第2章

夜十時、疲れきった体を引きずって、私は家のドアを開けた。

リビングの灯りはまだついており、文人がソファに座って、医学雑誌を手にしていた。

「智美、こんなに遅くまで帰ってこなかったのか?」

彼は雑誌を置き、その目には気遣いの色が浮かんでいた。

「病院で残業だったの」

私は短く答え、そのまま寝室へ向かおうとした。

「待ってくれ」

文人は立ち上がった。

「明日は週末だ。君と葵を市立植物園に連れて行きたい。新しくできた子供向けの科学館があるんだ」

私は足を止めた。

すぐに断りはしなかった。葵には確かに父親の存在が必要だったからだ。彼女はまだ小さい。大人の問題で父親の愛情が欠けるべきではない。

「わかった」

私は頷いた。

「九時に出発しましょう」

そう言って、私は足早に寝室へ戻った。

翌日の午前、葵は興奮した様子で玄関で待っていた。

「ママ、このクマちゃんも連れて行っていい?」

「もちろんいいわよ」

私は彼女の小さなリュックを整えてあげた。

文人がこちらへ歩いてきて、自然に手を差し出す。

「葵、パパが抱っこして下まで降りようか?」

葵は私の方を見て、同意を求めてから小さく頷いた。

エレベーターの中で、文人が不意に私の手を握った。振りほどきたかったが、葵がいる手前、我慢するしかなかった。

彼の手のひらは温かく、ずっと昔の楽しかった日々を思い出させた。

その時だった。文人の携帯が鳴った。

「もしもし? 雪絵?」

「文人さん、楓ちゃんが熱を出して……どうしたらいいかわからないの」

電話の向こうから泣き声が聞こえてきた。

文人の手から力が抜ける。彼の眉間に深い皺が刻まれた。

「何度あるんだ?」

「39度2分。ずっと泣いてて、パパに会いたいって……」

私はエレベーターの階数表示を見つめながら、心が沈んでいくのを感じた。

「すぐ行く」

文人は電話を切り、私の方を向いた。

「智美、車で二人を送らせる。こっちが片付いたら、すぐ追いかけるから」

葵が不思議そうに小さな顔を上げた。

「パパ、一緒に行かないの?」

「パパは急用ができたんだ。すぐに来るからね」

文人はしゃがみ込み、葵の髪を優しく撫でた。

私は静かに言った。

「行ってあげて。あの子にはあなたが必要よ」

植物園で、葵は他のお父さんと一緒にゲームで遊ぶ子供たちを見て、目に一瞬寂しさを浮かべた。

「ママ、パパはいつ来るの?」

「大事な用事があるのよ」

私は彼女の手を握った。

「先に蝶々の展示を見に行きましょうか」

葵はすぐに色とりどりの蝶に惹きつけられ、手を叩いて言った。

「きれい!」

でも私にはわかっていた。彼女がずっと、来ると約束した人を待ち続けていることを。

夜九時、ようやく文人が帰宅した。

私がキッチンで食器を片付けていると、ドアの鍵が回る音が聞こえた。

「楓ちゃんが39度の熱で、放っておけなかったんだ。智美、怒らないでほしい。いいか?」

彼はそう説明した。

「正しいことをしたわ。人命を救うのは医者の本分よ」

私は皿を洗い続け、まるで気にも留めない様子で応じた。

文人はキッチンの入り口まで来た。

「本当に怒ってないのか?」

私は手元の作業を止め、彼の方を振り返った。

「怒って何か意味がある? 葵は一日中、あなたがいつ来るのか尋ねてたわ。私はなんて答えればよかったの? あなたは私に、なんて答えてほしかったわけ? あなたにとっては、あの子たちの方が大事なのよ、って? そんな答えを、あなたは聞きたかったの」

彼の顔色が、一瞬で蒼白になった。

まるで私の言葉に傷ついたかのようだったが、私が言ったのは事実ではないだろうか?

それから数日、雪絵からの電話が頻繁に鳴った。

楓ちゃんの風邪はぶり返し、雪絵は医療の知識もないため、文人は朝早くから夜遅くまで彼女たちの看病に追われた。

葵の幼稚園からのお知らせを整理していると、来週の親子運動会の招待状が目に入った。

「ママ、先生がね、来週の土曜日に親子イベントがあるんだって」

葵は期待に満ちた目で私を見た。

「他の子のお父さんはみんな来るんだよ。私のお父さんも来てくれるかな?」

娘の期待に満ちた眼差しを見て、私の心は揺らいだ。

その夜、私は珍しくリビングで彼の帰りを待っていた。

十時半、文人がドアを開けて入ってきて、私を見ると明らかに一瞬固まった。

「俺を待っていたのか? ここ数日、ずっと俺を避けてたじゃないか」

「来週の土曜日は幼稚園の運動会よ。葵があなたに参加してほしいって」

私は単刀直入に言った。

文人はすぐに頷いた。

「わかった。必ず参加する」

「ほんと?」

葵がいつの間にか部屋から走り出てきて、その目をキラキラさせていた。

「パパ、運動会に来てくれるの?」

「もちろん。パパは約束したら、必ず守るさ」

文人はしゃがんで彼女を抱きしめた。

娘の嬉しそうな笑顔を見ながら、私は複雑な思いで考えた。この光景は、いつまで続くのだろうか?

しかし、運動会の前夜、文人の携帯が再び鳴った。

今度は雪絵が泣きながら言った。

「文人さん、もう耐えられないの。楓ちゃんが、どうしてパパがいなくなっちゃったのって聞くの。私、なんて答えたらいいか……もう、死んじゃいたい」

文人は電話を握りしめ、明日のイベントのためにお弁当の準備をする私に視線を向けた。

彼の目には、苦痛と葛藤が満ちていた。

そして私は、ただ静かにサンドイッチを切り分ける。まるで何も聞こえなかったかのように。

だが、私たちにはわかっていた。明日の約束は、またしても破られるのだと。

実に、見慣れた筋書きだ。

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