第二章
綾瀬茉莉は反射的に顔を上げ、霧生澪の漆黒の瞳と視線を合わせた。
頭上の煌びやかなシャンデリアが彼の瞳に映り込み、まるで幻境によって精緻に描かれた深淵のように、思わず踏み込みたくなるような魔力を秘めていた。
綾瀬茉莉はハッと我に返り、下腹部を押さえていた手を離した。
「お酒を飲みすぎて、少し胃が痛むだけです」
霧生澪はソファに寄りかかり、切れ長の目をわずかに細めて綾瀬茉莉を観察した。
彼女の顔立ちは格別に美しかった。典型的な小顔に、潤んだ杏のような瞳。先ほど無理やり酒を飲まされたせいで、目尻には薄らと紅が差している。
見ているだけで庇護欲をそそられる姿だ。
綾瀬茉莉の雰囲気は清純そのもので、これほど騒々しい店内に立っていると、強烈な違和感があった。
彼女はここに属していない。
まるで泥沼の中に咲く一輪の蓮の花のようだ。
霧生澪は観察する視線を外し、携帯電話を取り出してキーボードを叩き、外部へメッセージを送信した。
「具合が悪いなら、あそこで休んでいろ」
綾瀬茉莉は驚いて霧生澪を見た。
「まだ私の退勤時間ではありません」
「俺がいるのに、誰が文句を言う?」
霧生澪の眼差しは冷たく、その簡潔な言葉には、山をも覆すような圧倒的な威圧感が込められていた。
綾瀬茉莉はそっと拳を握りしめた。
霧生澪の言葉は真実だ。
霧生グループの独裁者として、彼はこの商業帝国を絶対的に掌握している。
彼女が働くこの店の毎晩の売上は八桁に上るが、霧生澪の一言があれば、マネージャーは即座に彼のために店を空けるだろう。この「生ける神」を怒らせることを何より恐れているからだ。
綾瀬茉莉は唇を噛んだ。
「……分かりました」
休憩していても給料がもらえるなら、こんなにいい話はない。
彼女は素直に傍らの椅子に腰を下ろした。
その時、霧生澪が突然立ち上がって部屋を出て行き、戻ってきた時には数箱の胃薬が綾瀬茉莉の目の前に置かれた。
綾瀬茉莉は信じられないという目でそれを見つめ、思考が停止したようだった。
霧生澪が、彼女のために胃薬を買わせたのだ。
家が没落して以来、こんな温かさに触れたのがいつぶりか思い出せない。
彼らは友人ですらない。家が破産する前に、宴会で一度顔を合わせた程度の関係だ。
「持っておけ」
霧生澪は綾瀬茉莉が信じられないといった様子なのを見て、薬を直接彼女の懐に押し付けた。
彼のポケットの携帯電話が突然鳴り出した。彼は着信表示を一瞥すると、電話に出ながら外へと歩き出した。
綾瀬茉莉はしばらく呆然としていたが、ようやく我に返り、薬を握りしめて感謝を伝えようと後を追った。
しかし通りに出ると、そこには一台の高価なロールスロイスが停まっていた。
白いドレスを着た女性が彼女に背を向けて立ち、霧生澪と何かを話している。
二人の会話はあまり穏やかではないようだった。
距離が遠く、綾瀬茉莉には二人が何を話しているのか聞こえなかったが、街灯の下に立つ霧生澪の指先で、タバコの火が赤く燃えているのが見えた。
霧生澪は背を向け、自分の車に乗り込んだ。
女性は苛立たしげに足を踏み鳴らし、やがて彼女も車に乗って去っていった。
綾瀬茉莉は懐の胃薬を抱きしめた。
彼女はあの女性が誰か知っている。
東雲芽依。
霧生澪の婚約者だ。
政略結婚だと聞いている。先日、婚約式が行われたばかりだ。
綾瀬茉莉は視線を落とし、長く濃い睫毛で瞳の中の感情を隠した。
疲れた体を引きずって仮住まいの安アパートに戻り、冷たい水をコップ一杯汲んで薬を飲み下したところで、携帯電話が鳴った。
叔母からの電話だった。
「綾瀬茉莉、もう仕事は終わったの? 話があるのよ」
綾瀬茉莉は淡々と答えた。
「何ですか?」
「店の仕事は辞めなさい。あんたにぴったりの縁談を見つけてきたわ。相手からの結納金はもう受け取ったから」
叔母の口調は命令そのものだった。
「明日、二人で会いなさい。そのまま相手の家に引っ越して、さっさと入籍するのよ。歳は少し離れてるけど、あんたの面倒をよく見てくれるはずだわ。あの人に任せれば私も安心よ」
綾瀬茉莉の目つきが一瞬で冷え切った。
「私を老いぼれに売って金に換えるつもり?」
「人聞きの悪いこと言わないでちょうだい! すべてあんたのためを思って言ってるのよ! 家は破産して、父親は飛び降りて、母親はまだ入院中。その医療費を、あんた一人の酒売りだけで稼ぐつもり?」
叔母は冷笑した。
「私が一番いい道を用意してあげたのよ! 私たちは親戚なんだから、あんたを陥れるようなことはしないわ」
「……お金は返して。私は絶対に同意しない。仕事で疲れてるから、切るわ」
綾瀬茉莉は叔母が何か言い返すのを待たずに電話を切った。
彼女はまだ痛みの残る胃をさすりながら、目の前の荒れ果てた部屋を見渡した。
家が没落して以来、彼女の生活は天国から地獄へと突き落とされた。
会社は差し押さえられ、残った資産はすべて親戚たちに分け取られた。
叔父に引き取られたとはいえ、叔父は気弱で、叔母はずっと彼女を虐げてきた。
夏場には腐りかけた残飯を食べさせられ、リビングの床で寝起きさせられることもあった。
金を稼げるようになって真っ先にしたことは、あの家を出ることだった。残りの給料はすべて病院の口座に充てている。
彼女は床に座り込んで壁にもたれかかった。瞳には疲労が滲み、目の前の生活は暗闇に包まれている。見えない無数の手が彼女を一斉に引っ張り、深淵へと引きずり込もうとしているようだ。これからの人生がどうなっていくのか、想像するだけで恐ろしかった。
綾瀬茉莉は視線を巡らせ、テーブルの上の胃薬を再び見た。
彼女はゆっくりと目を閉じた。
翌日、綾瀬茉莉はいつも通り出勤したが、車を降りた途端、突然現れた脂ぎった太った男に行く手を阻まれた。
男はもう五十歳近そうで、頭頂部は大きく禿げ上がり、話すたびに黄色い歯が見えた。
「まさかあんたが綾瀬茉莉だとはな。叔母さんの言った通りだ、本当にこんな美人だとは」
綾瀬茉莉は一歩後退し、冷ややかな目で彼を睨んだ。
「誰ですか?」
男は厚かましく言った。
「俺はあんたの旦那だよ。叔母さんから聞いてるだろ、あんたはもう俺の女房だ。あとは婚姻届一枚出すだけだ、今すぐ手続きに行くぞ」
男はそう言いながら、綾瀬茉莉を引っ張ろうと近づいてきた。
綾瀬茉莉は力一杯抵抗し、相手の手を振り払おうとした。
「離して! これは誘拐よ、犯罪だわ!」
老いた男は軽蔑したように言った。
「結納金は払ったんだ、お前は俺のもんだ!」
綾瀬茉莉の目に非情な光が宿った。彼女は男の股間を蹴り上げ、さらに相手の手首に強く噛み付いた。
「ぐあっ!」
男の口から悲鳴が上がる。綾瀬茉莉はその隙に逃げようとしたが、男に髪を鷲掴みにされた。
「このアマ、調子に乗るんじゃねぇぞ!」
