第4章 やはり、女は甘やかしてはいけない
昨夜は少し飲みすぎた。というより、後半になって高橋周平のやつが「二次会だ!」と騒ぎ出して、引きずられたせいだ。
運転手に別荘まで送られた頃には、空がうっすら白んでいた。
ベッドに倒れ込んだ瞬間、眠気がどっと押し寄せたが、それでも神崎康臣は無理やり身体を起こしてバスルームへ向かった。シャワーだけでも浴びておけば――。
これなら雨音に小言を言われずに済むだろ。
ぼんやりそんなことを考えたのも束の間、次に目を開けたときには痛みで目が覚めていた。
「っ……」
胃を押さえたまま、彼はベッドから這い出る。
「胃が痛い。雨音――」
名前が口をついたところで、ふっと止まった。
眉間に深い皺が寄る。
……やるじゃないか。前より根性がついたってことか。
いい。どこまで意地を張れるか、試してやる。
だが、その前に――薬だ。
リビングの棚という棚を引っ掻き回す。引き出しも戸棚も、開けられる場所は全部開けた。それでも、いつもの救急箱が見つからない。
苛立ちを押し込めて、渡辺さんに電話をかける。
「胃薬? 薬箱に入ってますよ」
こめかみがじくじくと脈打つ。神崎康臣は深く息を吸った。
「薬箱はどこだ」
「寝室のウォークインクローゼットの引き出しです。何箱も入れてあります。桜井様が『坊っちゃまは飲みすぎた翌朝、すぐ胃を悪くするから』って、取りやすいように寝室に置いたほうがいいって……」
「……」
『もしもし? 坊っちゃま? 聞こえてますか――あっ、切れた……』
通話を切り、クローゼットへ向かう。
引き出しを開けると、確かに救急箱があった。その下に、彼がいつも飲んでいる胃薬がきっちり五箱。
薬を飲むと、痛みはじわじわと引いていく。神経も、少しずつ緩んできた。
引き出しを戻そうとして――ふいに、手が止まる。
宝石も、ブランド物のバッグも、何ひとつ減っていない。
ただ、雨音の身分証やパスポート、学位証明書、卒業証書。大事そうにまとめて入れてあったそれらが、全部、きれいに消えていた。
隅に積んであったスーツケースに目をやる。数えるまでもない。ひとつ足りない。
瞬間、頭の奥がかっと熱くなる。
「……いい度胸だな。ほんとに……いい度胸だ」
頷きながら同じ言葉を繰り返す。
――女は甘やかすとつけ上がる。甘やかした分だけ、扱いづらくなる。
そのとき、階下でドアの開く音がした。
神崎康臣はすぐに階段を下りる。
「……なんでお前がいる」
玄関で靴を履き替えていた神崎綺羅が振り返り、少し目を丸くした。
「逆に聞くけど。他に誰がいるの?」
神崎康臣はソファに腰を落とし、気だるく言う。
「何しに来た」
「渡辺さんから聞いた。胃、やられたんでしょ? 母上様の命令で、様子見に来たの。ついでに昼ごはんもたかろうと思って」
軽口を叩きながらキッチンへ入った妹の声が、すぐに裏返る。
「ちょっと! 何これ、静かすぎない? いつもならこの時間、いい匂いでいっぱいじゃん」
ガチャガチャと戸棚を開ける音。
「雨音は? 今日いないの? そんなはずないでしょ。いつもならもう準備終わってる頃なのに」
雨音、雨音、また雨音。
神崎康臣はこめかみを押さえ、返す気にもならなかった。
しょんぼりした顔でキッチンから戻ってきた綺羅が、ふと思い出したように言う。
「そういえばさ。昨日、病院で会ったときも顔色悪かったんだよね」
「……病院で?」
神崎康臣の上体が、思わず起き上がる。
「うん。皇都総合病院。西園寺教授のお見舞いに行ったら、入院棟の入り口でばったり。あ、そうそう! 教授から直博の枠、もらえたんだ!」
「雨音が、なんで病院に」
「知らないって。兄貴が知らないなら、私が分かるわけないでしょ」
神崎康臣は黙る。
「病気じゃなくて、誰かのお見舞いかもしれないけどさ。でも雨音って、友達がどうこうって話、聞いたことないんだよね。生活圏、兄貴と兄貴だけって感じだし」
「話は終わりか」
「え……あ、うん」
「終わったなら帰れ。まだ寝起きで機嫌悪い」
神崎康臣は立ち上がる。
「は? そんな露骨に追い出す? はいはい、帰りますよ」
綺羅はムッとしながら靴を履き、言い足す。
「でも今日、来たのは用があったからだよ」
神崎康臣は聞く気もなく、階段へ向かう。
「明日の午後2時、ウエスト・コースト・レストラン。母上様公認のお見合いだから、遅刻しないでよ!」
「……話が長い」
吐き捨てて上へ行く背中に、綺羅は舌を出してから家を出た。
――恋人がいようがいまいが、母親がお見合いをねじ込むのはいつものことだ。兄もこれまで散々、顔だけ出して適当に流してきた。
妹を追い払うと、神崎康臣は書斎にこもって仕事を片づけた。
家の干渉が嫌で飛び出し、親の金も助けも一切断って起業した最初の三年は、正直しんどかった。そばにいたのは雨音ひとりだけ。
ここ二年でようやく会社が形になり、「金持ちのボンボン」「遊び人」というレッテルも、自力で剥がしてみせた。
それを見て、家の態度も変わった。かつては全力で反対していた雨音との交際すら、今では黙認だ。
仕事が終わる頃には、窓の外は暮色に沈み、街の灯りが滲みはじめていた。
腹が減った。
スマホを取り、恋人に電話をかける。
「……今、何してる」
向こうでチャイムのような音がしてから、女の子が声を潜めた。
『康臣、ごめん。今、授業中なの。終わったらすぐ会いに行くね?』
その呼び方が、妙に肌に合わない。
「……うん。頑張れ」
短く返して切り、スマホを机の上へ放り投げた。
しばらくして知らない番号から着信が入ったが、見なかったことにして仕事を続ける。
胃がぐう、と不機嫌に鳴いたところで、ようやく書斎を出た。
高橋周平たちと飯の約束を入れ、着替えて玄関へ向かう。
ドアを開けた瞬間、廊下の椅子に座っていた女の子がぱっと立ち上がり、羞恥と安堵の混じった笑顔を向けた。
「美月?」
「ごめんなさい。何度かノックしたんだけど返事がなくて……ここで待たせてもらってた」
彼の腕にかかったジャケットをちらりと見て、彼女は首を傾げる。
「出かけるの?」
神崎康臣は答えず、眉をひそめた。
「どうやってここを知った」
瀬戸美月は気まずそうに視線を泳がせる。
「友達に聞いたの……」
「高橋周平か」
「違う違う、御堂伊織」
少し間を置いて、神崎康臣はドアを開け直した。
「入れ」
美月の顔がぱっと明るくなる。小さく跳ねるような足取りで中へ入り、部屋をきょろきょろ見回しながら唇を尖らせた。
「さっき電話しても出てくれなかったし、切られたあともずっと繋がらないし……すごく不安だったんだよ」
「授業は?」
「サボった。彼氏のほうが大事だもん」
――雨音はそういうことをしない。
まだ大学1年で授業が詰まっていた頃から、彼のために欠席するなんて一度もなかった。付き合って、大4になってようやく時間ができてからだ。彼に合わせるようになったのは。
「ねえ、まだご飯食べてないでしょ? 私――」
「胃に優しい粥、作れるか」
気づけば、そんな言葉が口をついていた。
「……お粥?」
「ああ」
「作ったことない。でも、勉強すれば作れると思う」
……
美月の「泊まっていくね?」という含みを婉曲に断り、彼女が買ってきたテイクアウトを食べてから車で大学まで送った。
それから、ようやく高橋周平のところへ向かう。
赤信号で止まったとき、昼間の綺羅の言葉がふと蘇った。
――病院で、雨音に会った。
別れたとはいえ、長い時間の「情」がある。友達だとしても、体調を訊くくらいはしてもいいだろう。
そんな言い訳を胸の中で転がしながら、LINEを開く。
【具合悪いのか?】
送っても、既読はつかないままだった。
