第6章 星野彩実の疑い
浅倉荘園
「田中先生、家内は……どうなんです?」
浅倉啓太はベッド脇に膝をつき、緊張で指先が小さく震えていた。
老眼鏡をかけた年配の医師が丸椅子に腰掛け、浅倉友紀子の手首に指を添える。聴診器を当てながら、口の中で何かをぶつぶつと唱えるように呟いていた。
友紀子の血の気は、見る間に引いていく。
やがて田中英治が顔を上げ、浅倉啓太に目で合図を送った。
啓太はすぐに、周囲の者を外へ出す。
だが浅倉拓実は残り、星野彩実もまた動かなかった。
一人は部屋の奥、もう一人は扉のそば。
「言ってください、田中先生。家内はいったい……」
啓太の声が焦りでかすれる。
「田中じいちゃん、早く……このままじゃ親父が持たない」
拓実は青ざめた母の顔を見つめ、喉の奥を押しつぶしたような声で続けた。
「母さん、どうして急に倒れたんだ。顔色も……」
言いかけて、口を閉ざす。
両親の仲は誰より深い。縁起でもない言葉など、言えるはずがなかった。
彩実は眉を寄せ、友紀子の顔から目を離さない。
——ただの体の弱さとは違う。
痩せてはいても「長年の病弱」という雰囲気ではない。青白いのは、日に当たらない暮らしのせいが大きいはずだ。
動悸で倒れたとしても、診察が間に合っているなら、こんな短時間でここまで灰色に落ちるだろうか。
今すぐ占いたい。けれど、今じゃない。
それに——田中英治の腕も、見ておきたかった。
田中英治は室内を見回し、扉口に立つ彩実で視線を止める。啓太が頷き、紹介した。
「娘です。今日、ようやく見つかったばかりで」
「……あやちゃんか?」
確かめるような口調。
その呼び方に、彩実の肩がわずかに跳ねた。
「彩実、お前をこの世で最初に抱いたのは、わしだぞ」
田中英治がふっと笑う。
——この人が取り上げてくれたんだ。
彩実は腑に落ちる。
だが田中英治が昔話をする余裕を見せた分だけ、啓太の焦りは募った。
「田中先生、すみません、話はあとで……! 家内はどうなんです? 指先も冷たい。病院へ連れていくべきですか?」
普段の啓太なら、こんな言い方はしない。
田中英治は京清市第一病院の院長だ。目の前にいる医師を差し置いて「病院へ」と言うのは、信頼していないと言っているようなものだった。
「ほう、わしを信用せんのか」
田中英治がわざと鼻を鳴らす。
拓実が慌てて袖を掴む。
「田中じいちゃん、からかわないでくれ。母さん、ほんとにおかしいんだ。早く言って」
「……心筋虚血で倒れた。これから針を打つ。大事にはならん」
田中英治がゆっくり言う。
「でも……」
「でも、何です?」
彩実が思わず割り込んだ。
田中英治は一瞬ためらい、結局、続きは飲み込んだ。
——先天性心疾患の兆候。
だが二十年以上前、友紀子が拓実を産んだ時、全身の検査は自分がやっている。そんな所見は、なかった。
なぜ今になって。
その逡巡だけで、彩実には分かった。
母の症状は、単純じゃない。
田中英治は話を切り上げ、拓実に言う。
「たくちゃん、金針を持ってこい」
田中英治の金針は有名だった。九尾金針で何人も死線から引き戻したという話は耳にする。さらに伝説じみた『鬼医十三針』まであるとも——ただ、実際に見た者はいない。
田中英治が包みを広げ、白い布の上に一本ずつ並べていく。
一本、三本、七本……十三本。
啓太と拓実が息を呑んだ。
本当に——十三針。
「全員、出ろ」
田中英治が言う。
啓太は迷わず拓実を連れて廊下へ出た。
彩実も扉口で母を最後に見つめ、回廊へと下がる。
「……あやちゃん。今日のこと、気に病むな」
啓太は声をできるだけ柔らかくした。
「お前を十八年待ってたんだ。会えたのが嬉しくて、倒れただけだ。誰も予想できなかった。お前のせいじゃない」
彩実は小さく頷く。
会ってからまだ半日。父がどこまで自分を受け入れているのか、測りかねていた。
拓実が彩実の肩を抱く。
「彩実、田中じいちゃんを信じろ。あの爺さん、脅かすのが趣味なだけだ。母さんは大丈夫」
軽口でも、体は硬い。緊張がそのまま伝わってくる。
彩実は隣の空き客室へ視線を向けた。拓実が気づいて言う。
「驚いただろ。隣、空き部屋だ。休め」
彩実は頷き、遠慮なく部屋に入った。
静けさがほしい。
タロットで母の運勢を——今夜のうちにでも確かめたい。
田中じいちゃんの腕は信じたい。けれど、それでも不安は消えない。
占いは、未来の気運や寿命、そして大きな厄を越えられるかどうかまで示す。
彩実は扉を閉め、タロットカードを広げる。
素早く三枚引き、順にめくった。
——太陽。
——運命の輪。
——天使。
母は今、巨大な危機の渦中にいる。
さらに二枚。
未来を覗こうとして引いたのは——杖、そして霧。
誰かが救う。だが完治ではない。
救いの手は、“これから”現れる。
彩実はカードを閉じ、しばらく考えた末にジェニーへ電話をかけた。
『まあ、私の天使。どうしたの? 航空券はもう取った? 会えるのが待ちきれないわ』
受話器越しに、ジェニーの甘い声。
彩実は飾らず言う。
「ジェニー……実の両親が見つかったの。今、その家にいる。でも母が倒れて……さっき占ったら……」
『出た目がよくないのね?』
鋭い返し。
「うん、ジェニー」
彩実の声が沈む。
「母に、誰かが呪術をかけた気がするの」
『どうしてそう思うの?』
「忘れたの? 私、あなたの自慢の弟子だよ。本当に病気なのか、それとも呪いなのか……そのくらいは見分けられる」
