第4章
早希の視点
欠損した足の指を凝視する克人の呼吸が、次第に荒くなっていく。
やがて、彼は弾かれたように手を離し、後ずさりした。
「違う、そんなはずはない」
自分に言い聞かせるような、低く掠れた声。
「N市には八百万人以上いるんだ。足の指を失った女性が彼女だけなわけがない」
——そうよ、克人。そうやって自分を騙し続ければいい。
私は彼の背後に浮かびながら、彼が理性を総動員して防壁を築き上げていく様を見つめていた。
「それに……」
声がどんどん小さくなっていく。
「遺体は妊娠していた。早希からは何も聞いていない……俺に隠しているはずがないじゃないか」
——あなたが、私に話す隙すら与えてくれなかったからでしょ。
ダイニングテーブルの下に忍ばせていたサプライズ、エコー写真、そして彼が背を向けて立ち去り、二度と届くことのなかったあの言葉——
——克人、私、妊娠したの。
しかし今の私には何もできない。ただここを漂いながら、彼が次から次へと口実を並べ立て、最も恐ろしい真実を遠ざけようとするのを見ていることしか。
克人はふいにスマートフォンを鷲掴みにした。
アドレス帳のお気に入り、その一番上に登録された私の名前。横には赤いハートのアイコンが添えられている。彼が二年前に自ら設定したものだ。私の名前を見るたびに、愛しい人だと思い出せるようにと。
『プルルルル——プルルルル——』
無機質な機械音が響き渡る。
『おかけになった電話は、現在出ることができません。のちほどおかけ直しください……』
彼はもう一度発信した。さらに一度。そして、また一度。
十数回かけても、返ってくるのは同じアナウンスばかりだった。
「俺の電話に出たくないだけだ……」
その声はすでに震えを帯びていた。
「すねてるんだ……あいつはいつもそうだ……」
——克人。
私は彼の正面へと回り込み、その青ざめた顔を覗き込んだ。
——今になってやっと連絡する気になったの? この数日間、一度でも私に電話してくれた? 私が本当に何かに巻き込まれたかもしれないって、少しでも考えた?
——考えなかったよね。あなたはただ、私が頭を下げて謝るのを待っていただけ。
そこへ、佐々木が息を切らして駆け戻ってきた。
「星村先生、科捜研から連絡が。顔面の復顔には少なくともあと一時間はかかると——」
「一時間だと?!」
克人は勢いよく振り返り、怒声を張り上げた。
「今すぐ行って、あいつらの傍に張り付いて急がせろ! 今すぐだ!」
怒鳴りつけられた佐々木はビクッと肩を震わせ、弾かれたように駆け出していった。
解剖室が再び死のような静寂に包まれた。
克人はうつむいたままスマートフォンの画面を見つめ、アドレス帳の上で指を強張らせながら、私の親友である七海の名前を見つけ出した。
「七海、早希はそっちにいるか?」
「克人さん?」
電話の向こうから戸惑い、そしてすぐさま焦燥に駆られた声が返ってくる。
「私も早希を探してるの! 先週の木曜、あなたに会いに行くって言ったきり、連絡が取れなくて……十回以上電話したのに全部出ないのよ。そっちにも何も連絡ない?」
克人の手からスマートフォンが滑り落ちそうになる。
「先週の木曜の何時だ?」
「夜の七時頃よ」
七海の声がさらに切羽詰まったものになる。
「彼女……あなたにすごく重要なことを伝えるって……連絡が途絶えるなんておかしいわ。克人さん、早希、何か事件に巻き込まれたんじゃない?」
先週の木曜日、夜の七時。
それはまさに、あの雨の夜——
『克人! 助けて! 殺される——』
『いい加減にしろ早希、芝居はもうやめろ』
『ツーツーツー』
スマートフォンが彼の手のひらから零れ落ち、床に激突して画面が蜘蛛の巣状にひび割れた。
克人は壁にもたれかかり、膝から力が抜け、ずるずるとへたり込んだ。
「違う……早希じゃない……」
絶望に染まった声が、弱々しく響く。
「頼む……あいつじゃないと言ってくれ……」
——でも、私なのよ、克人。
私は彼の目の前まで漂っていき、そのひどく青ざめた顔を見下ろして、小さくため息をついた。
——あなたが一方的に切ったあの電話が、私の最後のSOSだったの。
その時、解剖室の扉がそっと押し開かれた。
「克人さん……」
紙袋を提げた卯月が入ってきて、解剖台の上の遺体を目にするなり短い悲鳴を上げ、両手で目を覆って半歩後ずさりした。
「いやだ……」
彼女は小さく息を呑み、おずおずと顔を上げる。
「コーヒー、買ってきたの……外で飲みましょうよ……」
克人は最後の藁にすがるように猛然と駆け寄り、卯月の両肩をきつく掴んだ。
「卯月!」
血走った目で、枯れた痛切な声を絞り出す。
「早希はどこだ? あいつがどこにいるか知ってるか?!」
あまりの剣幕に卯月は涙目を浮かべ、痛みに顔を歪めた。
「克人さん、痛い……」
「早希に会ったか?!」
ほとんど怒鳴り声だった。
「あいつから連絡はなかったか?!」
「ないわ……」
卯月は唇を噛み締めた。
「彼女、ずっと私のこと嫌ってたし、私なんかに連絡してくるわけ……」
そこで言葉を切り、彼女の瞳の奥にほんの一瞬、得体の知れない光がよぎった。やがてポケットからスマートフォンを取り出し、ためらいがちに口を開く。
「でも……さっき、彼女がインスタを更新したのを見た気がする……」
克人はひったくるようにスマートフォンを奪い取った。
画面に映し出されていたのは、間違いなく私のアカウント。ハワイのビーチの風景写真だ。青い海と空、風に揺れるヤシの木、そして眩しい太陽の光。
投稿時間——三十分前。
添えられた短いテキストは、たった一行。
『N市の喧騒を離れ、ゼロからやり直す』
