第1章

誰ひとり知らない。

彼女が、無数の女が一夜を夢見る男と寝てしまったことを。

立花柊は、見知らぬ男の腕の中で目を覚ました。

全身、何ひとつ身に着けていない。首筋にはキスマークがまだらに残っていて、昨夜がどれほど激しかったのかをいやでも物語っていた。

息が止まる。

ぎこちなく、首だけを横へ向けた。

広い肩。細い腰。

端正な横顔は冷たく硬質で、近寄りがたい気品をまとっている。

その「一夜の相手」は、手の届くはずもない大BOSS。

ユニバ・グループに君臨する絶対的支配者――瀬戸北斗だった。

昼間は社員総会の人混みに紛れ、淡々と低い声でグループ方針を読み上げる彼を見上げていた。

それなのに夜になれば、どういう因果か、そのベッドに自分が這い上がっていたなんて。

立花柊の血の気が引いた。

瀬戸北斗に取り入ろうとした女は、ほとんどが人前から消える。

そんな噂を、彼女は知っている。

まだ若い。

男ひとりのせいで人生を潰されるなんて、まっぴらだった。

立花柊は床に散らばった服を慌ててかき集める。

振り返る勇気もない。瀬戸北斗が起きているかどうかを確かめる勇気など、なおさら。

必死に服を身に着けると、そのまま逃げるように部屋を飛び出した。

出社まではあと20分。

立花柊はただのインターンだ。たとえ直属の上司と一夜の過ちを犯したとしても、遅刻だけはできない。

彼女は火がついたように賃貸の部屋へ駆け戻り、首の赤い痕を隠すため適当にハイネックのシャツを引っかけると、そのままオフィスへ飛び込んだ。

準備を一緒にしていた同僚の女性が、申し訳なさそうに声をかけてくる。

「柊、昨日は急に外せない用事ができちゃって……接待、ひとりで任せてごめんね。でも心月に頼んで、そばにいてもらったの。二人とも……ちゃんと無事に帰れた?」

冷たい大理石の床に、立花柊のさっと青ざめた顔が映る。

唇が勝手に震えた。

足元がふらつき、倒れそうになる。

保坂心月は知っていた?

それなのに、あえてホテルにひとり置き去りにした?

その先に何が起こるか、わからないはずがないのに?

全身から熱が失せ、頭の中が真っ白になる。

周囲の音はすべて遠のき、ぼんやりとした耳鳴りに変わった。

だから気づかなかった。

保坂心月が数人の同僚を引き連れ、堂々と目の前に立ちふさがっていたことに。

まるで、見世物でも待っているみたいな顔で。

「お姉ちゃん――」

保坂心月は甘えるように立花柊の腕へ絡みつく。

けれど、死角に隠れた手には容赦がなかった。手首をぎりっと握り込み、骨が軋むほどの力を込めてくる。

「朝、社員証持ってなかったんだって? 昨日の夜、よっぽど楽しかったのかな。どっかに落としちゃった?」

あからさまな挑発。

しかもわざと、周囲に聞こえるよう声まで張る。

オフィスは、水を打ったように静まり返った。

好奇の視線。探るような視線。

そして、あからさまな侮蔑。

幾十本もの針が、いっせいに立花柊の顔へ突き刺さる。

その場に立っているだけで、肌がひりついた。

重たい前髪がすとんと落ちて、目元を隠す。

感情まで覆い隠すように。

保坂心月は、血のつながらない妹だ。

立花柊は幼いころ、この子を一生守ると誓った。

心月の両親は、自分のせいで死んだ。

その罪悪感は重い鎖となって、十数年ものあいだ彼女を縛りつけている。

どれだけ理不尽な目に遭っても、二人の命の重さには到底かなわない。

立花柊は深く息を吸い、胸の内で荒れ狂う感情を押し殺した。

「ホテルでひとりで寝ただけよ。そういう冗談、やめて。不愉快だから」

「え、ありえない」

保坂心月は周囲に向かっておどけたように目配せし、立花柊の拒絶など最初から存在しないもののように受け流す。

「お姉ちゃんって、もうそんな歳なのに恋愛経験ないでしょ? 私、ほんと心配しちゃう」

「たとえ一晩だけでも、みんな喜んでくれるだけだよ? 笑ったりなんかしないって」

その瞬間。

心月の指先がひねられ、立花柊の腰の柔らかいところを正確につねり上げた。

強い力ではない。

なのにそこは、昨夜瀬戸北斗に散々触れられて、まだ鈍く痺れている場所だった。

「っ……」

立花柊は思わず息を呑む。

顔色が目に見えて不自然に変わり、立ち姿までどこかぎこちなくなる。

事情のわかる人間が見れば、一目だった。

「お姉ちゃん、彼氏いないって言ってたのに?」

保坂心月はにこにこと目を細める。

けれど、その一言一言は容赦なく胸をえぐった。

次の瞬間、侮蔑の気配がどっと押し寄せる。

親しくしていた同僚たちでさえ、微妙に表情を変えていた。

「心月!」

立花柊は低く叱りつけた。

それだけで、全身の力が抜けそうになる。

声を潜め、目の前まで顔を寄せてくる保坂心月をまっすぐ睨みつける。

「いい加減にして」

当然ながら、通じるはずもない。

保坂心月は口元を押さえて肩を震わせ、可憐ぶって笑う。

けれど手は容赦なく、いきなり立花柊の襟元を引き裂いた。

「――っ」

不意打ちだった。

隠す暇もない。

首筋の赤い痕が、白い肌の上にくっきりと浮かび上がる。

保坂心月の目に一瞬、やっぱり、という勝ち誇った光がよぎった。

次の瞬間には、驚きと怒りをない交ぜにした芝居がかった表情へ早変わりしている。

まるで、見てはいけないものを見つけたみたいに。

「お姉ちゃん、昨日の夜ってずいぶん激しかったんだね。せめて首くらい隠せばよかったのに」

「そういえば、部長って前からお姉ちゃんのこと狙ってたよね? 昨日、年会にも来てたし、一晩帰ってなかったって聞いたけど……まさか、その人がお姉ちゃんの彼氏?」

部長の坂東海峰。

40手前の脂ぎった男だ。禿げ上がった頭にビール腹、おまけに女癖も最悪。

部署に若い女性が入るたび下心を隠そうともせず、評判は地に落ちている。

あんな男と噂を立てられるくらいなら、汚水を浴びせられたほうがまだましだった。

立花柊は保坂心月を見た。

ほんの欠片でも、ためらいや罪悪感が見えはしないかと。

――ない。

ひとかけらも。

胸の奥に、骨の髄まで冷え切るような寒気が広がっていく。

それと同時に、どうしようもなくみじめな悲しさが滲んだ。

「お姉ちゃん」

保坂心月は、隠しきれない愉悦を目に滲ませたまま、ねっとりと囁く。

「玉の輿に乗れたら、私のこと忘れないでね」

内心では笑いが止まらないのだろう。

昨夜、泥酔した立花柊をわざとホテルのロビーに放り出し、時間を見計らって坂東海峰へ電話をかけた。

心配しているふりで、立花柊が困っていると教えたのだ。

あの女好きのジジイが、そんな“好機”を見逃すわけがない。

「冗談はやめてって、言ったはずだけど」

立花柊の我慢にも限界はある。

彼女は保坂心月の手を振り払った。

これ以上好き勝手に言わせれば、インターン生活そのものが終わる。

坂東海峰と関係がないことを証明するのは難しくない。ここで本人を突き合わせれば、噂なんてすぐ崩れる。

立花柊が口を開きかけた、そのとき。

背後のエレベーターが、不意にチン、と鳴った。

扉が開く。

灰色のオーダースーツをまとった若い男が、足早に出てくる。

瀬戸北斗の筆頭補佐、立花楓だ。

その後ろには坂東海峰が続いていた。

息も絶え絶えといった様子で。

普段なら部署で威張り散らしている男が、今はへこへこと頭を下げ、必死にこちらへ目配せを送っている。

立花柊は反射的に服の裾を握りしめた。

さっきまで言おうとしていた言葉を喉の奥へ押し込み、さらに深くうつむく。

視線は、ただ自分のつま先だけに落ちた。

忘れようと必死になっていた昨夜の光景が、潮のように押し寄せてくる。

熱を帯びた手。低く漏れる息。

ひとつひとつが、怖いほど鮮明だった。

――私が瀬戸北斗と寝たこと、ばれた……?

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