第4章 浅倉家の親族

「兄さん、言ってよ。私と秋人兄って、何があったの?」

「手、出せ」

花村秋人は助手席脇の収納を開け、精巧な救急箱を取り出した。星野彩実がきょとんとした、その隙に――。

秋人は彩実の腕をつかみ、自分のほうへ引き寄せる。

乱暴に見えるのに、手つきだけは妙に丁寧で、余計に腹が立つ。

こんなふうに自分の身体を粗末に扱う女を、秋人は見たことがなかった。苛立ちが胸の奥で膨らむ。

――崖下でのあの言葉も。

冗談でも、からかいでもない。本気で死のうとしていた。

星野彩実。お前、この数年……そんなに追い詰められてたのか。

「秋人、優しくしろ! やっと戻ってきた俺の妹だぞ!」

浅倉拓実はようやく、彩実の腕に走る引っかき傷を見つけた。唇をきつく結び、声を落とす。

「拾ってくれた家では……ずっと、こんな扱いだったのか」

拓実は来る途中で星野家のことを洗えるだけ洗っていた。表向きは“良家”。虐待の噂も、記録もない。

だからこそ、彩実の捜索が「寛容な家で育ったから」だと、どこかで思い込んでいた。

「前は違った。今は……ただ、崩れただけ」

彩実は首を振った。

言えない。証拠がない。

あの夜、本人たちの口から聞いたのに、動揺しすぎて録音もできなかった。

口だけで訴えれば、兄に“恩知らず”だと思われるかもしれない。

星野家は十八年間、自分を育ててくれたのだから。

しかも――あの数回の“仕掛け”さえ除けば。

通っていたのは名門校、着るもの食べるものも星野奈菜と同じ。両親の「優しさ」だって、いくらでも演じられる。

彩実が黙り込むのを見て、秋人の表情が沈む。

「……こいつ、都合のいいことしか言ってないな。お前ら先に帰れ。俺は行く」

ちょうど車は三叉路で止まった。

秋人は拓実の返事も待たずに降りると、長い脚で二台目に乗り込む。

「おい! 秋人! どういう意味だ、説明しろ! それに、その車お前のだろ! どこ行く!」

「お前の妹を送る」

「は? ふざけんな! 俺だって送れる!」

秋人の車列はするりと分かれ、角を曲がって消えた。

「……彩実。今の、本当なのか?」

「え? 何が?」

彩実はシートに背を預けたまま、「送る」の一言を思い出して、頬がかっと熱くなる。

横暴で、勝手で――なのに、やけに引っかかる。

「……いや、いい」

拓実は咳払いして話題を変えた。早口になる。

「帰るぞ。ほら、前がうちだ。俺がたくちゃんで、お前があやちゃん。父さんと母さんはちゃんと夫婦で、兄妹は俺たちだけ!」

「捨てられたんじゃない。あの夜、荘園が火事になって……お前はさらわれた」

「父さんは十八年、国内の施設も海外も、できる限りDNA照合を続けた。採血してな」

「東南アジアにも話を通してる。お前に手を出した奴がいたら祖先十八代まで許さないって」

「今回、テレビで見て一発で分かった! それと地震は関係ないからな!」

「浅倉家は京清市で今二位だ。つまり金がある。聞きたいことは全部聞け!」

祖父はビリーフォ荘園で静養中。祖母は荘園。母も荘園――。

祖母と母をわざわざ分けて言う。嫁姑がうまくいっていないのだろう。

彩実は唇を結び、頭の中で距離を測った。

面倒なら深入りしない。自分には、ジャグオク王国の師匠もいる。

「分かった、兄さん。みんな私のこと……待っててくれたんだね。余計なこと、考えない」

拓実がようやく息を吐いた。

ほどなく、浅倉荘園に到着する。

門前には人がずらりと並び、先頭に、背の高いスーツ姿の中年男が立っていた。

格好いい。拓実よりも、ずっと品がある。

彩実の目の奥が、じんと熱くなる。

車が止まると、ボディーガードが素早くドアを開けた。

男が大股で近づき、両腕を少し広げたまま――彩実の揺れる視線に気づいて、動きを止める。

「あやちゃん。俺が父さんだ」

低く温かな声が胸に落ち、彩実の目が赤くなった。

気取らず、その胸に飛び込む。

浅倉啓太の手が震え、深く息を吐いた。

……戻ってきてくれた。それだけでいい。

こんなに痩せて。外で苦労したに決まっている。

さらった奴を見つけたら、祖先十八代まで――。

「……」

喉に「お父さん」が引っかかって、出ない。

啓太は肩を叩いた。

「いい。急がなくていい」

彩実はこっそり涙を拭った。

「いやあ! これがうちのあやちゃん! 綺麗だねえ!」

啓太の背後から、花柄シャツの男がぬっと出てきた。唇も歯もやけに艶やかで、女より整っている。

「あやちゃん! 俺は叔父の浅倉大翔!」

啓太を押しのける勢いで抱きつこうとするが、彩実は動かない。

啓太が睨むと、大翔は手を引っ込めた。照れもしない。

「ほらほら、紹介するぞ。お前の父さんは遅いんだ、待てない。こっちは二叔の浅倉良樹、建築デザイナー!」

浅い髭の少しふくよかな男が、穏やかに微笑んだ。

「それから三叔の浅倉賢人。国際的な映画監督だ」

中華風のスーツの男が頷くが、笑わない。

「隣が二婶の晴美と三婶の法子。俺はまだ独身! さあ中へ。祖母が待ってる!」

「ねえ、おじさん! 私の紹介は? それにママも!」

プリンセスヘアの少女が、物静かな女の隣で唇を尖らせた。

大翔が気まずく笑いかけた瞬間、啓太は彩実の肩を抱き、屋敷へ歩き出す。

少女と、その女は固まった。

拓実は二人に軽く会釈し、妹の後に続く。

屋敷は広い。

赤い中世風のベルベットソファに、銀髪の老女が座っていた。手には青い宝石の数珠。指の間をするすると滑っている。

「祖母だ」

拓実が小声で言う。

「おばあさま」

彩実が呼ぶと、浅倉莉子は一瞥し、ため息をついた。

「戻ったならそれでいい。あとでお母さんに言っておきなさい。私じゃないって」

言い捨てると立ち上がり、去ろうとする。

プリンセスヘアの少女が腕に絡みつき、得意げに言った。

「おばあさま、午前中から待ってたのに、お茶も出さないとか礼儀知らず。ふん!」

「そうそう、礼儀知らず」

横で、少しふくよかで肌の黒い少女も同調した。

……帰って早々、洗礼ってわけ?

彩実は二人を見て言った。

「あなたたちは?」

「林田遥香お姉ちゃん! 私は浅倉友菜!」

彩実は友菜を見上げ、内心首を傾げる。

晴美はまだ三十にも見えないのに、娘が十七、十八? 似てもいない。

関係ない。彩実は淡々と返した。

「へえ」

「へえ、って何? 冷たっ! 一日中待ってたのに、挨拶くらい愛想よくしなよ!」

友菜の敵意は、隠そうともしていなかった。

前のチャプター
次のチャプター