第5章
秘密を隠し通すには、保坂心月は立花柊に姿を見られるわけにはいかない。歯を食いしばって踵を返し、その場を離れるしかなかった。胸の奥で、立花柊への怨みがさらに膨れ上がる。
――あの疫病神。私の邪魔しかしない。
保坂心月は苛立ちを撒き散らすように客間へ戻り、立花柊がさっさと帰ってくれることだけを願った。
一方の立花柊は、運転手と二人がかりで瀬戸北斗を寝かせたところだった。
運転手は、社長の晩餐会にまで付き添っていたのを見て、この野暮ったい女も侮れないと思ったのだろう。すぐに「お送りしますよ」と言い出した。
何度断っても引かれず、立花柊は仕方なく頭を下げる。
「それじゃ……お願いします。ありがとうございます」
「気にしないでください」
運転手が先に立ち、ドアを開けた。
その瞬間だった。立花柊は、廊下の曲がり角に女の影がすっと消えるのを見た気がした。
――今の、瀬戸北斗の彼女……?
なぜか、見覚えがあるような。胸の奥がざわつく。
立花柊は玄関先で眉をひそめ、必死に記憶を手繰り寄せたが、糸口が掴めない。
「立花補佐、行きましょう」
運転手はもう階下に降りていて、廊下に立ち尽くす彼女を呼んだ。
思考を断ち切られ、立花柊は我に返る。深追いはやめ、慌てて後を追った。
立花柊が完全にいなくなったと確信したころ、保坂心月はようやく息を吐いた。鏡の前で髪と服を整え、音を立てないように瀬戸北斗の部屋へ忍び込む。
「女にする」と言われたのに、連れ帰られてから一度も触れられていない。
しかも今、瀬戸北斗は目を閉じてベッドに横たわっている。酒が残っているのは明らかだった。
――天の助け。今夜こそ、形にしないと。
保坂心月は服を脱ぎ捨て、ベッドへ這い上がり、瀬戸北斗へぴたりと寄り添った。手のひらが逞しい胸を撫で、ゆっくり下へ……ベルトへ。
その瞬間、手首をがしっと掴まれる。
「痛っ……!」
声を上げる間もなく、強い力で突き飛ばされた。保坂心月は床へ転がり、裸のまま絨毯にうつ伏せになる。惨めでたまらない。
瀬戸北斗はすでに起き上がっていた。黒い瞳に宿るのは、剥き出しの嫌悪。
冷たく見下ろし、低く叱りつける。
「……何をしている」
保坂心月は目に涙を浮かべ、わざと弱々しく訴えた。
「だって……私をあなたの女にするって言ったじゃない。だから、気持ちよくしてあげたくて……」
だが瀬戸北斗の胸には、あの夜の熱が一滴も湧かない。
保坂心月は過去と決別するため、頭の先から足の先まで「新しい自分」に変えた。立花柊と同居して染みついた鸢尾花の匂いも、疫病みたいに嫌って捨てた。嗅ぐたびに、自分が底辺から来たことを思い出して腹が立つからだ。
入居したその日に何度も体を洗い、上等な香りで塗り替えた。
そのせいで瀬戸北斗の鼻先にあるのは、清冽で癖になる鸢尾花の香りではなく、どこかよそよそしい香水の匂いだけ。
――匂いが違う。
瀬戸北斗は眉を寄せる。
――まさか、俺は人を間違えたのか。
だが社員証は偽れない。
疑念だけが、胸の奥で芽を出した。
泣きながら縋ろうとする保坂心月に、あの夜の面影はどこにもない。あるのは不快感だけ。
彼は昔から、こういう泣いて縋る女がいちばん嫌いだ。
それに比べれば、立花柊は野暮ったくても静かで従順で、むしろ鬱陶しくない。
瀬戸北斗は短く吐き捨てる。
「……出ていけ」
保坂心月はその冷え切った顔色に震え、床の服を掴んで逃げるように去った。
部屋に静寂が戻る。
瀬戸北斗は眠れなかった。頭も重い。ベッドボードにもたれ、目を閉じて呼吸を整える。
なのに浮かぶのは、立花柊の顔。
厚い前髪。古臭い黒縁眼鏡。
どう見ても垢抜けない――それなのに、あの匂いだけが妙に身体を煽る。
鸢尾花の香りを思い出すだけで、あの夜の艶めいた映像が脳裏で再生された。
熱が腹の底から噴き上がり、血が煮える。瀬戸北斗は耐えきれず立ち上がり、浴室へ向かって冷水を浴びた。
そのころ、追い出された保坂心月は怒りと屈辱でいっぱいだった。そんな最悪のタイミングで、立花柊から電話がかかってくる。
出たくない。だが無視しても、しつこく鳴り続ける。
保坂心月は陰った顔のまま通話を取った。
「なに? 用があるなら早く言って」
冷たく突き放され、立花柊は胸がちくりと痛む。言葉が喉に詰まったが、しばらく沈黙してから、なるべく穏やかに口を開いた。
「心月、向こうはどう? 彼氏は優しい? もし辛いことがあったら、いつでも戻ってきて……」
それが引き金だった。さっきの惨めさが一気に蘇る。
「うるさい! 偽善ぶらないで!」
保坂心月は苛立ちをぶつける。
「彼氏は優しいし、あんたの心配なんていらない!」
強がりのまま、吐き捨てた。
「いい? 私はもういい暮らししてるの。もう電話してこないで!」
ぷつり、と一方的に切れる。
立花柊はスマホを握りしめ、胸の奥がすうっと冷えた。
心月が、必死に自分との繋がりを断とうとしているのが伝わってくる。
立花柊は小さく息を吐いた。
――いつか、ちゃんと話さないと。
翌日。
立花柊はいつもどおり立花楓のところへ顔を出し、書類整理やコーヒーをこなしていた。
立花楓いわく、瀬戸北斗は時間と秩序に異様に厳しい。仕事の機械みたいな人間だという。
だから立花柊も時計を確認し、きっちりコーヒーを運ぶ。
「瀬戸社長、おはようございます」
立花柊はコーヒーを置き、恭しく挨拶した。
ふわり、と淡い鸢尾花の香り。
それだけで瀬戸北斗の神経がぴくりと反応する。
「そこに置け」
昨夜眠れず、疲れた手で眉間を揉む。
立花柊は察して、背後の本棚を整え始めた。距離は近い。
清冽な鸢尾花の香りが近づいたり離れたりして、瀬戸北斗の心を妙に乱す。
そんなとき、受付の社員がノックして入ってきた。
許可を得て、社員が恐る恐る言う。
「立花補佐、少しよろしいでしょうか。贈り物が届いてまして……メモに『柊へ』と」
見ると、社員の手には精巧なピンクのギフトボックス。
立花柊は作業を止め、瀬戸北斗に目で許可を取ると、小走りで受け取りに行った。礼を言って受け取り、メモの字を見た瞬間、誰からか分かって頬が緩む。
受付社員は瀬戸北斗を恐れているのか、立花柊にだけ小声で冗談を飛ばした。
「立花補佐、その包装……彼氏さんからじゃないですか?」
立花柊は一瞬固まる。だが、瀬戸北斗に「彼氏がいる」と嘘をついたことを思い出し、曖昧に微笑んで肯定した。
次の瞬間。
「立花柊」
瀬戸北斗の声が、氷のように落ちた。
社長室の空気が一気に死ぬ。
視線がいっせいに、立花柊へ突き刺さった。
