第5章 死に急ぐ奴

浅倉家というのは、もともと娘が少ない家だ。星野彩実が戻ってくるまで、浅倉友菜はまさに掌中の珠だった。

「待たせて悪かったわね」

彩実はまだ、この家の空気も、人の機嫌の起伏も掴めない。けれど帰って早々、場を荒らすのは避けたかった。

「よし。あやちゃんは今戻ったばかりで、お前たちのことも知らない。礼儀だの愛想だの、求めるな。用がないなら自分の部屋へ戻れ」

浅倉啓太が、低い声で切り捨てた。

浅倉莉子はその態度を見て、ふっと鼻で笑う。

そこへ、先ほどから黙っていた物静かな女が、ようやく口を開いた。

「あやちゃん。私は林田夏美。あなたの叔母よ。……まだ会ったこと、なかったわね」

叔母。――母の妹?

なら、さっき兄さんが触れなかったのはなぜだろう。

夏美は言い終えると、親しげに彩実の手を取ろうとする。

「彩実、疲れたでしょう? おばあさまをお部屋までお送りする? それとも先に、お母さんのところへ行く?」

……言い方が妙だ。

疲れていると言いながら、いきなり二択を突きつけてくる。どちらを選んでも不孝だと責められそうで、腹の底がざわついた。

彩実は答えず、浅倉拓実を見た。

どういうわけか、兄さんだけは信じられる気がした。

「先に、おばあちゃんを送る」

拓実が短く示す。

彩実はその言葉に従い、祖母の前へ二歩進んだ。

「いらない。受け取れない」

浅倉莉子はそう言い捨て、立ち去ろうとして――ふと思い出したように、手にしていた数珠を浅倉友菜へ渡した。小声で何か指示する。

友菜が近づき、数珠をどん、と彩実の掌に置いた。

「おばあちゃんが、あげるって。……ふん。偏ってるよね」

最後の一言は囁き声。それでも彩実の耳にははっきり届いた。

啓太が目を細める。

浅倉良樹が友菜を鋭く睨んだ。

「……ありがとうございます、おばあさま」

本当は投げ返したかった。けれど、ちらりと見ただけで分かる。高い。

いざというとき、逃げる旅費になる。

「おばあさまはお疲れだ。休ませよう」

啓太が言い、彩実へ視線を落とす。

「あやちゃん。俺と一緒に、お母さんに会いに行くか?」

「はい、父さん」

彩実が何気なく返した、その瞬間。

啓太が、ぴたりと止まった。

次いで、口元がゆるむ。歯が見えるほどの笑み。

周囲が息を呑んだ。

――浅倉家の“氷の王”が笑った。

啓太が家を継いでから、名門四位を二位まで押し上げた男だ。海外資産まで含めれば花村家と肩を並べるとも言われるのに、本人は徹底して表に出ない。その男が、今――。

それが何を意味するか、誰もが理解していた。

啓太は、この失われた娘を本気で重く見ている。

「お義兄さん。DNAの結果、まだ届いてませんよね?」

林田夏美が、また口を挟んだ。

彩実は眉を上げる。

この女は、本当におかしい。さっきまで馴れ馴れしく手を掴み、踏み絵みたいな選択を迫ってきたくせに、今度は身の上話を蒸し返す。

……母に会わせたくないのか?

「いらない」

冷えた声で遮ったのは拓実だった。

「俺の妹だ。分かる。妹が戻ったなら、母さんを慰めるために、おばさんが頻繁に来る必要もない。あなたと従妹は、用がないなら自分の家へ帰れ」

夏美は呆けたように瞬き、すぐさま瞳を潤ませて啓太を見る。

――泣くの早すぎない?

彩実の胸の奥で、冷たい笑いが弾けた。役者だ。

「拓実の言うとおりだ」

啓太はそれ以上、誰の顔も見ない。彩実の手を取り、歩き出す。

「ふん。この家で『出て行け』なんて言うのは許さない。団欒の日に、泣くのも許さないわ」

祖母が吐き捨てる。

彩実は振り返った。

やっぱり、この家は兄さんが言うほど単純じゃない。自分の帰還を喜んでいる者ばかりではない。

……ただ一人、叔父だけは本当に嬉しそうだ。

「兄貴、待って! 俺も義姉さんに会う!」

浅倉大翔が追いすがり、勢いのまま喋り出す。

「そうだ、昨夜、花村家のお義姉さんも来たんだぞ。知ってた?」

「何しに来た」

「え、忘れた? 昔、あやちゃんが生まれた月の――」

「忘れた」

「ちょ、待てよ! あっちは言ってたぞ。これは絶対覚えろって。向こうの息子、もう23だ。待てないって」

「年寄りすぎる」

「五歳差だろ! どこが年寄りだよ! 兄貴なんか義姉さんより七つ上だろ!」

「俺がダメと言ったらダメだ」

啓太が弟を鋭く睨みつける。

だがすぐ、彩実が怯えないようにと視線だけで黙らせた。

やがて、荘園の西側に赤い瓦屋根と白い壁の邸が見えてくる。

敷地はおよそ1500平米。門は指紋認証のロック。

啓太がノックしようとした、そのとき。

白いワンピースに長い数珠を掛けた女が、門の内側に立っていた。

彩実を見た途端、ぽろぽろと涙が落ちる。真珠みたいに。

次の瞬間、門が開いた。

女が飛び出し、彩実を抱きしめる。

「あやちゃん……! お母さん、ずっと……ずっと待ってた……!」

彩実が「お母さん」と呼ぶ前に、女の体がふっと崩れた。

「阿初!」

啓太が抱きとめ、そのまま本館へ駆け出す。

「医者を! 早く!!」

「彩実、来い!」

拓実が彩実の手首を掴み、二人も走る。

大翔は別方向へ駆けながら電話を掛けていた。

――その頃。

林田遥香は祖母のそばに縋りつき、すすり泣く。

「おばあちゃん……姉ちゃんが戻ってきたら、おじさん、私たちを追い返すの? やだ……。おばあちゃんは私のおばあちゃんだもん。会えないの、つらい……」

浅倉莉子は遥香の頭を撫で、淡々と言った。

「安心しなさい。追い出されないわ。……それに、人が戻るのが必ずしも良いこととは限らない」

言い終える前に、外で使用人の悲鳴が上がった。

遥香が立ち上がろうとすると、莉子が制した。

「行くんじゃない。あなたの伯母は身体が弱い。想定内よ。……それに、あなたのおじさんは薄情な男じゃない」

「おばあちゃん、私とママは、そんなつもりじゃ……。本当に、そばにいたいだけで……ほら、ママ、今も薬膳を作ってる。おばあちゃんの体のこと、心から心配してるの」

遥香はどこか後ろめたい。

母が啓太の妻の座を狙っているのは周知の事実だ。だから母娘で浅倉家に十年も居座ってきた。

遥香だって、十年“お嬢様”として甘い汁を吸ってきたのに、彩実が戻ったからといって、あの狭くてみすぼらしい家へ帰れだなんて――冗談じゃない。

父親が早く死んだのは、幸運だった。

生きていたら、京清市の貴女暮らしなんてできなかったのだから。

――どうして十八年も消えて、まだ戻ってくる。

外で死んでいればよかったのに。

星野彩実。

死に急ぐみたいな顔をしているくせに。

そこへ浅倉友菜が紅茶を盆に乗せて入ってきた。

遥香の、歯を食いしばった表情を見て、ぞくりと背筋が冷える。

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