第1章
うちの主任開発者の一人が、ネット上で私を吊し上げた。
あいつは私の「インキュベーション・プロジェクト」は金ピカの檻――チームを搾取し、個人の知的財産を奪うための罠だ、と言い張ったのだ。
真実は?
資金は私の自腹だ。
選ばれた候補者には、ひもなしの種銭として五百万円。さらに帝都大学の学費を全額補助。参加は完全任意で、辞退してもペナルティは一切なし。
それなのにネットは、私を創造性を独占する有害な資本家扱いだ。なら、あいつが望んだ通りにしてやった。全社向けメモを叩きつけた。
「資本家による搾取から皆さんの創作の自由を守るため、五百万円のインキュベーション基金、および学費全額補助制度は本日付で即時、恒久的に廃止します」
「代替として、全社員の月次教育手当は、基礎的なコーディング講座の受講料に限り、一律千五百円を支給します」
メモが投下された瞬間、あの五百万円を当てにして学費ローンを返したり人生を変えたりしようとしていた社員たちは、完全にブチ切れた。
いま、私のガラス張りの執務室のドアの外に群がっている。目を真っ赤にして、制度を戻してくれと泣きついて。
「五百万円。ひもなしの種銭。加えて帝都大学の上級課程の学費全額補助」
私は会議室の前に立ち、プレゼンのリモコンをクリックした。画面は、前例のない待遇のスライドで止まっている。
静まり返った。
そして次の瞬間、部屋が爆発した。
「マジかよ、本当に五百万!?」
「帝都大学の学費タダ!? 先週まさに支払いで胃が痛かったんだけど!」
主任UIデザイナーの高橋由美が、同僚たちと興奮した目配せを交わしている。
私は手を上げて静まるよう促した。
たちまち、全員の視線が私に突き刺さる。
「だが、投資には境界がある」私はポインターを押した。スライドが切り替わり、白黒の条項がびっしりと並ぶページが表示される。
「これが『IPガードレール』だ。簡単に説明しよう。第一に、この資金を使って開発したプロジェクトの基盤コードは、秘密保持契約の対象になる。第二に、プロジェクトを商用化する場合、株式会社ミライメディアは独占配信に関する優先交渉権と、次回資金調達時における優先出資のオプションを持つ」
「これは、将来の著作権トラブルを防ぐための防壁だ。特に大手配信プラットフォームと組む際、あちらのデューデリジェンスで引っかかると厄介なことになる。会社を守り、最終的には君たちの努力をも守るためだ。――質問は?」
前列に漂っていた陶酔は、目に見えて冷めた。低いざわめきが生まれ、皆が頭の中で損得勘定を始める。正常な反応だ。大人の世界は、結局取引でできている。
そのとき、わざとらしい含み笑いが囁きを切り裂いた。
「あの、悪いけどさ。言葉遊びしてるだけじゃない?」
生田拓也だった。中核のバックエンド開発者で、登録者三十万人の兼業テック動画投稿者でもある。
「どういう意味?」私は真っ直ぐ拓也を見た。
拓也は立ち上がった。「夢を支援してるように聞こえるけど、ここの文言をよく見ろよ。優先交渉権? つまりさ、この五百万を受け取ったら、将来一千万の価値になるかもしれない俺らの独立IPが、会社にがっちり縛られるってことだろ。秘密保持契約? いつでも差し止め食らわせて、『お前らのコードはウチの権利を侵害してる』って言えるってことじゃん」
両手を広げ、挑発的な口調で煽る。「インキュベーションじゃない。小銭で合法的に知財を強奪する仕組みだろ。そうだよな、みんな?」
息を呑む音が部屋の隅々から返ってきた。
由美の目から光が消えた。若いエンジニアが何人か、目に見えて迷ってから、同調するように頷き始める。拓也は見事に、その場にいる全員のいちばん過敏な神経を逆撫でしてみせた。――現場で汗を流すコーダー対、自分たちの創造性を吸い上げる吸血企業、という対立構造を植え付けるために。
「合法的に強奪?」私は小さく笑った。
「生田さん、『オプトイン』って概念を理解してないのか?」
声が冷たくなる。「私は誰にも強制していない。罠だと思うなら、署名しなければいい。この五百万円を受け取らなければ、基本給を減らす人間もいない。昇進を塞ぐ人間もいない」
「だが、自分がルールに従いたくないからって、他人が人生を変えられる本物の機会を『搾取』だと貶める権利があるわけじゃない。自由が欲しいなら勝手に持っていろ。だがそれを武器にして、他の全員の未来を潰すな」
拓也の顔に浮かんでいた薄笑いが、一瞬凍りついた。私が餌に食いついて「搾取」だの何だのと弁明すると思っていたのだろう。
だが、あいつの頭の回転は速かった。すぐさま、さらに上の「正義のポジション」へと逃げ込み、道徳を振りかざし始める。
「俺はチームの公平さのために戦ってるだけだよ。秘密保持契約に署名した人が五百万と帝都大学のリソースを手に入れたら、参加しない選択をした俺らは、得られるはずの利益を失う被害者になるだろ? 同僚がでかい金を渡されていくのを見ながら、どうやって平穏に働けっていうんだよ」
その自己愛と権利意識に、私は呆れるのを通り越して少し面白くすらなった。
制限もリスク分担も拒むくせに、いざ自分の懐に金が入らないとなると、まるで自分の正当な財産を奪われたかのように騒ぐ。
「安心して働きたい? 簡単だ。応募して、選ばれれば、お前も五百万円を持って帰れる」
これ以上言い争う隙を与えず、私は資料の束を掴んで席を立った。
「応募ポータルの締切は今日の午後六時きっかりだ。時間が来れば、アクセスは完全にシャットアウトされる。以上、解散」
私はまっすぐ自分のオフィスへ戻った。
境界のない善意は、契約の精神を買えない。ただ、際限のない恩知らずの寄生虫を育てるだけだ。
これで終わったと思った。
三十分後、ドアがノックされた。
拓也がドアを押し開けて入ってきた。目は赤く、途方もない重圧と被害者意識を背負った人間の顔をしている。
「社長」拓也はため息をつき、わざと脆さをまとわせた声音で言った。「さっきの会議、ちょっと言い方きつかった。悪かったよ。根に持たないでくれ」」
