第10章
彼女はあわてて扉を押し開け、部屋へ飛び込んだ。瀬戸北斗と立花楓の会話を遮ってでも、立花柊を出張に同行させたくなかったのだ。
「北斗、おかえりなさい」
保坂心月は一瞬で表情を作り替え、媚びるような眼差しを向けながら、しなを作って瀬戸北斗に歩み寄る。
立花楓は居心地悪そうに視線の置き場を失い、ただ黙ってまぶたを伏せ、絨毯を見つめた。
突然話を断ち切られ、瀬戸北斗はあからさまに機嫌を悪くした。
眉を寄せ、低く問う。
「何か用か」
保坂心月は立花楓をちらりと見やり、まるでこの家の女主人であるかのように言い放つ。
「ええと……立花補佐、だったかしら。あなたは先に下がって。北斗と二人で話があるの」
立花楓は彼女を淡々と一瞥しただけで、そのまま瀬戸北斗へ視線を移した。
保坂心月の命令は聞こえていたはずだ。だが従わない。
彼が待っているのは、あくまで瀬戸北斗の指示だけ。
つまり彼の中で、保坂心月はまだ何者でもない。
その事実を、保坂心月もすぐに察した。
手のひらをぎゅっと握りしめ、悔しさに奥歯を噛む。瀬戸北斗から見えない位置で、立花楓を刺すように睨みつけた。
――いつか必ず。
全員を、私に頭が上がらないようにしてやる。
胸の内ではそう毒づきながらも、顔には崩れそうなほど甘い笑みを貼りつけたまま。
瀬戸北斗は眉をひそめ、数秒だけ考えるように黙り込む。
保坂心月が動こうとしないのを見て、何か用件でもあるのだろうと判断したのか、立花楓へ目で合図を送った。
立花楓はすぐに一礼して退室し、最後に静かに扉を閉める。
「それで。何の用だ」
椅子の背にもたれたまま、瀬戸北斗は冷ややかな視線を向けた。
保坂心月は腰をくねらせながら近づき、その背後へ回る。
そっと肩に手を置き、撫でるように指を滑らせた。
「北斗、お仕事でお疲れでしょう? 私が癒やしてあげる」
「必要ない」
触れようとした瞬間、瀬戸北斗はさっと身をかわした。
保坂心月の手だけが宙に取り残される。
反射的な拒絶だった。
そこに込められた嫌悪は、もはや隠しようもない。
――私にはこんな態度を取るくせに。
――あの疫病神みたいな立花柊のことは、あんなに褒めるのに。
保坂心月は下唇をきゅっと噛んだ。
腹の底からせり上がる不満と焦り。どうしても飲み込めない。
彼女は瀬戸北斗の正面へ回り込み、今にも泣き出しそうな目で訴える。
「北斗……もしかして、私のことなんて全然好きじゃないの?」
「だって、連れて帰っておいて、一度だって私に触れてくれないじゃない」
「さっき聞こえたの。立花柊のこと、褒めてた……まさか、あの子のことが好きなの?」
その瞬間、瀬戸北斗の眼差しがすっと冷えた。
眉目に薄氷が張ったような、鋭く重い圧。
彼は保坂心月を見据え、低く言い放つ。
「踏み込むな。それはお前が口を出していいことじゃない」
保坂心月の全身がびくりと強張った。
急変した空気に血の気が引き、唇がかすかに震える。もう一言たりとも返せない。
焦っても駄目だ。
まずは瀬戸北斗のそばに残ること。機嫌を損ねず、少しでも多くのものを手に入れること。
もう二度と、あんな貧しくて、みじめで、誰かの顔色をうかがって生きる毎日には戻りたくない。
「……わかった」
保坂心月はか細く答え、取り繕った笑みを浮かべると、すごすごと部屋を出ていった。
厄介払いを終えた瀬戸北斗は、椅子の背にもたれて目を閉じた。
だが脳裏には、先ほど保坂心月にぶつけられた問いが、いつまでも残り続ける。
立花柊――。
厚い前髪に黒縁眼鏡。野暮ったく装っていた姿。
その偽装を外した瞬間の、息を呑むほどの美しさ。
隣の席でこっそり気を抜いていた様子。
少し指導しただけで、真剣な眼差しで吸収していく様子。
残業で腹を空かせ、苦い顔をしながらちらちらこちらを盗み見る様子。
次から次へと、細かな情景が浮かんでは消える。
名前を聞いただけで、これほど多くを思い出すなんて。
他人とのやり取りを、ここまで鮮明に記憶していたことが今まであっただろうか。
まるで立花柊がすぐそばにいて、あの冴えた鸢尾花の香りがふっと漂ってくるような錯覚さえある。
――俺は、本当に立花柊を気にしているのか。
瀬戸北斗ははっと目を開け、眉間に皺を寄せたまま書斎へ戻った。
机の上に置かれた、立花柊の提出した企画書。
彼はそれを手に取り、もう一度ページを繰る。
見れば見るほど、出来がいい。
働き始めて間もない元インターンとは思えない完成度だ。
もちろん途中で指導はした。
だが、それをここまで形にしたのは立花柊自身の力だ。理解力も、粘り強さも、想像以上だった。
仕事の面だけで見れば、彼女は申し分のない補佐役だ。
しかも、まだ伸びる。掘れば掘るほど、才能が出てきそうな女だった。
……ただ。
書類をめくる手を止め、瀬戸北斗は珍しく迷いの中に沈んだ。
*
あの日、保坂心月と険悪なまま別れて以来、立花柊は完全に連絡手段を断たれていた。
着信もメッセージもすべて拒否され、どんな方法を試しても無駄だった。
仕方なく、彼女は新谷寒弥と例の“正体不明の御曹司”について相談を重ねる。
新谷寒弥は焦るなと諭し、少しずつ探ればいいと言ってくれた。
立花柊も、急いでどうにかなる話ではないと分かっている。
今の保坂心月は、こちらとの縁を断ち切ることしか頭にない。
彼氏のことで頭がいっぱいで、何を言っても逆効果だろう。むしろ、ますます嫌われるだけだ。
だからひとまず、その件は新谷寒弥と相談しながら探ることにして、立花柊は目の前の仕事へ意識を切り替えた。
けれど、仕事の状況も以前とは少し変わっていた。
肩書きは変わらず、瀬戸北斗の私設秘書。
それなのに瀬戸北斗は、彼女を自分のそばに置かなくなった。顔を合わせる機会もほとんどない。
業務の受け渡しはすべて立花楓経由。本人と直接話すことすら稀になっていた。
――避けられてる……?
立花柊は首を傾げる。
もしかして、あのホテルで本当は何かあったのだろうか。
だから急に距離を取られた?
コーヒーを運ぶことも、本棚の整理も、社長室に入る雑務すら外されたのは、そのせいなのか。
でも、瀬戸北斗は言っていた。
何もなかった、と。
立花柊は数日間ひとりで悶々と考え続けた。
頭を抱え、あれこれ推理してみる。けれど本人に聞く勇気はない。
結局、胸の中でぐるぐる回し続けるしかなかった。
だがそんなことも、ほどなくして考えている暇がなくなる。
仕事が多すぎたのだ。連日の残業。息をつく間もない。
忙しさに呑まれると、時間は容赦なく過ぎる。
気づけば、あっという間に一か月が経っていた。
そして――一か月後。病院。
立花柊は診察室の外の椅子に座り、手の中の検査結果を呆然と見つめていた。
視線は紙に貼りついたまま、長いこと動かない。
今日は平日だ。本来なら出社している時間だった。
けれどこのところ、どうにも体調が悪かった。
むかつきが続き、何度も吐き気に襲われる。
これまではどうにか耐えてきたが、今朝はさすがに限界だった。ひどく吐いてしまい、立花楓に休みをもらうしかなかった。
薄々、嫌な予感はあった。
家でしばらくうずくまり、また何度か吐いたあと――ようやく覚悟を決めて病院へ来たのだ。
そして検査結果を受け取った瞬間、頭の中が真っ白になった。
妊娠している。
