第4章

駄目だ。機会を見て、瀬戸北斗に相手の人となりや家のことをそれとなく探らなければ。

たとえ保坂心月が変わってしまったとしても、柊にとっては一緒に育った妹だ。間違った道を、このままずるずる進ませるわけにはいかない。

翌日。立花柊は時間どおりに新しい持ち場へ入った。私設秘書とはいえ、就いたばかりの今は、立花楓の指示で雑務を片づけるのが主な仕事だ。

書類を整えながらも、ふと手が空くたびに心月のことが頭をよぎる。思わず、ひとつため息がこぼれた。

時計を見て、柊ははっとする。慌ててコーヒーを用意し、社長室へ向かった。

「瀬戸社長、コーヒーです」

立花柊は、重厚な無垢材の机の上へそっとカップを置く。

深いコーヒーの香り。その奥に、ひやりと甘く人を誘うような、アイリスの香りがひとすじ。

近づいては離れるその匂いが、あの夜の生々しい熱を一瞬で呼び覚ました。

瀬戸北斗の喉仏が、ひとつ上下する。彼は目を上げ、傍らの女を見た。

――こいつだ。

深く沈んだ視線が、まっすぐ柊へ落ちる。息が詰まるほどの圧だった。

そんなふうに見つめられて、立花柊はうっすらと頭皮が粟立つのを感じた。

そのうえ、あの夜、この男と一晩を共にしてしまったのだ。後ろめたさがないはずもない。

柊は目を伏せ、視線を避ける。

「瀬戸社長、ほかにご用はありますか」

「もう下がっていい。設計部の案をまとめて――」

命じかけて、瀬戸北斗はふいに言葉を切った。そしてすぐ、言い直す。

「……いや、お前は残れ。ここで整理しろ」

なぜ気が変わったのか、自分でも説明がつかない。ただ、あのアイリスの香りを手放したくなかった。

立花柊は一瞬きょとんとしたが、わざわざ問い返したりはしない。

主人が言うなら従う。それだけだ。

柊はおとなしくその場に残り、案の整理を始めた。無駄口は叩かず、仕事に入れば驚くほど集中する。

社長室はしんと静まり返り、淡いアイリスの気配だけが空気のなかを漂っていた。

瀬戸北斗は妙に頭が冴えるのを感じながら、書類に向かう彼女の横顔を見つめる。次の瞬間、その目の色がふっと昏く沈んだ。

――思っていた以上に、好みだ。

気づけば午前が過ぎていた。

そのあいだに立花楓が一度入室し、瀬戸北斗の机の前で恭しく頭を下げる。

「瀬戸社長、まもなくバレンタインですが、保坂様への贈り物はご用意なさいますか」

瀬戸北斗は軽く咳払いし、わずかに迷ったあと、視線を柊へ向けた。

「立花」

低い声で命じる。

「お前が手配しろ。予算は上限なしだ」

「かしこまりました」

柊はそう答えながら、胸の奥がほんの少しだけ沈むのを感じた。同時に、どくんと不穏な鼓動も鳴る。

――瀬戸北斗って、もう恋人がいるんだ。

しかも、上限なしで贈り物を用意させるほどの相手。いったいどれほどの美人なのだろう。

では、自分と瀬戸北斗のあの一夜は――

立花柊の頬がかっと熱くなり、次いですっと青ざめた。

やはり、あの夜のことは墓場まで持っていくしかない。

そのとき、机上のスマートフォンが着信を告げた。

新谷寒弥。隣家の兄だ。

柊と心月は、かつて新谷家にしばらく身を寄せていたことがある。柊にとって寒弥は、もう実の兄と変わらない存在だった。

柊は慌ててスマートフォンを取り上げ、瀬戸北斗にひと声断ってから社長室の外へ出た。

瀬戸北斗は最初、無理に書類へ視線を落としていた。だが見ているうちに、どうしても意識がガラス扉の向こうへ引かれてしまう。

そこには、立花柊がいた。

電話口で、彼女は笑っていた。

心から安らいでいるとひと目で分かる、やわらかな笑み。相手を深く信頼し、好意を寄せているからこそ浮かぶ表情だった。

――俺の前では、そんな顔はしない。

瀬戸北斗の眉間に冷えた影が落ち、薄い唇が次第に一本の線になる。

立花柊は言っていた。恋人がいると。しかも関係は安定していると。

だからこそ、余計な野心もないだろうと見込んで私設秘書に据えた。だが今は、その条件が妙に鼻につく。

電話の相手は、恋人なのか。

落ち着かない気分のまま、瀬戸北斗は書類を脇へ放った。

だが、立花柊が戻ってきて、あのアイリスの香りがふたたび鼻先をかすめた途端、ようやく胸のざわめきが静まっていく。

「今夜、晩餐会がある。お前も同行しろ」

瀬戸北斗は柊を見据え、そのまま言い渡した。

立花柊は一瞬、ぽかんと目を瞬かせる。

「瀬戸社長……私、ですか」

「この部屋に三人目でもいるのか」

淡々と返され、柊はあわてて室内を見回す。いつの間にか、立花楓の姿はなかった。

気まずそうに笑い、彼女は腹をくくるしかなかった。

その夜。会場の宴会ホール。

瀬戸北斗は、仕立てのいいダークグレーのスーツを隙なく着こなしていた。肩幅の広さも、すらりと長い脚も、まるで誂えた舞台装置みたいに彼を引き立てている。

眉目は冷ややかで、双眸には氷を含んだような鋭さがあった。彼がひとたび視線を流すだけで、あれほど騒がしかった人波がすっと声を潜める。

立花柊はそんな瀬戸北斗の隣を静かに歩きながら、数歩ごとにこっそり横顔を盗み見てしまう。

「おや、珍しいな」

軽く笑いを含んだ、からかうような声が飛んだ。

柊が振り向くと、ひとりの男が悠々とこちらへ歩いてくる。目元には色気があり、流し目ひとつにも艶がにじむ。

石黒延司だった。

シャンパンをくゆらせるように揺らしながら、彼は瀬戸北斗へにやりと笑いかける。

「瀬戸さんが顔を出すなんて、今日はどういう風の吹き回しだ?」

そう言ってから、視線を柊に移した。

「女連れなんて初めて見たな。うーん……ずいぶん素朴な趣味じゃないか」

遠回しですらない。田舎くさいと笑っているのだ。

だが瀬戸北斗は、表情ひとつ変えなかった。無愛想な男にしては珍しく、その口調だけが妙に毒を含む。

「新しく雇った秘書だ。この程度のほうが、見ていて安心できる」

ひと拍おいて、さらに付け足した。

「酒避けにもなる」

――私は厄除け札か何かですか。

立花柊はその場で固まりかけた。とはいえ、瀬戸北斗から破格の給料をもらっている身だ。腹が立っても、表には出せない。

石黒延司はけらけらと笑った。瀬戸北斗に無理やり飲ませる度胸はないくせに、柊相手には容赦がない。

次から次へと勧められ、柊は私設秘書として断りづらい。気づけば頬には赤みが差し、差し出されるグラスに困った顔を向けていた。

歯を食いしばって受け取ろうとした瞬間、骨ばった大きな手が、そのグラスを横から止めた。

瀬戸北斗が指先でグラスを軽く叩き、見下ろしてくる。

「酒は強いのか。もう酔ったか」

酔う――その一言だけで、立花柊の脳裏には前回の酒席の記憶がばらばらの断片になって閃いた。

頬の熱はさらに増し、視線が泳ぐ。とても瀬戸北斗の顔などまともに見られない。

瀬戸北斗は目を細めた。柊が明らかに自分を避けている。なのに彼は、なぜか吸い寄せられるように、もう一歩だけ距離を詰めてしまう。

アイリスの香りが鼻先をくすぐる。胸の奥が、かすかに揺れた。

「立花」

低い声が落ちる。

「俺たち、どこかで会ったことがあるか?」

立花柊の心臓がどくんと暴れた。気づかれないよう、そっと唾を飲み込む。

「瀬戸社長、私はただの元インターンですし……そんな、社長とお会いする機会なんてありません」

「そうか」

瀬戸北斗はグラスを取り上げ、ゆっくりと身を起こして距離を空けた。何を考えているのか読めない、昏い目をしている。

柊は小刻みに何度もうなずく。少しでも怪しまれたら終わりだった。

幸い、瀬戸北斗はただの気まぐれのように視線を流しただけで、そのまま別の相手との会話へ戻っていった。

晩餐会が終わる。

立花柊は運転手とともに、瀬戸北斗を自宅まで送り届けた。

後半、瀬戸北斗は柊に酒を受けさせることはせず、自分でかなり飲んでいた。さすがに酔いが回っているらしく、足取りが少し重い。

柊は運転手と左右から彼を支え、どうにか寝室まで運び込む。

そのころ保坂心月は客間で気をもみながら待っていた。物音が聞こえた瞬間、ぱっと上着を脱ぎ捨てる。下から現れたのは、肌をあらわにした扇情的なネグリジェだった。

腰をくねらせるようにして主寝室の前へ向かい、いちばん艶っぽく見える角度を作ってから、そっと手を上げる。

ノックしようとして――中にいる顔を見た。

立花柊。

その瞬間、保坂心月の顔色がさっと変わった。

もし立花柊に、瀬戸北斗こそ自分が言っていた御曹司の恋人だと知られたら。

自分が誰かの立場を奪ってここにいることまで、全部――露見してしまう。

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