第3章 二人の兄さん
星野奈菜のネイルが、ぎらりと冷たい光を放った。
星野彩実は慌てて一歩引いたが、それでも腕を掠められる。
ぷつり、と皮膚が裂け、血の粒がぷくっと滲んだ。
「ふん! 今日はぶっ殺してやる!」
一撃を決めた星野奈菜は、ますます調子に乗る。
そのまま彩実の顔を引っかこうと手を伸ばした――その瞬間。
大きな手が二つ、同時に奈菜の腕を掴んだ。
片方の男は四六分けの短髪、三つ揃いのスーツ。肩幅が広く、腰がきゅっと締まっていて、仕立ての良さが一目で分かる。
もう片方は耳にかかる長さの髪。鋭い目つきと顎の線が、近づくなと告げている。背丈はスーツ男よりわずかに高く、手首の骨が浮いていて――
見覚えがある。あの山登りの男だ。
「この前は口が回ってたよな。どうした、張り子の虎か?」
山登りの男は彩実に向けて言い、奈菜には一瞥もしない。
軽く手首をひねると、スーツ男も同時に手を離し、奈菜はどしゃんと尻餅をついた。
「妹! 俺だ! 兄だよ、浅倉拓実!」
スーツ男が山登りの男を押しのけるように前へ出る。
緊張したのか髪を触って落ち着こうとするが、握手はよそよそしい気がして、抱きしめるのは嫌がられそうで――手足が迷子だ。
彩実は慌てて笑顔を作り、手を差し出した。
「星野彩実です。……こんにちは、お兄ちゃん」
「えっ、疑わないの?」
彩実の即答に、拓実の喉元に引っかかっていた説明が、急に頼りなくなる。
「お兄ちゃん、鏡があったら分かるでしょ。私たち、似てるもん」
彩実は小首を傾げ、からかうように言った。
拓実ははっとした。
自分は昔から母に似て肌が白く、鼻筋が通り、口元の形も整っている。テレビで彩実を見て「母にそっくりだ」と思ったのなら――彩実と自分が似ていて当然だ。
「そ、そうだ……ごめん。急にテンション上がって……あ、紹介する! こっちは友達の花村秋人!」
花村秋人――。
彩実は、テレビ局脇の売店に掛かる“今年の新貴”ポスターを思い出して、ちらりと見た。あのシルエットの本人。
三十までに千億の社長。兄の友人。つまり未来の太い人脈。
秋人は腕を組み、苛立たしげに周囲を睨んでいる。誰かがスマホを上げるたび黒服が二人現れ、一人が札を渡し、もう一人が写真を消させた。
「こんにちは……お兄ちゃん」
彩実は呼び方に迷い、とりあえず兄に合わせた。
「俺はお前の兄じゃない。勝手に呼ぶな」
秋人は露骨に不機嫌だ。
だが床に座り込んだ奈菜は、むしろ嬉しくなる。
さっきは転ばされて頭が真っ白で、拓実の言葉は聞き逃した。でも肝心の名だけは耳に入った。
「花村さん! あなたが花村さんですよね!? 奈菜です! 京清市の令嬢たちの社交会、お母様が主催でしたよね! 私、今年の準優勝者なんです!」
奈菜はか弱げに手を伸ばし、助け起こしてほしいと訴える。
秋人は口角だけを上げた。
「準優勝者? じゃあ優勝者は誰だ」
名門令嬢コンテストの優勝は、生まれだけじゃない。
幼い頃からのインターナショナルスクール、IELTS、芸事の国家級の受賞歴。さらに容姿も、京清市中の美容外科院長クラスに、毛根の数から頭骨の形まで見られる。決勝に立てるのは、完璧の中の完璧だけ。
星野彩実が優勝――疑いようがない。
奈菜の準優勝だって、彩実が「それなら出る」と言ったから成立したようなものだ。
それなのに、星野蘭は彩実に優勝を譲れと言うつもりだったのか。
笑わせる。彩実がいなければ、奈菜なんて何の価値もない。
奈菜は唇を噛み、彩実の凄さには触れず、ひたすら媚び目を送る。
しかし秋人の視線は、彩実のまだ血が滲む腕に落ちていた。拓実が一向に去ろうとしないのを見ると、秋人の顔が一段冷える。
拓実もその冷気に気づき、肩をすくめた。
「妹、帰ろう。家に」
拓実が彩実の手を引いて向きを変えた、その瞬間。
立ち上がった奈菜と蘭が目配せし、彩実の腕を掴む。
「姉ちゃん、素性も分からない人たちに付いていくのはやめたほうがいいよ? それに……自分の身の上、もっと知りたくない?」
彩実は振りほどいた。
そして、拓実と秋人の腕にぎゅっと絡みつく。
「いらない。家族は見つかった。あなたたちみたいなの、私にはもったいない。行こ、お兄ちゃん」
「手を離せ」
秋人が、拓実に絡む彩実の手へ視線を落とす。
彩実はびくっとして、慌てて秋人のほうを離した。
秋人は鼻で笑い、二人の間を割って先頭を歩く。
彼が動くと、さっきまで金を配っていた護衛たちも一斉に後ろへついた。
二人、八人、三十人……。
「ねえ、お兄ちゃん! あの人、外出に護衛三十人なの!?」
彩実が目を丸くする。
拓実は頭を撫でたくて手を上げ、躊躇ったのを彩実に見つかった。
彩実はその手を掴み、自分の頭頂に置く。
「お兄ちゃん、緊張しないで。血の繋がりって不思議だよ。会った瞬間、すごく親しく感じた。お兄ちゃん!」
「……遅すぎたな。見つけるのが。悪かった」
拓実の目尻が赤く染まり、胸が締めつけられるほど痛々しい。
彩実は腕を絡め、護衛の群れに紛れて歩き出した。
「待って! 星野彩実! 私の許可なく行くな!」
奈菜が追いすがるが、黒服五人が壁のように並び、視線も手も遮った。
通りには黒いベントレーの列が果てしなく並ぶ。
「彩実様、どうぞお乗りください!」
その大声に、彩実は肩を跳ねさせた。
「これ、私へのサプライズ?」
振り返ると――秋人が先頭のロールスロイスの前に立っていた。ポケットに手を突っ込み、まだ不機嫌そうだ。
「お前の花村さんの案だ。乗れ。あいつの車に乗らないと機嫌が悪い」
拓実が小声で言う。
秋人と少し距離があるうちに、彩実は慌てて尋ねた。
「お兄ちゃん、あの無表情な人と仲いいの?」
「うん。小さい頃から一緒だ。花村家の庄園とうちは同じ山にあって、片方は山側で馬場と森、片方は海側で浜辺があって――それでな、妹。昔、お前と秋人は……」
「お前、しゃべりすぎ」
秋人が明らかに止めに来た。
