる。

さっき電話口の警察官に告げられた階を頼りに、雪美は目的の事務室へ辿り着いた。

次の瞬間、出迎えた警察官の顔を見て、やはり見覚えがあると思う。病院で会ったとき、たしか陸田暁たちよりも早く来ていた人物だ。もっとも、あのときの彼女は本当に頭の中が真っ白で、役に立つ情報など何ひとつ出せなかったのだが。

この二日ほどで、環境の刺激が効いたのか、それともこの身体との馴染みが深まったのか、記憶の断片が少しずつ輪郭を取り戻し始めている。

ただ雪美としては、後者より前者だと思っていた。桐生明瀬に関する記憶が動き出したのは、英華マンションへ行ってからだったのだから。

「周防雅子さん、ですね?」

交通警察官は彼女を室内へ通し、ソファへ座るよう促すと、気遣うようにテーブルへ熱い湯気の立つ紙コップを置いた。

「前にお会いしたときは、まだ回復しきっていませんでしたが……体調はいかがですか?」

「事故後の手続きや聞き取りは、当事者の方にとってつらいものです。もし途中で気分が悪くなったら、いつでも中止できます」

それから一拍置き、声の調子を少しだけ引き締める。

「ただ、できる限りご協力いただきたい。いまのところ見つかったのは車両だけで、運転していた人物はまだ確保できていません。被害者の証言は、こちらにとって非常に重要です」

小原雪美は迷いなく頷いた。

「よし。では、始めましょうか」

交通警察官は向かいの机にいる同僚へ視線を投げる。記録の準備が整ったのを確認してから、最初の問いを口にした。

「周防さん。事件当夜――10日の、日付が変わる少し前。どうして羽田丁目のあの細い道を通ったんですか?」

一見すると妙な質問だが、考えれば筋は通っている。

当初、交通課は周防雅子の事故を、単純なひき逃げとして追っていた。飲酒運転や薬物など、極端な状況の可能性を疑っていたのだろう。

だが市公安局の重案組が、どこからか情報を漏らした。途端に、事件は面倒な匂いを帯び始めた。

雪美は少し俯いたまま、しばらく黙り込む。やがて顔を上げ、ひとつだけ頼みごとをした。

「警官。電話で……私をはねた車が見つかったって言ってましたよね。写真、見せてもらえませんか?」

交通警察官は一瞬だけ逡巡したが、すぐに机から印刷した写真を取り上げ、差し出した。

雪美は受け取り、小さく礼を言ってから視線を落とす。

写っているのは、人の気配がほとんどない荒れ地だった。芽吹いたばかりの木々の間に、車が隠すように停められている。

黒いジープ。フロントバンパーには、はっきりとした衝突痕の凹み。ボディには無数の擦り傷が走り、片側のヘッドライトは砕けている。人をはねたときのものか、それとも逃走中にどこかでぶつけたのか――判断はつかない。

ピッ――。

耳元で、短く鋭いクラクションが鳴った気がした。

次の瞬間、目の前が白く弾ける。刺すような光。輪郭だけが浮かぶヘッドライト。

雪美は思わず息を止める。どれほどの時間が経ったのか、額に細かな汗を滲ませながら、ようやく長く息を吐いた。

写真が、周防雅子の記憶を叩いたのは間違いない。だが蘇ったのは、短く、ぼやけた一場面だけだった。それ以上は、何も。

同室の交通警察官二人は、ソファの女が無意識に震えたこと、顔色が悪くなったことに気づき、互いに目を合わせる。今日は進展は望めないかもしれない――そんな空気が流れた。

最初に対応していた交通警察官が、柔らかく言う。

「周防さん、無理なら――」

「いいえ」

雪美は紙コップの水をひと口含み、首を横に振った。

「無理じゃないです」

そして、平然と嘘を重ねる。専門家の名を盾にするのは、こういうとき便利だ。

「事故で頭を強く打って、医師から記憶が少し混乱してるって言われました」

目覚めたときに頭が空っぽだったのは事実だし、退院前に医師が言えることは、事故との関連を疑って経過観察する、くらいだった。

「私も、早く犯人を見つけたいんです。だから……」

雪美は真っ直ぐな目で尋ねた。

「車、押収してますよね? 実物を見せてもらえませんか。もしかしたら、もっと思い出せるかもしれない」

「……」

交通警察官は戦術的に黙った。

理屈としては、確かに一理ある。反射的に否定しづらい。しばらく考えた末、彼はスマホを取り出して誰かにメッセージを送り、返事を確認すると、急に人の良さそうな笑顔になった。

「本来なら、あまり適切なお願いとは言えません。でも目的は同じですからね。早く解決するために」

立ち上がり、ドアのところで手招きする。

「こちらへどうぞ」

雪美はすぐに立ち、彼の後ろについていく。二人は庁舎を出て、裏手の広い空き地へ向かった。歩きながら、交通警察官の口は止まらない。

「この車を見つけるのに、うちも相当苦労しましてね……」

「見つけてみたら、犯人がどこかで偽のナンバーに付け替えてたんです。映像からナンバー追跡をかけても、引っかからなかったわけだ」

「しかも車は郊外の村に隠してあって、林が濃い上に草のむしろまで被せてた。住民も気づかなかったんですよ」

「それに、現場に駆けつけた直後に運悪く雨が降りましてね。タイヤ痕以外、まともな痕跡が残らなかった」

取り留めのない話の間に、薄暗い空き地へ着く。そこには車が点々と並んでいた。無傷に見える押収車両もあれば、ひと目で事故車とわかるほど損傷したものもある。

「ほら、あそこです」

交通警察官が指差す先に、車の輪郭が見えた。

ただ、そこには先客がいた。懐中電灯の光が上下に揺れ、夜の闇の中でやけに目立つ。

近づくにつれ、雪美はその二人の影をはっきりと認識した。市公安局重案組の矢野智と陸田暁だ。

二人は形だけ交通警察官に挨拶し、男同士のぎこちない世間話が始まる。矢野たちは「関連車両の確認に来た」と言い、言い訳としては一応成立していた。

雪美は気にしない。少し首を傾け、重案組の組長を観察する。

その身長は、屈強な男が多い警察組織の中でも目を引く。夜の闇が鍛えた体躯を包み込み、普段よりも圧が増して見えた。

交通警察官がふと振り返り、雪美に言う。

「周防さん、これです。自由に見て構いませんが、なるべく触らないでください。現場での採取は終わっていて、車体からあなたの血液反応も出ています。ただ念のため、余計な損傷は避けたいので」

雪美は頷いた。

三人の視線を背中に感じながら、彼女は黒いジープの周りを一周する。車体は比較的形を保っているのに、フロントだけが無残だった。

やがて車の正面で足を止め、黙り込む。

数回、呼吸を整えたあと――ゆっくりと目を閉じた。

数メートル離れた場所で、陸田暁が声を潜める。

「矢野隊長、あれ……何してんすか?」

「思い出そうとしてる」

矢野智は短く答えた。その目の奥を、複雑なものが一瞬だけ走る。

陸田暁はぶつぶつと続ける。

「やけに真剣だな……前に『忘れた』って言ってたの、マジだったのか?」

自分の中に根を張っていた疑念が、少し揺らぐ。認めたくないのに、目の前の周防雅子は、あまりにも必死に見えた。

そのとき、車の正面に立つ雪美の顔が、ぴくりと引きつった。

ピッ――!

また、あの短く耳を裂くクラクション。

記憶の中の周防雅子が、反射的に振り返る。視界に飛び込んでくるのは、二つの眩いヘッドライト。

映像はそこで止まった。

雪美は周防雅子の身体を操るように、ぎゅっと目を細める。光の膜を押しのけ、必死にその向こうを見ようとする。

やがて、ヘッドライトの眩しさがわずかに落ちた気がした。濃い闇を無視すれば、フロントガラスの輪郭が、確かに見える。

雪美が目を閉じてから開くまで、実際には二分ほどしか経っていない。

動きが戻ったのを見て、交通警察官が慌てて近づき、期待を隠せない声で尋ねた。

「どうです? 周防さん、何か思い出しましたか?」

「思い出……」

雪美はこめかみを揉み、鈍い痛みに眉を寄せながら言う。

「あの日は会社で残業が長引いて……あの道を通ったのも、ほんとに思いつきです」

「その時間だと地下鉄もバスも終わってて。急におでんが食べたくなったんです。羽田丁目を抜けたところに、すごく美味しい店があって。そこまで十分ちょっと歩いて、持ち帰りを買って、それからタクシーで帰ろうと思って」

矢野智が目を細める。思いつき、か。

もしそれが本当なら面白い。あの事故が偶然ではなく狙いだった場合、犯人は周防雅子の行動パターンを、想像以上に把握していたことになる。

「ほかに、何か細かいことは?」

交通警察官が食い下がる。

雪美は記憶を探るように眉を寄せ、やがて悔しそうに首を振った。

「それ以上は……全身が痛くて。意識がなくなる前に感じたのは、自分の血の匂いだけです」

本当は、フロントガラス越しにハンドルを握り締める手が見えた。倒れたあと、視界が滲む中で足音も聞いた。相手が車を降りた可能性は高い。

血の匂いのほかに、言葉にできない何か――妙に馴染みのある匂いも混じっていた。だが、どうしても思い出せない。

しかも当夜は雨が降ったという。曖昧な記憶を口にしても、意味は薄い。

否定の返事を受け、交通警察官はため息をついた。もともと大きな期待はしていなかったのだろう。四人を連れて戻り始めるが、歩きながらも口は止まらない。

「車の名義を調べたら、中古車のブローカーでした。そこから購入者に当たったら、半年前にA市を出て地元へ戻ったと言いましてね。車はその前に盗まれたと」

「当時の盗難届も確認しましたが、記録はちゃんと残ってました」

また手がかりが途切れる。

だが矢野智は大して反応しない。陸田暁と交通警察官が前で盛り上がっているのを、ただ黙って聞き流していた。

その背中に、柔らかく、少し掠れた女の声がかかる。

「矢野警察官」

矢野智は即座に顔を横に向ける。早足で追いついてきたのは、彼の胸元あたりまでしか背のない女だった。

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