第2章 お金持ち
ダイニングテーブル。
神崎康臣「粥がないのか」
「……胃に優しい粥のことでしょうか」
神崎康臣「胃に優しい粥?」
「はい。桜井様がよく炊いていた――あの、小米に山薬と百合、それに大棗を入れて、とろとろになるまで煮るやつです。いやぁ、私にはとても。百合と薏仁と大棗は前の晩から水に浸けておかないといけませんし、翌朝は早起きして火にかけて……」
「それに火加減が肝心でして。桜井様みたいに付きっきりで見張る根気がないと、あの味には――それに……」
神崎康臣「牛肉の醤、取ってくれ」
「はい、坊っちゃま」
神崎康臣「……味が違うな」
瓶を一瞥し、眉を寄せる。
神崎康臣「容器も違う」
「前のはもう空です。いまあるのは、これだけで……」
神崎康臣「あとでスーパーで同じのを二つ買っておけ」
「それは……買えません」
神崎康臣「?」
渡辺さんは気まずそうに笑った。
「それ、桜井様の手作りなんです。私には作り方が……」
ガタンッ。
「えっ、坊っちゃま? もう召し上がらないんですか?」
神崎康臣「……ああ」
渡辺さんは、階段を上がっていく背中を見送りながら首をかしげる。
いったい何が、そんなに癇に障ったのか。
……
「ほら、起きなさい!」
桜井雨音は寝返りを打ち、目も開けないまま小さく唸った。
「うるさい……もうちょっと……」
篠原美羽はすでにメイクを終え、クローゼットの前でバッグを選んでいる。
「もうすぐ八時だよ。帰らなくていいの? あんたんちの神崎康臣に朝ご飯作らなくて」
雨音が泊まるのは珍しくなかったが、どれだけ遅くても夜明け前には戻るのが常だった。胃の弱い男のために、粥を炊くために。
美羽は、心底うんざりしていた。
スマホひとつでデリバリーも頼めないの? ――結局、甘やかして育てたせいでしょ。
布団の中で心地よく沈みながら、雨音は手だけ出してひらひら振る。
「帰らない。別れたから」
「ふーん。で、今回は何日で復縁するつもり?」
「……」
「じゃ、私、会社行くね。朝ご飯はテーブルに置いとく。夜はデートだから私の分いらないし……まあ、どうせすぐ戻るんでしょ。出るときベランダの窓だけ閉めといて」
雨音が目を覚ましたのは、空腹に負けたからだった。
美羽の作ったサンドイッチを頬張りながら、窓の外の眩しい陽射しをぼんやり眺める。
――目覚ましもかけず、自然に目が覚めるまで眠ったのは、いつ以来だろう。
ブランチを食べ終え、着替えると、その足で銀行へ向かった。
まずは、5億の小切手を現金化する。金は、手元にあってこそ安心だ。
続いて、隣の銀行へ。
「プライベートバンキングの担当者をお願いします。1億、預けたいんです」
支店長が出てきて、悪くない年利を提示した。雨音はさらに2ポイント上乗せを求め、互いに納得の数字でまとまる。
同じ要領で、別の銀行にも足を運び、さらに2行にそれぞれ1億ずつ。
利率は、交渉するたびに少しずつ上がっていった。
最後の銀行を出る頃には、ブラックカードが3枚。定期預金3億に、手元の流動資金2億。
「別れって、案外悪くない」
一夜で、ある意味「成り上がり」だ。
通りがかりのヘアサロンは盛況だった。2万円のカードを作れば優先案内――そんなポスターを見て、雨音はそのまま店に入る。
鏡の中には、茶色の大きなウェーブヘアが揺れる自分。
美容師がにこやかに言った。
「お客様、髪の手入れが行き届いてますね。まるでお人形みたいで……」
――ウェーブにしたのは、神崎康臣が「長くて雰囲気のある髪」が好きだから。
ベッドで熱が上がるたび、彼は指を髪に絡めて遊んだ。
でも、綺麗な巻き髪は、その分、手間がかかる。
雨音はふっと笑って、美容師に告げた。
「ショートにしてください。ストレートで、色は黒に」
どれだけ可愛くても、お人形は玩具だ。
玩具役は、誰かに譲ればいい。もう付き合いきれない。
サロンを出ると、肩が軽くなった気がした。
ちょうど隣のユークロスがセールをしていて、白いTシャツとデニムを一着ずつ買う。その場で着替えて、店を出た。
今日のスニーカーにも、よく似合う。
歩いているうちに、いつの間にか蒼海大学の正門前まで来ていた。夕陽の中、自転車を漕いで出入りする学生たちを眺めていると、不意に足が止まる。
「星野先輩、こっち——!」
若い男子学生が、雨音の横をすり抜けて走っていく。
「なんで全員ここ集合なんですか?」
「みんなで西園寺教授のお見舞いに行こうって……」
星野誠「こんな大人数、病院に迷惑だ。バイオインフォマティクス専攻から二人、代表で俺と来い。ほかは待機」
バイオインフォマティクス。西園寺教授。
雨音の瞳が、かすかに揺れた。
思わず一歩踏み出し、声をかける。
「今、誰が病気だって言ったの?」
星野誠は、目の前の整った顔立ちの女に一瞬たじろぐ。
「さ、西園寺教授です」
「西園寺秋穂?」
「はい」
「病院は?」
「皇都です」
「ありがとう」
「え、えっと……後輩、どの学部ですか? 西園寺教授の教え子なんですか?」
その問いは、風に攫われた。
雨音は早足で、その場を離れる。
アパートに戻っても、胸のざわめきは収まらなかった。
あの、怒るとぴょんと跳ねて人の額をコツンと叩く、頑固な西園寺教授が倒れた?
どれほど重いのだろう。
連絡先を開き、「藤原青葉」と書かれた番号を見つめる。指が画面をなぞっては戻り、結局、通話ボタンを押せない。
あの頃――神崎康臣と一緒にいるために、「愛」なんてもののために。
雨音は迷いなく、硕博连读のチャンスを捨てた。卒業してから一日も働かず、男の周りを回るだけの生活を選んだ。
教授が失望したのは、当然だ。
「え、雨音? 帰ってなかったの?」
篠原美羽が靴を脱ぎながら、驚いたように声を上げる。
雨音はソファから顔を上げ、口元をひきつらせた。
「なに、追い出したいの?」
「違うって。ただ不思議でさ。今回、ずいぶん粘るじゃん。前回なんて、別れるって電話してから三十分もしないうちに、神崎康臣から一本来ただけで、すぐ帰ったじゃん?」
「鍋に粥ある。自分でよそって」
美羽は目を輝かせてキッチンに飛び込んだ。戻ってきて一口すすり、陶酔したように言う。
「はぁ……神崎康臣みたいなクズが、毎日これ飲めるとか、ほんっと——」
雨音「食べ終わったら、皿も鍋も洗って。シンクもきれいにしといて。私、先に寝る」
「ちょっと、ほんとに帰らないの?」
返事の代わりに、寝室のドアが静かに閉まった。
美羽は小さく舌打ちする。
「……今回は、ちょっとだけ出世したじゃん」
同じ夜。
リバーサイド・ヴィラ。
『神崎社長、銀行から確認が入りました。本日12時05分、桜井様ご本人が来店され、5億の小切手を換金されたとのことです……』
通話を切った神崎康臣は、ガラス越しの夜景を冷えた目で見つめた。
「桜井雨音……今度は何を仕掛けてくるつもりだ」
こんな駆け引きで引き止められると思っているなら、大きな勘違いだ。
自分が決めたことに、引き返しはない。
「周平。飲みに行くぞ」
半時間後。個室の扉を押し開けると、高橋周平が真っ先に立ち上がった。
「神崎さん、みんな揃ってる。あとはあんた待ちだったんだ。今夜は何飲む?」
神崎康臣は中へ入っていく。
だが周平はその場から動かず、彼の背後をちらりと覗いた。
「なに突っ立ってんだ」
「雨音さんは? 車、停めてるの?」
神崎康臣の顔が、すっと曇った。
