第2章

「ヴァネッサ」

 背後からホッジスの声が響く。

「警備員に外まで案内させよう」

 ヴァネッサは一瞬だけ動揺を見せたが、すぐに凄んでみせた。

「ホッジスさん、忠告しておきますけど、ビバリーヒルズの買収案件は私が担当しているんですよ。もし私が今日ここを去れば、プロジェクトの進行は確実に頓挫しますからね」

「ディレクター。元々、このコンペ案件は私とヴァネッサが共同で担当する手はずでした。コアデータはすべて、私が単独でバックアップを取ってあります」

「ヴァネッサ、あなたずっとこの案件が厄介だって愚痴をこぼしていたじゃない。だから私が空いた時間に最後まで片付けておいたの。私たちの仲なんだから、遠慮なんていらないわ」

 ヴァネッサは怒りのあまり言葉を失った。

「経理部へ行って未払い分の精算を済ませなさい。不服があるなら、君の弁護士から直接うちの法務部へ連絡させるんだな」

 ホッジスが冷ややかに言い放つ。

 結果至上主義のホッジスが下したその決断は、図らずも私に味方する形となった。

「よし、見世物はこれでお開きだ。全員デスクに戻って仕事に励むように!」

 彼は周囲に向かってパンと手を叩いた。

 前世、私はあの酒の席で非人道的な苦痛を味わった。だからこそ、今ヴァネッサが解雇されるのを目の当たりにして、むしろ良かったのだと思えた――私が間接的に、あの危険な宴席への彼女の参加を阻止し、救ってやったも同然なのだから。

 ヴァネッサがオフィスに戻ると、私もその後を追って中へ入った。

 彼女はデスクの上の書類や写真立てを狂ったように段ボール箱へ放り込んでいたが、私のことなど完全に空気扱いだった。

「ヴァネッサ、会社を辞めることになったのは残念だけど、私の家族の人脈を使って、すぐにでももっといい仕事を見つけてあげるから……」

「黙って、クレア!」

 ヴァネッサは手にしていたペン立てを段ボール箱に思い切り叩きつけ、鼓膜を劈くような大きな音を立てた。

 彼女は振り返り、私を射殺さんばかりに睨みつける。

「その上から目線の施しみたいな態度、やめてくれない! 私を会社から追い出すために、最初から全部あなたが仕組んだことなんでしょ? あんたの同情なんか反吐が出るわ!」

「ヴァネッサ、少し落ち着いて。あなたが思っているようなことじゃないの」

「じゃあどうだっていうのよ!」

 ヴァネッサは金切り声を上げ、じりじりと私に詰め寄ってくる。

「いつもみたいに私の言うことを何でも聞くあんたはどこへ行った? 今日私がクビになったのに、どうして庇ってくれなかったのよ! 答えなさいよ!」

 私は口を開きかけたものの、声が喉の奥でつかえて出なかった。

 一体どうやって彼女に説明すればいいのだろう。

 あの前世の凄惨な真実など、何も経験していない彼女からすれば、後ろめたさを誤魔化すための荒唐無稽な言い訳にしか聞こえないだろう。一言半句たりとも信じてもらえるはずがない。

 私の躊躇と沈黙はヴァネッサの目に留まり、彼女の私に対する疑念を完全に確信へと変えてしまった。

「返す言葉もないってわけね」

 彼女の瞳の奥に、極度の失望と憎悪が閃く。

「クレア、あんたの底の浅さはすっかり見抜いたわ」

 私が再び口を開く間もなく、彼女は段ボール箱を抱え、怒りも露わにオフィスから出て行った。

 ヴァネッサが去ってからの半日あまり、私はこの一件でひどく落ち込んでいた。だが翌日の午後になって、なんと彼女が再びオフィスビルに姿を現したのだ。

 ちょうどダイアナが私のそばに寄ってきて、愚痴をこぼしていたところだった。

「クレア、ヴァネッサみたいな女はクビになって当然よ! いつも私事を優先させてさ、裏でコソコソ何やってるか分かったもんじゃないわ」

 ダイアナは以前からヴァネッサを目の敵にしており、彼女は絶対に誰かの愛人だ、と私にもよく吹聴していた。

 私が反論しようとした矢先、執務エリアのドアが突然押し開かれた。ヴァネッサが二人の警察官を引き連れて入ってきたのである。

 彼女は私を指差し、警察官に向かって言った。

「お巡りさん、この女です。私のティファニーのダイヤの指輪を盗んだのは。500万円の価値があるんですよ」

 ヴァネッサはまだ私を許す気がないらしく、引き出しに入れておいた高価なジュエリーを私が盗んだのだと頑なに主張した。

「お巡りさん、昨日の午前中に彼女がオフィスで荷物をまとめていた時、中にいたのは確かに私たち二人だけでした。でも、私はずっと横に立っていただけで、彼女の荷物を漁る暇なんてありませんでした」

 私がどれほど弁明しても、被害額が莫大であることを理由に、警察は私をパトカーに乗せた。その道中、私は大学の同級生であるオーウェンに電話をかけた。

 警察署に到着して供述を取られようとしたその時、タイミング良くオーウェンが駆けつけ、会社の防犯カメラの映像を提示してくれた。映像には、ヴァネッサが立ち去った直後に私も手ぶらでオフィスを出る様子がはっきりと映っていた。

 もし私が本当に指輪を盗んでいたのなら、それはまだオフィスに残されているはずだ。二人の警察官がビルへと引き返し捜索を行ったが、結局その消えた指輪が見つかることはなかった。

 警察官が戻ってくると、オーウェンが口を開いた。

「お巡りさん、一個人の一方的な証言だけで事件を断定するわけにはいかないでしょう。もし彼女の狂言だとしたらどうするつもりですか」

 プレッシャーを感じた警察官は矛先を変え、これほど高価なものをなぜ鍵もかかっていない引き出しに入れていたのかとヴァネッサに尋ねた。彼女は、昨日買ったばかりだからだと答えた。

「裏付けを取るのは簡単です」

 オーウェンは冷ややかに言い放った。

「彼女のクレジットカードの明細を調べるか、直接その店舗に連絡して昨日の購入履歴を確認すれば済むことですからね」

「クレアさん、我々の方で事実関係を確認しますので、ここにサインしていただければもう帰っていただいて結構ですよ」

 警察官の私に対する態度は、随分と軟化していた。

「お巡りさん、ヴァネッサさんはクレアさんの名誉を著しく毀損しました。クレアさんには、調査結果を真っ先に知る権利があるはずです」

 オーウェンが釘を刺す。

 警察官はそれ以上引き留めることなく、店舗に連絡してヴァネッサの購入履歴を照合しに向かった。私とオーウェンは警察署のロビーに腰を下ろした。

 一方のヴァネッサは、取調室に残るよう命じられていた。

 警察の仕事は早く、照合を終えて出てくると、わざわざ私たちにその結果を知らせてくれた。調べによると、その店舗にはヴァネッサが件の指輪を購入したという記録など、一切存在していなかったのである。

 警察はこれから彼女に対する本格的な取り調べを行うという。どうやらあの盗難騒ぎは、私を陥れるための単なる口実に過ぎなかったようだ。

 これ以上待っていても無意味なので、私とオーウェンは警察署を後にした。私は今後のこととして、あの指輪が一体どこから出てきたのか、オーウェンに探ってもらうつもりだった。

 翌朝早く、私はオーウェンからの電話で目を覚ました。

「クレア! あの指輪は本物だったよ!」

 オーウェンの口調にはどこ興奮した響きがあった。

「警察にいる友人が別のルートから探りを入れてくれたんだ。ただ、彼女自身が買ったものじゃない」

「もしかして、記念日に彼氏が買ってあげたとか」

「彼氏だって?」オーウェンが付け加える。「ヴァネッサはとっくに結婚してるんだぞ。知らなかったのか?」

 おかしい。ヴァネッサが付き合ってきた彼氏は、私も含めてオフィス全員知っているはずだ。彼女は一体いつの間に結婚したというのだろう?

 私を罠に嵌めようと画策したヴァネッサだったが、まさか逆にこんな大きな秘密を私に暴かれることになろうとは、夢にも思わなかったに違いない。

 その日の深夜、夫のジュリアンが接待を終えて帰宅した。私が出迎えて彼のスーツのジャケットを脱がせようとした時、布地が私の目の前をかすめた瞬間、ふと嗅ぎ慣れた香水の匂いが漂ってきた――ル・ラボだ。

 私の手は一瞬ピタリと止まったが、それでも無理やり冷静さを保とうと努めた。大勢の人が集まる社交の場なのだから、うっかり他の女の香水の匂いが移ってしまったとしても、別におかしなことではない。

 ところがベッドに入ると、あろうことかジュリアンは私のスキンシップに対して不自然なほど冷淡な態度を取り、あからさまに体を避けたのだ。

 彼が深く寝入った隙を見計らい、私はそっと起き上がってクローゼットへ戻り、彼が脱ぎ捨てたあのスーツを調べた。

 私は内ポケットの中から、ティファニーのロゴが印字されたレシートを見つけ出した。そこに記された金額はぴったり500万円で、日付は10月14日だった。

 その瞬間、あの嗅ぎ慣れたル・ラボの香水の匂いが再び脳裏に蘇った。それこそが、ヴァネッサが常に身に纏っている、彼女の代名詞とも言える香りだったからだ。

 骨の髄まで凍りつくような冷気が、足の裏から心臓に向かって一気に突き抜けていく。

 まさか、ヴァネッサの言う「彼氏」とは他の誰でもなく、私の夫だったとでもいうのだろうか?

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