第3章

名もない末端社員が、どうして社長の目に留まるというのか。

立花柊はさらに深く俯き、震えそうな声を抑えながら、低く名乗った。

立花柊。

瀬戸北斗はその名をなぞるように繰り返す。三文字だけの簡素な名前なのに、妙に清い響きがあった。

――あの夜の鸢尾花の香りみたいに。

胸の奥に荒唐無稽な疑念が突き上げ、思わず口をついて出た。

「昨夜、お前はどこにいた?」

言った本人が、いちばん驚いた。張り詰めていた神経が、一瞬だけほどけたのだ。

立花柊は胸のざわめきを押し殺す。

「早めに帰宅しました。昨夜……何かあったんですか?」

ぎこちなく顔を上げ、目を逸らさずに見返そうとする。背中に回した指先が絡まり、爪が掌に食い込むほどだった。

瀬戸北斗の眉間の皺がゆるむ。心底からの自嘲が、静かに滲んだ。

昨夜の女ひとりで、ここまで心が乱れるとは。長年保ってきた冷静さまで、危うく手放しかけた。

女は、平気で化ける。

瀬戸北斗は立花柊の履歴書を開いた。名門大卒、素行に問題なし、ストレス耐性あり、仕事は几帳面――。

「彼氏はいるか」

話題の転び方が急すぎて、立花柊は舌を噛みそうになる。

「……います」

即答だった。

瀬戸北斗の目が鋭く細まり、仮面の下を剥がすように射抜いてくる。圧に耐え、立花柊は唇を結んだまま、言葉を継いだ。

「関係も……安定しています」

「そこは聞いてない」

瀬戸北斗は視線を引いた。

彼は女秘書を置いてこなかった。私生活に女を入れるのが嫌いだからだ。

だが、立花柊はなぜか不快じゃない。

それに、安定した恋人がいるなら、余計な野心も起こさないだろう。

「引き継ぎを済ませろ。今日から俺の専属秘書だ」

ユニバの仕事の回転はもともと速い。それでも瀬戸北斗の決断は、容赦がなさすぎた。

たった一言で、彼女の進路が変わってしまう。

昨夜の「事故」がある。できることなら、この社長とは二度と関わりたくない。

けれど、保坂心月の鋭い言葉が脳裏を貫いた。

――一生、賃貸。

――一生、みじめ。

――一生、他人の顔色。

保坂心月を償わなければならない。

専属秘書の給与は、今の何倍もある。

立花柊は朦朧としたまま人事へ向かい、手続きを済ませた。

人事部長のマンディが、憐れむような目で彼女を上から下まで眺め、素早く判を押す。

「……幸運を祈るわ!」

分厚い注意事項が束になって押し付けられる。

その意味を噛みしめる前に、元の部署へ荷物を取りに行って、さらに頭を殴られた。

保坂心月はすでに退職手続きを終えていたのだ。

女同僚が、舌を鳴らすように言う。

「心月さ、金持ちの彼氏が『もう働かなくていい』って言ってくれたんだって」

立花柊の視界がふっと暗くなる。

休む間もなく、彼女は賃貸へ駆け戻った。

部屋の床は散らかり放題。

保坂心月は服を選り分けながら、露骨に顔をしかめている。

「心月」

立花柊はできるだけ穏やかに言った。

「今度はどの彼氏なの?」

大学に入ってから、心月の男は途切れなかった。ろくでもない相手も多い。勝手に心月名義で借金を作られたことすらある。

その尻拭いは、立花柊が食事を削って返した。

「一緒に暮らしてるのに、本当に金持ちの彼氏なら、私が知らないわけないでしょ」

「また甘い話に騙されてるんじゃ……心月、少しは考えて」

無料の昼飯なんて、あるはずがない。

保坂心月は尻尾を踏まれたみたいに睨みつけた。

「あんた私の親? いちいち報告する義務あるの?」

「でも私は、あなたに責任がある!」

立花柊はこれほど疲れたことがなかった。扉の前に立ちはだかり、深く息を吸う。

「説明しないなら、今日は出さない」

「うざ」

保坂心月は床の服を蹴り飛ばし、ベッドにどさっと座った。

「ネットで知り合った人。ずっと金持ちって隠してたけど、今は家に連れて帰るって。行かない理由ある?」

「いつから知ってるの? 信用できるって、なんで言えるの」

「……どうせ、あんたよりマシ。私の親を殺した張本人よりね」

近い人間ほど、刺さる場所を知っている。

立花柊は言葉を失った。

保坂心月はスーツケースを引き、見下す笑みを浮かべる。

「何年も必死に生きてきたって、私の彼氏の家の1㎡にもならないよ。あんたもさっさと男捕まえて嫁げば?」

床に残った服を指差し、吐き捨てる。

「それ、あげる。飾りなよ。私に育ててもらったんだし、今度は私が化粧品とか服とか送ってあげる」

立花柊は最後の引き止めを、惨めなくらい必死に口にした。

「男なんて頼れないよ。私、社長秘書になったの。これから良くなる。大きい家だって買ってあげる」

「冗談でしょ?」

保坂心月は笑い、立花柊の頬を軽く叩いた。

そして目の奥に、怨毒が滲む。

「あんた、嫉妬してるの? 私がついにあんたを超えたから?」

賭けに狂ったみたいな目だった。

立花柊は知っている。いまの心月は止まらない。血を流してからしか戻れない。

保坂心月は白目に血が這うほど目を赤くし、焦りと執着をむき出しにして言った。

「……あんたが私を家も人も失わせたのは事実。でも私、理不尽なだけじゃないよ」

唇を歪める。

「仕事も辞めなよ。月20万あげる。数年くらい楽させてあげるから。私の足枷だって思わないで?」

立花柊は、心月を足枷だと思ったことなんて一度もない。

手が宙で固まった。指先には、心月の袖がすべった冷たさだけが残る。

スーツケースを引いて出ていく背中は、迷いひとつない。

床に散った残り物の服が、引き裂かれた彼女の心のように乱れていた。

喉には水を吸った綿が詰まったみたいで、ひりつく。

心月の言葉は氷を塗った刃物となって、立花柊の胸に突き刺さり続けた。長年の献身が、滑稽で安っぽいものに変わっていく。

立花柊は、心月を送った運転手から行き先のマンション名を聞き出した。

「千の苑……?」

その名は、瀬戸北斗の個人資料で見たことがある。胸の内がざわついた。

そこに住む人間は、瀬戸北斗と同じく金持ちか権力者に決まっている。

――じゃあ、保坂心月の彼氏は本当に金持ちなのだろうか。

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