第1章 イケメンを助けた
「彩実、十八になったらジャグオク王国へおいで。先生には万貫の財産がある。来たら全部、あなたに継がせてあげる……」
星野彩実は崖下の草地に寝転がり、断崖の上で切り取られた空をじっと見つめていた。
五分前。星野奈菜が「写真撮ろうよ」と手を引いてきた。
その次の瞬間――背中を押された。
もし事前にこの崖を下見していなければ。
星野彩実は、間違いなく死んでいた。
どうしても理解できない。
星野家は十八年も自分を育てたのだ。蟻一匹だって、飼えば情が移るはずなのに。
なのに自分は、奈菜のために大きな厄災を六度も身代わりで受けた。それでも星野家の人間は、まだ自分に死ねと言う。
――私、死ななきゃいけないの?
――絶対に?
だったら、こっちだって死にたくない。
ジャグオク王国へ行って先生を頼ればいい。
技を身につけてから戻ってきて、星野家の悪魔三匹を――きっちり片付けてやる。
彩実はむくっと起き上がり、腹立ちまぎれにタロットカードを取り出した。
自分の気運と未来を占うために。
六年前。
自分と妹の奈菜が小学校を卒業したとき、奈菜は「中学も高校も自由がなくなる」と泣きわめき、彩実と一緒に雪山スキー研学に参加した。
立ち入り禁止の場所で、奈菜はどうしても大声で歌いたいと言い張った。
雪崩が来た瞬間、彩実は奈菜を突き飛ばし、代わりに雪塊に叩きつけられた。ジャグオク王国の病院で一か月以上、動けずに寝た。
隣のベッドには、六十過ぎの老女がいた。鼻が長く、喋るのが妙に早い。
なのに、人と話すのが大嫌いらしく、目も合わせない。
同室になって十日目。
ようやくその老人が、最初の一言を口にした。
自分の名はジェニー。タロットカードに長けた「使者」だと言った。
要するに魔女だ。彩実は深く追及しなかった。
ジェニーは彩実が動けないのをいいことに、毎朝目覚めた瞬間からベッド脇に陣取り、占い方を叩き込んだ。
学ばないという選択肢は、許されない。
そうして彩実は一か月で一通りを覚えた。
ジェニーが退院のとき、電話番号と住所を渡し、こう言い残した。
「身近な誰も、信じるんじゃないよ」
その頃の星野家の両親は、彩実にとても優しかった。
まさか自分が幼い頃から遭ってきた数々の災難が、身近な人間によるものだなんて――思いもしなかった。
十八歳の誕生日の夜までは。
同じ誕生日の妹にサプライズを用意しようと二階に隠れていた彩実は、三人の会話を聞いてしまった。
「ママ! もう一日だって演技したくない! あのクズ女の子の卑しい雑種が、どうして私と同じ誕生日なのよ! 縁起悪すぎ!」
「奈菜、落ち着きなさい。占い師があなたの運命を見たの、忘れたの?」
「あなたは本来、地獄の使いがうっかり取り逃がした野良の幽霊なのよ」
「星野彩実の運命があなたに幸運を運ぶから、私たちは引き取ったの」
「そうだ、奈菜。わがまま言うな」
「占い師は言った。あの子は六回、あなたの厄を受ける必要がある」
「十八歳になったら、もう遠慮はいらない」
「遠慮いらないってことは、明日あいつ殺していいってこと?」
「ほんと気持ち悪い!」
「姉だからって、何でも私と張り合って!」
「今年、名門の令嬢たちは誰もあいつを招待しなかったのに! 写真一枚でエントリーして!」
「しかも最終選考に残った! あの枠は私のもの!」
「ママ! 成人式は博人兄のエスコート役、絶対に私がやるって約束したでしょ!」
「いいわ。明日、あなたがちょっと厄を作ってあげなさい。あの子に六回目を受けさせたら、好きに処分しなさい」
「死体は家に持ち込まないで。見たら私まで気分が悪い」
「あなたもよ、わざわざ双子なんて設定をでっち上げて。外に出るたびに『双子おめでとう』って言われるじゃない」
「私の娘は奈菜だけ。卑しい女が産んだのが、私をママと呼ぶなんておこがましい」
一言も漏らさず耳に入ってきて、彩実の体は氷水に落ちたように冷えた。
――溺水、火事、雪崩。
数年おきに襲ってきた厄災は、事故ではなかった。
星野家が意図的に作り出し、奈菜に降りかかる厄を、自分に押し付けていた。
そして――自分は星野家の実子ではない。
じゃあ、私は誰?
鞄を掴んで逃げようとした、そのとき。
スマホが震えた。
画面には、おじいちゃんからの着信。
星野家の中で祖父だけは特別だった。幼い頃は祖父がほとんど育ててくれた。
だが途中から、母は「老人の静けさを邪魔する」と言い、祖父の家へ行くのを無理やり禁じた。
――奈菜より可愛がられているのが、妬ましかったのだろう。
そう考えれば筋は通る。自分はよそ者で、奈菜こそ星野家の血筋。
「行くぞ。あのクソ野郎もケーキ取りに戻ってくる頃だ。下に降りて、最後まで演じきれ。今日が最終日だ、絶対にボロを出すな」
父が低く言った。
彩実は涙を拭い、二階の小庭から身を翻して外へ降りた。
玄関前で、手にしていたケーキ箱を地面に叩きつけ、わざと崩してから拾い上げる。
何も知らないふりで、家へ入った。
「お姉ちゃん、ケーキ割れちゃっても大丈夫だよ。明日、一緒に日の出見に行こう? 私たち十八歳だし、初日の出はお姉ちゃんと見たいの」
奈菜は袖に抱きつき、甘え声を出した。
「いいよ」
彩実はその夜のうちに山へ登り、ロープとエアマットを仕込んだ。
午前三時にようやく別荘へ戻り――そして、さっきの場面になった。
目が痛いほどしょっぱくて、彩実は瞬きをした。
星野家には、もう戻れない。
どこへ行く?
――ジャグオク王国だ。先生がいる。
ジェニーは性格は最悪だが、子もなく身寄りもない。数日前も「プリンセスドレスをたくさん買っておいた。ビートルも一台用意した」とメッセージを寄こしてきた。
今までなら信じなかった。誰が実の両親と妹を疑う?
……実の親じゃないなら、信じるしかない。
スマホを取り出し、発信しようとした――そのとき。
アークテリクスの登山靴。手にはストック。
背の高い端正な男が、頭上に立った。
影が落ち、陽射しが全部遮られる。
「まだ寝てんのか? 用が済んだなら起きろ。ここを通る」
不機嫌そうな、冷たい声。
さっきまで火照っていた体温が、すっと引いた。
「え、あんたも飛び降り? ここ最高だよ。仰向けで落ちたら、多分私の隣に寝ることになる」
彩実はずるりと横へずれた。
「義理は通すよ。左、空けとく。落ちて生きてたら、頭の位置が私と並ぶかもね」
「……神経いかれてんのか」
男は長い脚を上げ、彩実を跨いで通り過ぎようとした。
その瞬間――彩実が男の太腿にしがみついた。
「離せ!」
花村秋人は女に抱きつかれた経験がない。ましてやそんな位置を。
蹴ればいいだけなのに、反射が一拍遅れた。
彩実は、片脚で立ちながら崩れない男を見上げ、こくりと頷いた。
「ねえ、こんなイケメンが死ぬのもったいないしさ。だったら……」
「やめろ。言うな」
「私の兄になって。……え?」
「……」
拒絶の言葉が喉で止まったらしい。
男の頬が赤くなり、耳たぶまで血が滲むみたいに真っ赤になる。
追及しようとした彩実を置いて、花村秋人は山を下る方向へ歩き出した。
「私、いいことしたわ……イケメンの命、救った」
彩実は起き上がって手を払うと、ニュース通知が画面に弾けた。
