第9章
瀬戸北斗の名が、危うく保坂心月の口から零れかける。だが、ぎりぎりで彼女は踏みとどまった。
――危なっ。
立花柊がはっきりと疑わしげな顔をしている。保坂心月は掌をぎゅっと握りしめ、焦りを飲み込んで言い換えた。
「……これ、彼氏がくれたの。お金ならいくらでもあるし、私にすっごく気前いいんだよね」
隣の店員が、それを聞いた瞬間にあからさまに白けた目をした。
立花柊はその程度の反応には構わず、なおも穏やかに諭す。
「心月、そんなに怒らないで……」
「立花柊、何その「いい人」ぶり?」
保坂心月が、かぶせるように遮った。鼻で笑い、見下した目つきになる。
「あなたみたいなの、この先一生かかっても、私のこのバッグ買えないでしょ」
腕を組んだまま、立花柊の周りをぐるりと一周する。冷たい嘲りが滲む声。
「分かってる。嫉妬でしょ? 私のほうが運がよくて、金持ちの彼氏つかまえたのが悔しいんでしょ。ほら、悔しい?」
「心月……どうしてそんなふうに思うの?」
立花柊は眉を寄せ、信じられないという顔をした。
保坂心月は薄く笑ったまま、今度は店員を指差す。
「違うって? じゃあ何。こいつの味方して、善人ぶってるだけでしょ。ほんとは嫉妬してるのバレバレ。私が気づかないと思った?」
立花柊は、目の前の心月が別人に見えた。
高慢な態度。冷えた目。吐き捨てる言葉のひとつひとつが、刃みたいに胸へ刺さる。
そのとき、新谷寒弥が椅子から立ち上がり、立花柊の隣へ歩み寄った。
「保坂心月、言い過ぎだ。柊は心配して言ってるんだろ。なのにお前、来た瞬間から文句ばかりで――」
「新谷寒弥、あんたも説教しないで」
保坂心月は顔を沈め、また一方的に遮る。
二人を冷たく見渡しながら、彼女の中で計算が回った。
過去を切り捨てると決めたのなら、安っぽい匂いを消すだけじゃ足りない。過去の人間関係ごと、全部捨てる。
――今がちょうどいい。
保坂心月は迷いなく言い切った。
「いい? 私、あんたたちの薄っぺらい心配なんていらない。私のこと、管理しないで」
「彼はお金持ちで、私に優しい。ほんとに私のためを思うなら、私がいい暮らしするの邪魔しないで」
「もう連絡しないで。私はもっといい生活をする。あんたたちは勝手にやって」
そう言い捨てると、バッグを掴み、苛立ちをそのまま足音にして店を出ていった。
立花柊の横をすれ違いざま、わざと肩を強くぶつける。
「っ……!」
不意を突かれ、立花柊はよろめいた。だが、すぐそばの新谷寒弥が支えてくれたおかげで倒れずに済む。
「柊、大丈夫か」
新谷寒弥の目に心配がにじむ。
「心月、ほんとにどうかしてる。お前が気にかけてるのに、縁切りとか……」
「私は平気」
立花柊は小さく首を振った。だが、去っていく背中を見つめながら、胸が沈むだけでは済まなかった。
どこか、おかしい。
心月は昔から短気なところがあった。それでも最近の刺々しさは異常だ。
あの「金持ちの彼氏」ができてから、まるで喧嘩の口実を探しているみたいに見える。わざと関係を断つために、わざと怒らせる言葉を選んでいるような――。
嫉妬が怖いから?
それとも、別の理由……?
立花柊は考え込みながら、隣の新谷寒弥に小声で尋ねた。
「寒弥さん……心月、なんか変じゃない?」
新谷寒弥はまだ怒りが冷めていないのか、ぶっきらぼうに返す。
「変じゃなかった日があるか? 入ってきた瞬間から偉そうで、あれこれ文句つけて。お前が取り分けた料理も一口も食ってなかった」
「そうじゃなくて」
立花柊は首を振り、言葉を探すように続けた。
「心月、私から逃げたいみたいに見えるの。何か隠してて、私に知られたくないっていうか……」
その言い方に、新谷寒弥もふっと冷静になり、さっきの様子を思い返す。確かに、焦っていた。
喧嘩を売るのが早すぎた。言い捨てて出ていくのも早すぎた。まるで、引き止められる前に逃げ切りたいみたいに。
「……確かにな」
新谷寒弥は眉を寄せ、声を落とす。
「外で何かやらかしてる可能性はある」
「それと、心月が言ってた金持ちの彼氏も怪しい。金がある、金持ちのエリアに住んでる、それ以外が何も分からない」
立花柊は小さく息を吐いた。まさにそれが不安なのだ。
「柊、お前も背負い込みすぎるな」
新谷寒弥は立花柊の肩を軽く叩く。
「送る。……心月の彼氏の件は、こっちで調べよう」
立花柊は頷き、新谷寒弥の車に乗って家路についた。
一方その頃。
保坂心月は、レストランを飛び出した怒りが冷めないまま帰宅し、なおさら苛立っていた。
バッグについた僅かな汚れが目に入るたび、胸が痛む。
テーブルの紅茶をひと口含んで――すぐに「ぺっ、ぺっ」と吐き出す。
「木下! 木下!」
木下さんが厨房から慌てて駆けてきて、うかがうように頭を下げる。
「保坂嬢、いかがなさいましたか」
「冷めてるじゃない! こんなの置いとくな、捨てて!」
保坂心月は八つ当たりのように吐き捨てた。
外で溜めた鬱憤の行き場がない。だから、目の前の相手をぶつけ先にしただけだ。
木下さんは慣れたように口をつぐむが、さすがに悔しさを隠せず、小さく反論する。
「それは瀬戸社長がお飲みになるようにと……先ほどお電話が入って、二階へ上がられたので、そのままにしておりました」
「北斗が帰ってるの?」
保坂心月の瞳が、ぱっと光った。
木下さんが頷くや否や、保坂心月は弾かれたように階段を上る。洗って、整えて、艶めいた寝間着に着替える。鏡の前で角度を変えて何度も確かめ、高級な香水を重ねた。
そして腰をくねらせるように、瀬戸北斗の寝室へ向かう。
部屋の扉は、きっちり閉まっていなかった。近づいた途端、中から通話の声が漏れてくる。
――その中に、立花柊の名前が混じった。
(……あの疫病神。ほんっと、しつこい)
保坂心月は露骨に顔を歪めると、音を殺して扉のそばへ寄り、耳を澄ませた。
「悪くない。立花柊が出してきた案は出来がいい。細部まで詰めている。前回指摘した点も、全部潰してきた」
「今回は合格だ。修正は要らない」
瀬戸北斗の低く落ち着いた声。そこにあるのは、立花柊への明確な評価だった。
保坂心月は目を見開く。
北斗が――立花柊を褒めている?
驚く間もなく、瀬戸北斗は続けた。
「数日後、地方へ出張だ。案件の打ち合わせがある。明日、彼女に伝えろ。準備させて……そのときは――」
――連れていく。
そう言ったように聞こえた。
保坂心月の背筋が、ぞっと冷えた。
出張に同行させたら、二人の距離が縮まるかもしれない。もし、そこで何か起きたら――。
保坂心月は堪えきれず、呼吸の荒さのまま、扉へ手をかけた。
