第1章 もう愛してない、別れよう
友人たちはみんな知っている。桜井雨音が神崎康臣を、狂おしいほどに愛していることを。
自分の生活も、自分だけの空間もない。ただ一日二十四時間、彼の周りを回っていたがるくらいに。
別れるたび、三日と経たないうちに、必ず素直に戻ってきて「やり直したい」と頭を下げる。
この世の誰もが「別れよう」の二文字を口にできるだろう。けれど、彼女――桜井雨音だけは、決して言えない。
その日は、桜井雨音の親友・高橋周平の誕生日パーティーだった。
誰も予想していなかった。神崎康臣が「新しい彼女」を連れて現れるなんて。
神崎康臣が新しい女を腕に抱いて姿を見せた瞬間、賑やかだったパーティーが一気に静まり返る。視線が一斉に、ソファに座っている桜井雨音へと集まった。
何しろ、神崎康臣の「本命彼女」は、桜井雨音のはずだったからだ。
みかんの皮をむいていた雨音の手が、ぴたりと止まる。顔に無理やり笑みを張りつけて、ぽつりとつぶやいた。
「どうしたの? なんでみんな黙ってるの? 私の顔、そんなに珍しい?」
「雨音……」
友人たちは、痛ましげな視線を彼女に向ける。
彼らはみんな知っているのだ。雨音がどれだけ康臣を愛しているか。そして今、彼が別の女を連れてきたとなれば、彼女の胸がどれほどきしんでいるかを。
当の康臣は、そんな彼女の気持ちなど、これっぽっちも意に介していない様子だった。新しい女の華奢な腰を親しげに抱いたまま、当然のようにソファに腰を下ろし、雨音を視界から外したまま、周平に向かって言う。
「誕生日おめでと、周平」
堂々と、何事もなかったかのように。
雨音は怒鳴り散らしたりはしなかった。今日は周平の誕生日だ。場をぶち壊すような真似はしたくない。
彼女はそっと立ち上がる。
「お手洗い、行ってくるね」
まだ何歩も歩かないうちに、背後から声が聞こえてきた。
「神崎さん、雨音さん来てるって、事前にちゃんと伝えましたよね? なんで新しい彼女、連れてきたんですか」
「そうだぞ、康臣。今回ばかりはやり過ぎだ」
「別に」
康臣は、心底どうでもよさそうな顔で肩をすくめる。女の腰から手を離し、自分のためだけに煙草に火をつけた。
白い煙が立ちのぼる中、唇の端だけが楽しげに持ち上がる。
まるで、何もかも遊び半分の放蕩息子のように。
雨音は静かにトイレを済ませ、化粧直しをしながら鏡を見つめた。そこに映る自分の口元に、苦い笑みが浮かぶ。
――神崎康臣は、そもそも自分を心に置いてなどいない。自分の気持ちも、一度だって本気で考えてくれたことなんてない。
そんな相手を、この先もなお愛し続ける必要が、どこにあるのだろう。
もう、潮時だ。
深く息を吸い込み、胸の奥で静かにそう決める。
パーティー会場に戻ったとき、そこにあった光景は、さっきよりさらに彼女の胸を抉った。
康臣が、新しい女と、人前もはばからず、口づけを交わしていたのだ。
六年。自分が愛してきた男が、今、こうしている。
胸の奥がぎりぎりと軋む。滑稽だ、としか思えなかった。
「雨音、戻ってきた……」
誰かが小声でつぶやき、場の視線が一斉にそちらへ向く。
「雨音、誤解しないで。あれは遊びだよ。康臣が本気なのは、やっぱりお前で……」
苦し紛れの言い訳を遮るように、康臣が口を開いた。
「ちょうどみんな揃ってるし、ここで言っておくか」
彼はまっすぐ雨音を見つめる。
「桜井雨音。お前との生活にはもう飽きた。お前のことも、もう好きじゃない。だから――別れよう」
拳を握りしめた手の中で、爪が掌に深く食い込む。けれど、痛みは不思議と遠かった。
六年間の思いが、最終的にたった一言――「もう好きじゃない、別れよう」で終わる。
康臣は新しい女へと顔を向ける。
「美月はいい子なんだ。ちゃんとした立場を与えたい。俺は、美月と結婚する」
「……そう」
感情の抜けた声で、雨音はただ、うなずいた。
「まあ、俺たちは別れても友達だ。これからも皇都で何か困ったことがあったら、遠慮せずに頼れよ」
「いらない」
口元だけで笑みを作りながら、彼女はきっぱり首を振る。
「別れたんだから、今後は連絡しないほうがいい。あなたの新しい彼女にも、そのほうが公平でしょ?」
康臣は少し目を見開いた。
自分の知る雨音なら、ここで泣きつき、別れたくないと縋りつくはずだ。――少なくとも、これまではそうだった。
どうして、こんなにあっさりと。
「周平」
雨音は今日の主役に視線を向ける。
「お誕生日おめでとう。みんな、楽しんで。私は先に失礼するね。テーブルの上のみかん、私がむいたから、よかったら食べて。捨てたらもったいないし」
康臣は、果物が嫌いだ。みかんだけは例外として。
ただし、口うるさい男だった。一房一房、白い筋をきれいに取り除かなければ口にしない。
ここ数年、彼に毎日一個は果物を食べさせるため――そう言って雨音は、丁寧に皮をむき、白い筋を一本残らず取ってから、皿にのせて彼の前へ差し出してきたのだ。
「車を呼んでやる。運転手に送らせる」
ふと、康臣が口を挟む。
「いらない。もう呼んだから」
その冷めた表情に、周平が声をかけた。
「雨音さん、せめて入口までは俺が――」
「大丈夫」
彼女は手を振ってそれを断り、背を向けて歩き出す。
その背中がドアの向こうへ消えるまで、誰も声を挟めなかった。
そして――
「神崎さんさぁ、雨音さん、今回ばかりは本気で怒ってる気がする。今のうちに追いかけて、機嫌とったほうが――」
「そんなわけないって」
「そうそう。あいつら、今まで何回揉めた? そのたび結局、雨音さんが何事もなかったみたいに戻ってきて、次の飲み会でまた一緒に現れるじゃん」
「俺は五日以内に、雨音さんが康臣のとこに戻って『やり直したい』って言いにくる方に賭けるね」
からかうような空気の中、康臣は薄く笑った。自信に満ちた、勝ち誇った笑みだった。
「そんなにかからない。三時間もいらないさ。あいつは、俺がいないと一日も持たない。賭けるなら――三時間以内に、俺のところに戻ってきて、復縁を頼む方にしろ」
「それな。世界中みんな知ってるからな。桜井雨音が神崎康臣を、狂うほど愛してるって」
「羨ましいよなぁ。俺のことを、そこまで一途に愛してくれる女なんて一人もいねえし」
「お前が神崎康臣と同じくらい、顔が良くて金もあったら話は別かもな?」
「だよな。ははは……」
……
雨音が別荘に戻ったのは、日付が変わってしばらく経った頃だった。
荷物をまとめるのに、三十分とかからない。
三年間住んだ家だというのに、小さなスーツケース一つに収まってしまう。
クローゼットに並ぶ一度も袖を通していないブランド物の服。箱から出してもいない宝石やアクセサリー。そういったものには一切、手を触れなかった。
唯一、心残りがあったのは、本棚一面に並んだ専門書だけ。
だが、内容はすでに頭の中に入っている。本という「器」に、そこまで執着する必要もないのかもしれない。
ドレッサーに視線をやり、引き出しを開ける。
中には、一枚の小切手。額面、5億。
その下には一通の書類――「東郊外72番3-5区画 譲渡契約書」。
郊外とはいえ、保守的に見積もっても2億はくだらない土地だ。
どちらにも、神崎康臣の署名がある。以前、別れるだ別れないだと揉めていたときに、彼が「好きにしろ」と言って置いていったものだ。以来、一度も動かさずに、この引き出しの奥に眠っていた。
――どうせお前には受け取れないさ。受け取ったら、その瞬間に全部終わりだって、分かってるからな。
きっと彼は、そう確信していただろう。
六年が、7億。
それを思えば、むしろ「悪くない取引」と言えるのかもしれない。
女の青春の代償として、ここまで払ってもらえることが、どれほどあるだろう。
雨音は、小切手と契約書を、ためらいなく鞄に入れた。
差し出されたものは、受け取っておけばいい。人から与えられた物を、殊更に突き返す義理もない。
感情は、もうとっくに失われている。残るのは、せめて金だけ。
「もしもし、清掃会社ですか。急ぎの依頼って、受けてもらえます?」
「……大掃除です。料金は上乗せで構いません」
玄関に鍵を置いて、タクシーに乗り込む。向かう先は、親友の家だ。
道中で、清掃スタッフの女性から確認の電話がかかってくる。
『本当にこれ、全部いらないんですか?』
「はい。お任せします。処分でもリサイクルでも、好きにして構いません」
それだけ告げて、通話を切る。
康臣が家に戻ったのは、夜更けもだいぶ過ぎた時間帯だった。清掃は、とうに終わっている。
きつい香水の匂いが鼻をつき、頭痛を誘う。襟元を乱暴に引き下げ、そのままソファに倒れ込む。
座るつもりが、そのまま眠ってしまった。
翌朝――
食器のぶつかり合う、聞き慣れた音で目を覚ます。
毛布をどけて起き上がり、片手でこめかみを押さえながら、テーブルの上のコップに手を伸ばした。
空を切る。
唇の端が引きつる。毛布をかけてくれたなら、いつも通り、二日酔いの茶でも用意しておけばいいものを。
――どうせまた、中途半端に反発してるだけだろ。
何度も繰り返してきた、子どものような抵抗。まだ飽きていないのか、と内心で鼻で笑う。
立ち上がって声を張り上げた。
「おい、今日は――」
「坊っちゃま、起きてらしたんですか?」
「渡辺さん?」
「先にお顔を洗ってらっしゃい。そのあいだに朝ご飯を温めておきますね。それと、昨日ソファでお休みになっていましたけど、寒くなかったですか? 暖房をつけてはみたんですが心配で、毛布も一枚かけておきましたよ」
「……ああ」
