第7章 彼は彼女がただ遊んでいるだけだと思った?
近づいてみて、神崎康臣はようやく気づいた。女の艶やかなウェーブはすっかりストレートになり、彼がいちばん好きだった色も、染め直したように澄んだ黒へ戻っている。
化粧はしていない。ヒールも履いていない。
白いTシャツ一枚。驚くほど素っ気ない。
それでも――いや、だからこそなのか。あの瞳だけが、以前よりいっそう冴えて見えた。失恋の陰りも、沈んだ気配も、どこにもない。
もし演技だというなら、認めざるを得ない。桜井雨音は、ずいぶん上手くやってのけた。
上手すぎて、彼の神経を逆撫でした。
雨音が眉を寄せる。彼女は彼を知り尽くしている。その表情は、怒りの前触れだ。
「ふん」
男は鼻で笑った。
「ただな。お前、男を見る目がなさすぎる。俺の横に何年もいたなら、少しは選べよ。手当たり次第に拾ってたら……元カレの俺の面目が立たねえだろ」
「面目?」
雨音は、思わず笑ってしまった。
その笑みには、かすかな寂寥が滲んでいた。けれど神崎康臣は、そんなことには気づかない。
いま彼の頭を埋め尽くしているのは、雨音が他の男に向けた柔らかな微笑みの映像だった。考えるほどに胸が煮え、苛立ちが膨れ上がる。
そして彼は、その感情を「雄の縄張り意識」だと片づけた。
桜井雨音という領地は、かつて自分のものだった。たとえもう要らないとしても、そこへ下等な猫や犬が来て、好き勝手に荒らすことなど許せない。
「用があるから、もう行く」
雨音はこれ以上、彼の言葉を聞きたくなかった。
「行く? どこへだ。篠原美羽の部屋か? お前の行き先なんて、それくらいしかねえだろ」
神崎康臣の声が、ねっとりと刺さる。
「でもまあ、今回は骨があるじゃねえか。小切手も身分証も、きっちり持っていった。……駆け引きがしたいってわけか?」
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
彼の性格が荒いことは、もう十分すぎるほど知っている。それでも、いざ言葉にされれば、傷つくものは傷つく。
――この人は、本気だと思っていない。全部、遊びだと決めつけている。
雨音は浅く息を吐き、感情を押し込めた。口元だけを少し引き上げる。
「まず、篠原さんとはただの友達。あなたが想像してるみたいな、下卑た関係じゃない」
「それから……私たちは別れたの。あなたがどう思うかは、あなたの勝手」
ちょうどそのとき、呼んでいたタクシーが横づけされた。
雨音は後部座席のドアを開け、腰を下ろす。
「運転手さん、お願いします」
ドアが閉まり、車が滑り出す。
神崎康臣は鼻で笑った。
――生意気になったな。
三か月前の喧嘩でも、似たような手で脅してきた。けれど今回は、男まで連れてきて目の前に突きつけた。どういうつもりだ。どこまで調子に乗る気だ。
そのとき、柔らかな手が彼の腕に絡みつく。藤原晴香が甘えるように体を寄せてきた。
「康臣、どうして急に行っちゃうの? 待っててくれてもいいのに……」
強い香水の匂いが鼻を刺し、康臣は思わず眉をひそめる。だが突き放しはしなかった。かわりに、女の細い腰をぐっと抱き寄せる。
「……一緒に来たいのか?」
――女を探すのは、彼女だけの特権じゃない。
タクシーの車内。
雨音はバックミラーに映る、寄り添う男女を見て、ふっと自嘲気味に口角を上げた。
瀬戸美月だけじゃなかった、ってことね……
六年。結局、全部、犬にでもくれてやったみたいだ。
タクシーが遠ざかるにつれ、康臣の表情が変わる。
氷みたいに冷えた目で、藤原晴香の手を乱暴に振り払った。
「ちょ、ちょっと……!」
晴香がもう一度すがりつこうとした瞬間、容赦なく突き飛ばされる。男は振り返りもせず、その場を去った。
「ちょっと! 康臣! 神崎康臣、待ちなさいよ!」
唇を噛みしめる女の怒声を背に、康臣は車へ乗り込み、エンジンをかけながら神崎綺羅に電話を入れた。
『……お兄ちゃん? お見合い中じゃないの?』
「今日、俺がウエスト・コースト・レストランにいるって、桜井雨音に漏らしたのはお前か?」
『は?』
「少しは頭使えよ。何でもかんでも外に喋ってどうする。母さんに見合い押しつけられてるなら、せめて黙ってろよ」
声が荒くなる。
「それをあいつに知らせて、わざと男連れてきて俺を苛つかせる。そんな馬鹿な真似、よくできるな」
『ちょ、ちょっと待って、私いつ――』
言い切る前に通話が切れた。
綺羅はスマホを見下ろしたまま、しばらく固まってから、呆れたように呟く。
「……え、私、何したわけ?」
怒る暇もないうちに、執事が贈答品のリストを持ってくる。
「お嬢様、こちらでよろしいでしょうか」
ざっと目を通す。どれも一級品だ。さらに細かく確認し、問題がないと分かると、綺羅は満足げに頷いた。
「全部、西園寺教授宛て。梱包も配送も絶対に間違えないで。いい?」
「かしこまりました」
……
「桜井様、ここは蒼海大学の近くでも一番条件がいい物件ですよ。日当たりもいいし環境も抜群で、待ってる人も多いんです。決めるなら今のうちです」
仲介業者の熱い説明を聞き流しながら、雨音は部屋を一通り見て回った。
広くはない。2DK。内装も十数年前のままで、古さは否めない。しかもエレベーターのない階段物件。
それでも、利点ははっきりしている。
蒼海大学まで近い。隣には図書館。交通も悪くない。なにより採光と周辺環境が、想像以上に心地いい。
――ここなら、やり直せる。
「ここにします。借ります」
雨音はその場で、1年契約の書類にサインした。
篠原美羽が帰ってくると、床に開いたままのスーツケースが転がっているのが目に入った。
「引っ越すの?」
雨音は服を畳みながら頷く。
「うん。部屋、決めてきた」
「へえ。神崎康臣が来た?」
美羽は鼻で笑う。
「いいじゃん、今回は一週間も粘った。ああいうクズは放置して正解。調子に乗らせたら付け上がるだけだし。自分が主人公だとでも思ってんのよ」
雨音の手が止まる。視線が交わった。
「美羽。今回は……本当に終わり。神崎康臣とは、ちゃんと別れた。もう戻らない」
美羽は一瞬ぽかんとしたが、雨音の目にある決意を見て、ふっと表情が変わった。
六年間。彼女は隣で見てきたのだ。雨音が少しずつ、本来の自分を押し殺していくところを。光が薄れていくところを。
結婚もしていないのに、家事を一手に引き受け、男の生活に自分を合わせて、まるで「妻」を演じさせられているような日々。
――いや。妻ならまだ名分がある。雨音は何だった?
ただ消耗させられていただけだ。
「別れて正解! あんなクズ、早く捨てるべきだったのよ。男なんていくらでもいる!」
「うん」
雨音が頷くと、美羽は咳払いして、念押しするように言った。
「……で、今回はホントに本物? 数日で『やっぱり』とか言って戻ったりしないよね?」
「……ふふ」
雨音は苦笑した。
帰り道、雨音は市場へ寄った。
古い部屋で、壁はところどころ剥げている。家具も、年季を背負った骨董品みたいだ。
まずは環境に優しい塗料を買って、部屋を塗り直そう。ついでに家具も動かして、配置も変える。
「運転手さん、ありがとうございます。ここまでで」
運転手がトランクから、大きな塗料缶をいくつも下ろしてくれる。
雨音は七階を見上げた。
――エレベーターなし。自力で上げるしかない。
玄関のドアを開け放ち、塗料缶を一つずつ運ぶ。重い。二階上がるたびに息が上がり、また二階で立ち止まる。
何往復もして、ようやく運び終えた頃には、肩が熱く、膝が笑っていた。
洗面所で顔を洗い、少し落ち着く。
ローラーと刷毛を手に取り、壁に向かって角度を確かめてから――
袖をまくり上げる。
「……やるか」
