第2章
私は視線を画面から外し、デスクの前に立っている人物へ向けた。
「要件だけ言って」
拓也が椅子を引き、腰を下ろす。開発リーダーの彼は、今日はわざと「独立支持」と書かれたTシャツを着ていた。
「社長、例の五百万円のインディーゲーム育成ファンドの件なんだけど」拓也は様子をうかがうように切り出した。「内々で話題になってる」
「何が話題なの?」
「会社はクリエイター文化を支援するって言ってるんだし、もっと包摂的であるべきじゃない? この予算を『クリエイター手当』にして、みんなに均等に分けたらどうかなって。全員が自由に作るためのお金をもらえたら、チームの士気もずっと良くなる」
私は拓也を見つめた。強欲が顔にべったり貼りついているのに、彼はそれを「士気を守るため」という衣で包もうとしている。
「拓也、苦労して勝ち取った資金を、あなたたちにただ配れって言うの?」
「そんな言い方するなよ!」拓也が苛立って声を荒げる。「もらえなかった同僚たちが疎外感を抱く――」
「疎外感を心配してるの? それとも、この五百万が自分の懐に入らないのが怖いの?」私は遮った。
拓也が椅子から跳ねるように立ち上がり、顔を真っ赤にした。
「出ていって」
「結城社長、核心メンバーをこんな扱いして、後悔するよ」数秒睨みつけ、踵を返すと、背後でドアを叩きつけるように閉めた。
拓也はずかずかと中核開発エリアへ戻り、スマホを掴んで猛烈な勢いで打ち始めた。ときおり顔を上げ、向かいの画面デザイン担当、由美と視線を交わす。
その瞬間、確信した。扇動は終わっていない――ただ、地下に潜っただけだ。
午後七時。
スマホがけたたましく震えた。
受話口から秘書の黒川真一が叫ぶ。声が裏返っていた。「結城社長! SNSが炎上してます! いま、動画サイトの動画がトレンド入りしてて!」
「どんな動画?」
「リンク送りました!」
私は動画サイトを開いた。太い黒字のタイトルが目に刺さる。
「女性社長、五百万円でクリエイターの自由を買い叩く――株式会社ミライメディアの現代的知的搾取を暴く」
声を変えるAI音声を使った匿名の人物が、動画内で契約条項を見事な手つきで解体していく。
「みなさん、いわゆる『優先権』の正体は、僕たちの未来の囲い込みです。開発ポータルへの登録は、ただの常時監視。秘密保持契約は、ただの口封じ!あなたは五百万円をもらえると思って喜んでいるかもしれない。でも実際には、あの資本主義の狂人に、自分たちの次の十年を『小銭』で売り渡しているだけなんですよ!」
映像は、ぼかしの入った社内スライドや中核メンバーのグループチャットのスクリーンショットへ切り替わった。粗いモザイク越しでも、それが内部からの漏えいだとわかった――内通だ。
コメント欄は、一線を越えた罵詈雑言の嵐に包まれていた。
「マジで今すぐ住所特定しろ。この吸血鬼の自宅どこだよ? 晒せ。何人分の汗と血があいつの豪邸に消えたか暴いてやろうぜ」
「典型的な有害資本主義で草。ミライメディア製品はガチで不買な。こんなゴミ会社、全力で潰そうぜ!!」
あの特定のコード断片を知っているのは、中核グループの三人だけ。そして、今日の午後、私のオフィスで癇癪を起こしたのは一人だけ。
「生田拓也だ」私は画面を睨みつけた。
二百人以上がいる会社のメイン社内チャットは、煮えたぎっていた。
拓也が、ひどく誘導的なメッセージを投下する。
「SNSって怖い……結城社長、いま相当なプレッシャーのはず。みんな、SNSに行って火に油を注ぐのはやめよう。社長の判断も理解するようにしよう」
言外の意味は露骨だった。搾取は事実で、私へのネットリンチは当然、被害者はお前たちだ――と。
潮目は一瞬で変わった。普段は満面の笑みで挨拶してくる社員たちが、世論という濁流の中で自分だけ助かろうと、必死に「正義の高台」を築き始める。
由美がスレッドに返す。「あの条項、正直怖すぎます……署名を拒んだだけで疎外されるのは嫌です」
リードプランナーの大輔も同調した。「嫁が動画見て大ゲンカですよ。俺は資本家の道具でしかないって。もう疲れた」
跳ねる文字列を眺めながら、背筋を冷たいものが走った。
二年前、大輔が借金に溺れ破産寸前だったとき、私は私費で弁護士を立てて救った。由美の娘が集中治療室に入って膨大な医療費に途方に暮れていたときも、借用書一枚求めず、個人口座から三百万円を直接振り込んだ。
それなのに、でっち上げの階級裁判を前にした彼らは、自分の無罪を証明するために私の首を踏み台にする道を選んだ。
私は短く、冷たく笑った。
SNSのトレンドページに戻り、更新する。
タイムラインが跳ね、新しく高評価を集めたコメントがいくつか浮かび上がる。あまりに分かりやすい。
「私は株式会社ミライメディアの現役社員です。この動画で暴かれた略奪的条項は百パー事実だと証言できます! 社内の空気は息が詰まるほどです!」
「同意! あの女性社長は完全な独裁者。契約に『いや』と言ったら、ボーナスは即剥奪されます!」
私の目が氷のように冷える。
その義憤に満ちた「宣誓証言」の直下に、隠されてもいない位置情報タグが別の真実を告げていた。そこにははっきりと、ミライメディア本社と表示されている。
隠す気すらない。連中は私のオフィスで、私の会社の無線通信を使い、私を絞首台へと手ずから差し出していた。
