第3章

幼稚園の運動会、当日。

リビングで、文人は携帯を握りしめ、その顔色は刻一刻と重くなっていく。

「わかった。泣かないでくれ、今すぐそっちに向かうから」

通話を終えると、リビングは死んだような静寂に包まれた。

私はお弁当の箱詰めを続け、まるで何も聞こえなかったかのように、その手つきは平然としていた。

「智美……」

文人の声には、明らかな葛藤が滲んでいた。

「ん?」

私は顔も上げず、葵が手ずから描いたラベルを弁当箱に貼る作業に集中する。

「雪絵が……自殺するって。楓ちゃんがずっと泣いてて、放っておけないんだ」

私の手が一瞬止まり、それからまた弁当の包装を再開した。

「行ってあげなさい。人命救助が最優先でしょ」

「運動会には、できるだけ早く戻るようにする。葵と約束したんだ」

文人は急き立てられるような口調で言い、立ち上がった。

私はようやく顔を上げて彼を見た。唇の端に、とうに諦めきった笑みが浮かぶ。

「無理しないで。あの子たちの方が、何よりも大事なんでしょ?」

「智美、わかってくれ。俺には本当に、選択肢がないんだ……」

「わかってるわ」

私は彼の言葉を静かに遮った。

「五年前と同じ。あなたは一度だって、私たちを選んだことなんてなかった」

文人はリビングの中央に立ち尽くし、私を見つめていたが、やがて車のキーを掴むと、ドアから飛び出していった。

ドアが閉まった瞬間、私の手が微かに震えた。

弁当箱の中の苺大福が、私の指で少し形を崩してしまっていた。

午前九時、陽光が降り注ぐ幼稚園のグラウンド。

色とりどりの風船が舞い、スピーカーからは軽快な童謡が流れている。ジャージ姿の子供たちが、興奮した様子でグラウンドを駆け回っていた。

「ママ、パパはいつ来るの?」

葵は私の手を引きながら、しきりに幼稚園の門の方を見つめている。

「少し遅れるかもしれないわ」

私はしゃがみ込んで彼女のジャージを整えた。

「先に受付を済ませましょうか?」

「うん!」

葵は頷いたが、その視線はなおも入口の方へと彷徨っていた。

最初の種目は、父娘リレーだった。

他の子たちは皆、わくわくしながら父親の手を引いてレースの準備をしているのに、葵だけがスタートラインに立ち、何度も何度も振り返っていた。

「あの子のお父さん、どうして来てないのかしら?」

隣の保護者が小声で噂している。

「お医者さんだって聞いたわよ。お仕事でもあるんじゃない?」

「あらまあ、こんな大事な日に来ないなんて、ねえ……」

その言葉が聞こえたのか、葵の小さな顔がみるみるうちに真っ赤になった。

「先生、ママと一緒に出てもいいですか?」

彼女は小さな声で尋ねた。

「もちろんいいわよ。葵ちゃんは偉いわね」

レースが始まり、私は葵の小さな手を引いてゴールを目指して走った。

彼女は一生懸命走っていて、興奮で小さな顔を紅潮させていたが、何かを必死に堪えているのが私には見て取れた。

「ママ、私たち二位だったね!」

「葵はすごいわ」

私は彼女を抱き上げたが、心の中では何かに強く打ち付けられたような衝撃が走っていた。

昼休み、携帯を見ると文人からメッセージが届いていた。

『まだ病院だ。雪絵の容態が安定しなくて、行けるのは午後になるかもしれない』

私は『来なくていい』とだけ返信した。

午後の親子ゲームの時間、葵は自分から私の手を握ってきた。

「ママ、一緒に遊ぼう?」

「もちろんよ」

「ママ、パパはすごく大事な患者さんを助けてるの?」

私は一瞬、虚を突かれた。

「どうしてそう思うの?」

「だって、お医者さんは人を助けるんでしょ。ママと一緒」

葵は真剣な顔で言った。

「パパに来てほしかったけど、でも、人を助ける方がもっと大事だもんね?」

娘の健気な姿に、私の目頭は一瞬で熱くなった。

五歳の子供が、大人の世界のどうしようもなさを理解しなければならないなんて、こんなことが公平だと言えるのだろうか?

運動会が終わり、私は葵の手を引いて幼稚園の門へ向かった。

「ママ、すっごく楽しかった。今日、ママと一緒に競争できて、本当に嬉しかった」

私の沈黙に気づいたのだろうか、葵は逆に、そんな幼い温かい言葉で私を慰めてくれた。

「葵はママがだーいすき! ママ以外、葵は誰も好きじゃないんだから!」

悪戯っぽくそう言って人を笑わせようとする姿に、私もつられて笑みがこぼれた。そうだ、私だって、葵に完璧な愛をあげられる。

その時、背後から慌ただしい足音が聞こえた。

「葵! 智美!」

振り返ると、汗だくの文人が走ってくるところだった。

葵は無意識に駆け寄ろうとしたが、ぴたりと足を止め、最後は私の手をぎゅっと握って黙り込んでしまった。

「ごめん、遅くなった……」

文人は息を切らし、その瞳は罪悪感に満ちていた。

葵は彼を見上げて言った。

「大丈夫です、おじさん」

「おじさん」という呼び名を聞いて、文人の顔色が瞬く間に蒼白になった。

「葵、パパが悪かった。でも、そんな風に呼ばないでくれないか? パパ、悲しくなっちゃうよ」

葵はこくりと頷いた。

「おじさん、悲しまなくていいよ。大丈夫だから」

そう言うと、彼女は再び私の手を握った。

「ママ、おうちに帰ろ」

私たちが並んで駐車場へ向かうと、背後から文人の打ち砕かれたような声が聞こえた。

「智美、話を……」

私は振り返らず、ただ平然と言った。

「話すことなんて何もないわ。これがずっと、あなたの選択だったじゃない」

車を発進させると、バックミラーに、幼稚園の門の前にぽつんと佇む文人の姿が映った。夕日が彼の影をとても、とても長く伸ばしていた。

そして葵は、後部座席ですでに静かな寝息を立てていた。その小さな手には、今日勝ち取った二位の賞状が固く握りしめられていた。

夜、私は葵のベッドの傍らに座り、彼女の寝顔を見つめていた。

深く眠ってはいるが、その眉間には僅かにしわが寄っている。まるで、何か苦痛を必死に堪えているかのようだ。

私は彼女の髪を優しく撫でながら、心の中で静かに呟いた。

『ごめんね、葵。ママのせいで、あなたが背負うべきじゃないものを背負わせてしまった』

携帯の画面が光り、文人からのメッセージが表示された。

『智美、俺が悪かった。もう一度、チャンスをくれないか?』

私はそれに一瞥をくれると、携帯の電源を落とした。

何かは、一度逃してしまえば二度と戻ってこない。

今日の葵の笑顔のように。あの「おじさん」という一言のように。

五歳の子供が、もうこの世界と距離を置くことを学び、期待しないことを覚えてしまった。

そしてその全ては、私たち大人が引き起こしたことだ。

ベッドサイドのランプを消すと、部屋は闇に沈んだ。

明日、東京のあの私立病院への転属願を出しに行こう。

私と葵のために、新しい道を選ぶ時が来たのだ。

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