第8章

「ありがとうございます」

小原雪美は相手の傍らに立つなり、脈絡もなくそう口にした。

矢野智は、彼女の無害そうな笑みを数秒見つめる。――前回、取調室でこの周防雅子が口にした言葉の一つ一つが、すべて計算の上だったのだと、ようやく腑に落ちた。

刑事を長くやってきて、事件関係者に鼻先を引き回されることはそう多くない。だからこそ矢野は、濃い眉をわずかに吊り上げ、淡々と言った。

「周防さん、何の礼です? 桐生明瀬の転落死は、まだ片付いてませんよ」

わかっていてとぼけるつもりらしい。小原雪美もわざわざ突かず、歩き出しながら言葉を選んで続けた。

「ちょっと気になって。警察は、どうやって桐生明瀬と私の関係を特定したんですか? 電話とかで?」

二人は交通課の職員と陸田暁の後ろについて、事件車両を置いていた空き地を抜けたところだった。前方の庁舎から漏れる灯りが、さっきまでの暗がりよりずっと目に優しい。

矢野は、相変わらず前でしゃべり続けている陸田暁をちらりと見てから、公務員然と答える。

「英華マンションで遺体を発見した時点で、身元を確かめられる身分証や携帯がありませんでした。最終的には、21号棟1903号室の部屋主から身元が確定しています」

「周防さんや、ほかに被害者と関係が深い方々については、被害者の交友関係を洗う過程で確認したものです。捜査上必要で、こちらの職務でもあります。ご理解ください」

「理解してます、もちろん」

小原雪美は即座にうなずいた。だが脳裏には、さきほど遠坂博の住まいの下で目にした光景が、するりとよぎる。ぱちぱちと瞬きをしながら、考え込むように。

最初は自分の突飛な推測に半信半疑だった。けれど今の話を聞く限り、あり得ないとも言い切れない。

桐生明瀬が生前、公にしていた恋愛関係は、彼女の知る限り周防雅子ら数人の女性だけだ。――だが、もしそれだけではなかったら?

遠坂博と周防雅子の、理由の見えない関係悪化。仕事中の何気ない言動。そして、あの大きな窓の前で背後から彼を抱きしめていた――男の影。

それらが、小原雪美の中で一つの大胆な仮説に形を与えていく。

周防雅子が桐生明瀬のことで、正体不明の浮気相手に憎しみを抱いたのだとしたら。では、周防雅子より前にいた「誰か」は、同じように彼女を憎んでいたりしないのか。

警察が徹底的に洗えば、桐生明瀬と曖昧な関係にあった相手は、逃げようがないはずだ。なのに遠坂博は捜査線上に上がっていない。だからこそ小原雪美は、一度は自分の考えを疑った。

だが、被害者の携帯がいまだ行方不明だと知った瞬間、思考はまた活気を取り戻す。

現実の顔とネットの顔がまるで別人――そんな若者は珍しくない。周囲の証言だけで描かれた桐生明瀬が、本当に「全部」なのかはわからない。

半年以上一緒にいた周防雅子でさえ、彼を見抜けたとは言い切れないだろう。いまここに立っているのが自分でも、同じだ。

我に返ると、十数メートル先はもう交通課の庁舎だった。小原雪美は、そこで足を止める。

「もしかして……」

矢野は彼女が口を開く前に反応し、同じく立ち止まった。交通課の職員と陸田暁が庁舎へ駆け込んでいくのを見送り、わずかに頭を下げて耳を傾ける姿勢を作る。

「矢野警察官。疑わしいのって、私たちみたいに桐生明瀬に傷つけられた女だけじゃない、って考えたことあります?」

彼女は「女」を強く噛んで言い、唇をきゅっと結んだ。

矢野は一瞬で、言外の意味を掴む。

事件後、桐生明瀬がよく使っていたSNSのやり取りも確認した。だが目立った異常はない。知人の証言も合わせると、被害者は女好きでだらしない男――それが大方の像だった。

だが、もし彼が隠していた秘密があるとしたら。

同性、か。

あり得ない話ではない。

矢野は小原雪美を見つめ直す。表情の奥に、かすかな複雑さが混じった。

これまで接触した元恋人や曖昧な関係の女たちは、誰一人としてそんな推測を口にしなかった。恨みによる中傷でないなら、周防雅子は何かを――何かの違和感を確かに掴んでいたことになる。

「周防……」

矢野が口を開いた、その瞬間。

小原雪美が遮った。

「矢野警察官。いまのは、事故のせいで記憶が混乱してるとか、そういうのと関係ないです。さっき不自然だって気づいたから、すぐ共有しただけで」

生まれつき幼さの残る丸い顔に、少しだけ狡さが滲む。

「でも、昨日の夜、家に帰ってから……思い出したこともあるんです。いろいろ」

矢野の視線が、わずかに鋭くなる。

「事件の晩、桐生明瀬と口論して、エントランスを出たとき……管理センターの清掃員が、まだ作業してるのを見ました」

「それから、外に出て左へ曲がって、建物の横のベンチに座って資料を直してたんですけど……帰ろうと思うまで、何の物音も聞こえなかったんです」

「私が集中しすぎてただけかもしれませんけど」

言い終えた途端、周囲がすとんと静まり返った。庁舎の中から漏れる人声と、遠くで近づいてくるサイレンだけが薄く響く。

矢野は姿勢を崩さないまま、小原雪美を上から下まで圧のある視線で見た。そして彼女の言葉から、二つの要点を抜き取る。

一つ。深夜にもかかわらず働いていた管理センターの職員。

もう一つ。桐生明瀬の転落死には、不自然な点がある。

「……とにかく、矢野警察官。やっぱりお礼は言わせてください」

小原雪美は肩からずり落ちかけたショルダーバッグを直し、落ち着いた表情にほんの少し寂しさを混ぜる。

「桐生明瀬との過去は、楽しいものじゃなかった。でも……殺した犯人は、早く捕まってほしいです」

矢野が返す前に、彼女は無理に笑みを作った。

「さっき交通課の方が、今日はここまでって言ってましたし。ほかに用がなければ、帰ってもいいですか?」

矢野は止めなかった。

周防雅子――小原雪美は背を向け、交通課の門を出る。路肩でタクシーを待ちながら、手元のスマホを操作している。SNSで誰かとやり取りしているようだった。

そのとき、陸田暁がいつの間にか隣へ跳ねてきて、左腕を矢野の右肩に無理やり引っかける。背伸びして外を覗き込みながら言った。

「また帰っちゃった?」

「矢野隊長、今日一日、交通課でバタバタした割に……当て逃げ車は見つかったけど、結局進展なしじゃないですか」

陸田は、運転手から大きな突破口が出るか、被害者が何か思い出すかを期待していた。だが、成果は薄い。空振りに近い。

矢野は愚痴を受け流し、周防雅子がタクシーに乗り込むのを確認してから、ゆったり尋ねた。

「交通課との調整は済んだか?」

「任せてください!」

陸田は胸を叩いて、ぱんぱんと音を鳴らす。

「大村隊長が、当て逃げのジープが盗難車だった件、専任をつけるって。まあ、だいぶ前の話なんで望み薄ですけど」

「……そうか。鑑識に急がせろ。車内から採れた指紋とDNA、処理を前倒しで。何か出るかもしれん」

「了解です」

用件が終わると、陸田の旺盛な好奇心がまた顔を出す。

「それで、さっき中で見ましたよ。周防雅子、隊長とけっこう話してましたよね? ほかの関係者みたいに、自分は無実だって必死に――」

「逆だ」

矢野の声に、わずかな不可思議さが混じる。

周防雅子は、何もかもが逆を行く。病院で目を覚ましてからというもの、言動のすべてが、むしろ自分の疑いを濃くしているように見えた。

矢野はいつも天秤にかける。彼女の話は真実か、それとも捜査の方向を攪乱し、逃げ道を作るための誘導か。

普通、警察が「まず疑う」相手が、毎日のように警察の前で跳ね回るだろうか。やけに活発で、まるで別人のアカウントみたいに。しかも、捜査そのものを導こうとしているようにすら感じる。

信じるか。

信じないか。

二択が目の前にあるのに、矢野は珍しく黙った。

「逆? 何が逆なんです?」

陸田は班長の異変に気づかず、食い下がる。

矢野は説明せず、肩の腕を振りほどいて、駐車してある車へふらりと歩き出した。

陸田は一瞬ぽかんとし、慌てて追いかける。

やがて前方から、矢野の次の指示が飛んだ。

「陸田暁。車に乗ったら、班の全員に連絡しろ。今すぐ署に戻って会議だ」

「はい!」

「桐生明瀬の線、もう一段掘る。いま市中で一番使われてる同性向けの出会い系アプリ、一覧を作らせろ。詳しいやつに当たれ」

「はい……え?」

陸田の声が裏返る。

矢野は平然と続けた。

「英華マンションの管理センター責任者にも連絡。明日の朝、こっちから行く。協力を取り付けろ」

「わかりました」

「それと、鑑識に準備させろ。転落現場から回収した証拠品、遺留品、衣類、土――全部、再鑑定だ。明日は人員も増やす。英華マンションへ同行させる」

「待ってください、再鑑定?!」

陸田は驚きのあまり足を止め、車の前で目を見開いた。矢野はすでに運転席に座り、エンジンをかけるところだった。

窓が下りる。矢野が顎をしゃくって、車の前からどけと合図する。

「特に衣類の土と微細な破片だ。英華マンションの敷地内、花壇の土は同じ系統だったが……粒子のレベルなら差が出る。鑑識に拾わせろ」

「それって……」

陸田は慌てて助手席に乗り込み、振り向いたまま声を上げる。

「21号棟1903号室と、下の花壇が……第一現場じゃないってことですか!?」

矢野は肯定も否定もしないまま、アクセルを踏み込んだ。車は交通課の門を飛び出す。

もしそうなら、犯人の反捜査能力は、こちらの想定を軽々と超えている。

現場が処理されたように見せかけ、警察に「1903号室の痕跡が全滅しているのは、証拠を残したくないからだ」と思わせる。

転落後に花壇の土を整え、遺体を動かしたのち、薄く土をかけて「時間稼ぎだ」と思わせる。

――なら、問いは一つ。

第一現場は、どこだ。

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