第4章
病院の駐車場の街灯が、気だるげなオレンジ色の光を投げかけている。麻衣は私の車の傍に寄りかかり、まだ火のついていない煙草を指に挟んでいた。
「いつ離婚を決めたの?」
彼女は、何の枕詞もなくそう切り出した。
私は足を止め、手の中の鍵が微かに震える。
「五年前よ」
「五年前?」
麻衣は呆然とした。
「じゃあ、どうして……」
「あの頃、文人が失踪したの。それで離婚の話は強制的に中断させられた」
私はまるで日常の些細な出来事を語るかのように、淡々と告げる。
「山間部で電波が悪くて、連絡が取れなかった。弁護士には、彼が戻ってくるのを待つしかないって言われたわ」
麻衣は煙草に火をつけ、深く吸い込んだ。
「じゃあこの五年、離婚するために彼が帰ってくるのをずっと待ってたってわけ?」
「彼が帰ってきたら、この法的手続きを処理するためよ」
私は彼女の言葉を訂正する。
「この前、彼が雪絵の手を引いているのを見た時、確信したことがあるの」
「何を?」
「彼に対して、もう嫌悪感しか残ってないってこと」
遠くに見える病院のビルの、点滅する救急外来の赤いランプを見つめながら私は言った。
「生理的な嫌悪感。腐った組織を見るような、そんな感じ」
あの時の礼儀正しい言葉なんて、吐き気を抑え込んだ上での挨拶に過ぎなかった。
私は彼が嫌いだ。
そして、彼を憎んでいる。
麻衣は黙って煙草を半分ほど吸い終えた。
「弁護士、紹介しようか?」
「明日、自分で行くわ」
家に帰り着いたのは九時だった。リビングでは文人がソファに座り、葵の画集を手にしていた。
私が帰宅した物音に気づき、葵が寝室から飛び出してくる。そして文人の姿を見ると、彼女もまた彼を無視することを選んだ。
文人は画集を置き、身を屈めた。
「葵、パパだよ。パパのこと、怒らないでくれるかな」
葵は真剣な眼差しで彼を見つめ、言った。
「おじさんは、楓ちゃんのパパであって、私のパパじゃありません」
「どうしてそんなことを言うんだ?」
文人の声は少し震えていた。
「だって、楓ちゃんは毎日パパと一緒にいるけど、私は一度もおじさんと一緒にいたことがないから」
葵の声は、澄んでいて、それでいて揺るぎなかった。
「ママが言ってた。血の繋がりイコール家族の繋がりじゃないって。一緒にいて、お世話をしてあげて、初めて気持ちが生まれるんだって」
私は玄関に立ち尽くしていた。
この子はいつ、そんな考えを持つようになったんだろう?
文人は蒼白な顔で私の方を向いた。
「君が教えたのか?」
「いいえ、あの子が自分で気づいたのよ」
私は上着を脱ぐ。
「あなたが影響を与えた結果じゃないの?」
報復めいた快感とは別に、私は葵のことが一層不憫に思えた。
この子は本来、とても幸せな家庭を持つはずだったのだ。ママだけでなく、彼女を愛してくれるパパがいる、そんな家庭を。
心の底から彼女を好きでいてくれて、彼女を可愛がってくれるパパが。
翌朝、目を覚ますと家の中はがらんとしていた。
ローテーブルの上に一枚のメモが置かれている。
「今日は雄介の命日だ。雪絵と楓ちゃんを連れて、雄介の墓参りに行ってくる。夜には戻る」
キッチンへ行くと、カレンダーの今日の日付が赤い丸で囲まれているのが見えた——中村雄介命日。
この日付を、彼は私たちの結婚記念日よりもはっきりと覚えていた。
翌日の午後、ICUの回診を終えたばかりの私を、雪絵の両親が待ち構えていた。
「智美先生、どうか私たちを助けていただけませんか」
雪絵の母親は目を泣き腫らしている。
「雪絵は本当に文人先生がいないとダメなんです。彼がいないと生きていけないと……」
雪絵の父親が言葉を引き継いだ。
「先生が良い方だということは存じております。どうか、文人を雪絵に譲っていただけないでしょうか? あの子はもう一人夫を亡くしているのです。これ以上、二つ目の拠り所を失うわけには……」
私は歩みを止め、振り返ってこの六十代の老夫婦を見つめた。
消毒液の鼻を突く匂いが廊下に立ち込め、ICUのモニター機器が規則正しい電子音を刻んでいる。
「譲ってさしあげる?」
私はその言葉を繰り返し、唇の端に冷笑を浮かべた。
「お二人は何か勘違いをなさっていませんか?」
「このようなお願いが大変無礼であることは承知しております。ですが……どうか私たちのこともお察しください。雪絵は、本当に自殺してしまうかもしれません」
私は彼らの言葉を遮り、声を一段と高くした。
「なんですって? あなた方の娘さんのほうが可哀想だから、私が身を引いて差し上げるべきだと?」
通り過ぎる看護師や医師たちがこちらに視線を向けるが、私は全く意に介さなかった。
「智美先生、どうかお気を確かに……」
雪絵の母親が私を掴もうとする。
「私が気を確かに?」
私は一歩下がり、その眼差しはメスのように鋭くなった。
「あなた方の娘さんは私の夫を無料の心理カウンセラー兼家政夫扱いしておいて、今度は私に自ら身を引けと? ふざけないでください」
雪絵の父親は顔を真っ赤にさせた。
「どうしてそんな言い方ができるんだ? 雪絵は……」
「あの子がどうかしましたか? 自分の人生を不幸だとお思いで?」
私は冷ややかに笑って二人を見据えた。
「それなら、あなた方の娘さんにはその心の病とやらを抱えたまま、文人と一緒に中村雄介のところへでも行ってもらったらどうです? 生きている人間を巻き込まないでいただきたいわ」
その言葉を言い放つと、廊下は水を打ったように静まり返った。
雪絵の両親は血の気を失った顔をしており、私は振り返りもせずにナースステーションへと向かった。
麻衣が早足で追ってくる。
「智美、あなたさっきのは……」
「何か間違ったこと言ったかしら?」
私は足を止め、手の中のカルテを整える。
「医学的に言えば、依存性パーソナリティ障害は専門的な治療が必要なの。代わりの男を見つければ解決するような問題じゃない」
「でも、あの言い方は……」
「棘がありすぎる?」
私は手元のカルテを整理する。
「麻衣、私は医者よ、聖母じゃない。死にゆく人を救い、傷ついた人を助けるのは私の職業倫理だけど、他人の結婚や人生まで救済する義務はないわ」
ナースステーションの他の同僚たちにも私たちの会話は聞こえていた。ひそひそと囁き合う者もいれば、首を振ってため息をつく者もいる。
今日から、病院で私に関する噂が流れるだろうことはわかっていた。
だが、もうどうでもよかった。
夜、家に帰ると、葵が食卓で宿題をしていた。
葵は鉛筆を置き、真剣な顔で私を見つめた。
「ママ、私たち、いつお引越しするの?」
私ははっとした。
「どうして引越したいの?」
「だっておじさんがいると、ママが悲しい顔するから」
葵は五歳なりの論理で分析する。
「あのおじさんは私たちの家族じゃないんだから、私たちの家に住むべきじゃないよ」
娘の澄んだ瞳を見つめ、私は屈み込んで彼女を抱きしめた。
「葵は賢いわね。もうすぐ、新しいおうちができるから」
「ほんと?」
「ほんとよ。ママ、もう準備を始めてるから」
夜中の十二時、文人が疲れきった体を引きずって帰ってきた。
私はリビングのソファに座り、手には二つの書類を持っていた——異動願と、離婚届。
「雪絵さんはどう?」
と私は尋ねた。
「退院した。ご両親が面倒を見てくれるそうだ」
文人はローテーブルの上の書類に気づき、その顔から一瞬で血の気が引いた。
「智美、これは……」
「離婚届よ」
私は静かに言う。
「葵の親権は私が持つ。家は売って折半。異論はないわよね?」
文人は震える手で書類を手に取った。
「どうしてこんな……? 俺は変われる。雪絵の問題だってちゃんと解決するから……」
「もう必要ないわ」
私は立ち上がった。
「文人、あなたは結婚に向いてない。父親になるのにも向いてない」
「智美!」
「あなたは医者として、善人として、誰かの救世主として生きるのがお似合いよ」
私は温度のない瞳で彼を見つめる。
「でも、誰か一人を愛する方法は、永遠に学べない」
そう言い残して、私は寝室に戻った。リビングに文人を一人残して。
ドア越しに、彼の胸が張り裂けるような泣き声が聞こえた。
だが、私の心は、もう完全に冷え切っていた。
