第8章 人を害する動機
浅倉拓実はさっきまで星野彩実の手を引いて歩いていたはずなのに、瞬きした途端、妹の姿が消えていた。
さっきまでそこにいた人間が、当たり前みたいに見当たらなくなる。浅倉拓実は、彩実が視界から外れただけで胸がざわつくようになっていた。――「妹をちゃんと守れ」。父から託された、いちばん大事な役目だからだ。
星野彩実が田中英治に向かって手を振っているのを見つけ、拓実はようやく息を吐いて近づいた。
「庭園まで来てたのか? 田中爺さんを見送るなら一言言えよ。探し回ったじゃねえか」
「大丈夫だよ、兄さん。田中爺さんと、お母さんの病気のことを少し話してただけ」
「で、田中爺さんは何て言ってた?」
「うん……それは、あとで……」
「……ん?」
拓実が眉を寄せると、彩実は一拍置いて、言い直すように口を開いた。
「……やっぱり言う。兄さん、黙ってられない。お母さんのこの病気、誰かがわざとやってる可能性がある」
「は? そんなわけ――」
浅倉拓実は固まった。
「どうして分かるんだよ。田中爺さんが今、言ったのか?」
「兄さん。私、実は魔女なの」
彩実は真顔だった。
拓実は一瞬ぽかんとして、次の瞬間、腹を抱えて笑った。
「魔女って……魔法の薬とか作るやつか?」
彩実は厳粛にうなずく。
「うん。人を気絶させる薬も、目を覚まさせる薬も、記憶を消す薬も作れる」
「彩実、アニメ見すぎだろ」
そう言いながらも拓実が笑い続けると、彩実は庭園の一角を指さした。帽子をかぶったガーデナーが、植え込みの手入れをしている。
「兄さん、信じる? タロット1つで、あの人の前世今生――少なくとも今世のことなら当てられるよ」
「当てたって本人が認めねえだろ」
拓実はからかうように肩をすくめる。
「未来は誰にも分かんねえしな。じゃあ今世でいい。やってみろ、聞いてやる」
腕を組み、拓実は彩実を見守った。彩実は膝の上にカードを広げ、指先で迷いなく引き抜く。
ほどなくして立ち上がり、あのガーデナーを指さす。
「あの人、35から38。生まれは海の近く。両親はいないか、幼い頃に離れてる。血の繋がらない年上と暮らしてて、妹が一人。娘が二人。奥さんはいない」
拓実の笑みが止まった。
使用人や作業員を全員把握しているわけじゃない。真偽の判別がつかず、拓実は帽子の男に手招きした。
呼ばれた作業員は、長い剪定ばさみを置いて、はあはあと息を切らせながら駆け寄ってくる。
「若様、お呼びでしょうか」
「お前、孤児か?」
作業員は一瞬だけ固まり、すぐに首を振った。
「……違います」
拓実は「ほらな」と言わんばかりに彩実の腕を軽く叩く。
だが彩実はその手をむっとして払いのけた。
「私が聞く」
矢継ぎ早の質問に、作業員は次々とうなずいていく。最後に彩実がもう一度だけ、同じ問いを投げた。
「……本当は、孤児だよね?」
作業員の目が赤くなり、こくりとうなずいた。
最初に否定したのは、親を思い出すのがつらいからだ。普段、自分からは言わない。それだけの話だった。
拓実が目を丸くする。
「お前、彩実と知り合いなのか?」
作業員は慌てて首を横に振った。
「違います! 初めてお会いしました!」
若様の隣で、ここまで気安く口を利く少女が何者か分からない。だが浅倉家の人間に違いないだろう。だからこそ、余計なことは言えなかった。
作業員が去ると、彩実は得意げに顎を上げて拓実を見る。
拓実は唇を尖らせた。
「……参った。お前の占い、ちょっと本物っぽいな」
「兄さんに証明したかったんだ。さっき、お母さんのことも占ったって」
「わざわざ回りくどいのは、俺が信じないと思ったからか?」
拓実は彩実の頭をくしゃりと撫でる。
「いらねえよ、証明なんて。お前が言うなら信じる。何でも」
――十分後。
二人は庭園の東屋に身を潜めていた。
「誰が母さんにそんなことする? 母さんはずっとレッドハウスにいて、外で揉め事なんか起こさねえ。接触する人間も多くない。やる意味があるのか……」
拓実は眉間に皺を寄せたまま、動機を組み立てようとする。
「父さんに恨みがあるやつが、狙いを間違えたって線も……」
そのとき彩実がふと顔を上げた。
本館の二階。黒いスーツのスカート姿の女が、使用人たちに指示を飛ばしている。使用人は全員、背を丸めて「はい、はい」と頭を下げていた。
「……おばさんって、顔が何枚もある」
彩実が小さく言う。
「兄さん。動機がいちばん大きいの、あの人じゃない?」
拓実も視線を追う。
「……林田夏美おばさんか」
「信じてくれる?」
拓実は迷いを飲み込み、うなずいた。
「信じる。彩実。俺、言っただろ。お前の言うことは信じるって」
彩実は深く息を吸う。
「調べるべきだよ。兄さんの言い方は違う。動機がある人、この家に案外いる。でも――あのおばさんが、いちばんだと思う」
拓実だって、林田夏美の胸の内を知らないわけじゃない。
夫を早くに亡くし、娘を連れて姉と義兄の家に身を寄せた。居候のくせに何もしない、なんてタイプではなかった。むしろ浅倉啓太の代わりに屋敷の内側を回し、執事のように朝5時に起きて夜10時に寝る。使用人の躾も行き届き、悪く言う者は少ない。父への距離も一見して越えない――だからこそ、拓実は判断をためらう。
「男が女を見る目と、女が女を見る目は違うんだよ」
彩実はそう囁き、東屋に置かれていた大ぶりの花切り鋏を手に取った。
林田夏美の視線には、排斥と嫌悪が混ざっている気がする。けれど、それを兄に言って余計な不安を増やしたくはない。
真相は必ず突き止める。誰かが大切な人を傷つけたなら――容赦はしない。
彩実の指が鋏を開閉させる。
カチ、カチ。
二階の窓辺にいた林田夏美は、いつの間にか姿を消していた。
――京清市・星野家別荘。
「お父さん。星野彩実のあのクソ野郎、風俗女が産んだクズだって言ってたのに……テレビ局に迎えに来た連中、何者? それに花村って男、あれ本当に花村秋人なの?」
星野奈菜は、黒いベントレーの列を思い出すたび、悔しさで眠れなかった。
星野卓志はソファにもたれ、煙草に火をつける。ふう、と煙を吐いた。
「お前と母さんの話を聞いて、こっちでも当たった。だが……十中八九、彩実が雇った役者だろう」
星野蘭も頷く。
「そうよ。ここは京清市よ? 外出に三十台も五十台も車を連ねるなんて、王子様だって無理よ」
奈菜が食い下がる。
「でも、お父さん。本当に何も出てこなかったの? ……彩実の『兄』って名乗ってた男、明らかに普通じゃなかった!」
星野卓志は首を振った。
「大した身元は掴めなかった。名前もまともに出てこない。小物だ」
