第2章

佐藤結衣視点

P市の高級住宅地にある最上階の豪華マンションのドアの前に立ち、私は震える手でドアベルを押した。

『本当に、私がこれから住む場所なの……?』

ドアが開き、拓也さんが現れた。彼はスーツから着替えて、シンプルな白いワイシャツにダークカラーのスラックス姿だった。冷徹なビジネスエリートの顔は消え、そこには家でくつろぐ男性の魅力があった。

「時間通りか。結構だ」彼は私の使い古されたスーツケースを受け取ると、「入れ」と言った。

彼に続いてマンションに足を踏み入れた私は、言葉を失った。

『何、ここ……』

床から天井までの全面窓からは桜花公園が一望でき、部屋の至るところにモダンでミニマルなインテリア――革張りのソファ、大理石のコーヒーテーブル、そして全ての家電が輝くオープンキッチン。ここにある家具は、どれか一つだけでも私の小さなアパートの家賃より高そうだ。

「これ、全部……あなたのものなんですか?」呆然と尋ねる私に、拓也さんは言った。

「今では君のものだ。少なくとも、一年間はな」

私はごくりと唾を飲んだ。この豪華な生活は、まるでおとぎ話のように現実味がなかった。

「いくつかルールを決めておく必要がある」拓也さんの声が、私を現実に引き戻した。「第一に、互いのプライベートな空間は分ける。主寝室は俺が使い、ゲストルームは君が使え。第二に、来客があるときは、本物の夫婦のように振る舞うこと」

「夫婦のように振る舞うって……具体的には、どういうことですか?」私は緊張しながら尋ねた。

彼の視線が鋭くなる。「人前では親密に、必要なら愛情があるように見せる。だが、二人きりのときは互いに距離を置く」

私は頷きながら、胸に広がる説明のつかない失望感を無視しようと努めた。

「忘れるな、これは一時的なものだ」彼は付け加えた。「一年後、君は金を受け取ってここを出ていく。俺たちはもう二度と会わない」

『もう二度と会わない……』どうしてその言葉は、こんなにも冷たく響くのだろう。

翌朝、私は気だるい体でシャワーを浴びるために起き上がった。アパートの布団の三倍はあろうかという広さのベッドで一晩中寝返りを打ち続けたせいで、頭がずきずきと痛む。

ゲストルームには専用のバスルームがついていなかったので、廊下の先にある共用のバスルームを使わなければならなかった。主寝室ほどプライベートではないにしても、そこもまた信じられないくらい豪華だった。熱いシャワーを浴びた後、私はタオル一枚を体に巻きつけ、着替えのために自分の部屋へ戻ろうとした。拓也さんはまだ寝ているはず――急いで戻ろう。

バスルームのドアを開けて廊下に出た瞬間、私は凍りついた。

すぐ目の前で、主寝室のドアが同時に開いたのだ。シャワーを浴びたばかりの拓也さんが、濡れた髪のまま、ダークカラーのルームパンツ一枚だけを身につけて現れた。筋肉のついた胸板と腹筋が、あらわになっている。

狭い廊下が、急にあり得ないほど窮屈に感じられた。三歩もない距離。互いの体温が伝わってきそうなほど近かった。

視線が絡み合い、空気が凍りついたようだった。

顔が一気に熱くなるのを感じ、私はずり落ちてしまいそうなタオルを必死に握りしめた。拓也さんの視線が、私の濡れた髪から剥き出しの肩、そして長い脚へと滑り落ちていく。その瞳には、何か読み取れない感情が揺らめいていた。

「ご、ごめんなさい、私……」と私は口ごもった。

「いや……俺の方こそ、誰か使ってるか確認すべきだった」彼の声は掠れていた。

二人とも、動けないまま立ち尽くす。狂ったように鳴り響く自分の心臓の音と、肌を焼くような彼の視線を感じた。

やがて、拓也さんは無理やり視線を逸らし、私が通れるように壁に背を押し付けた。

「今後は……もう少し気をつけないとな」いつもより低い声だった。

私は自分の部屋へ逃げ込み、ドアを閉めると、そのまま背中を預けて息を呑んだ。心臓が胸から飛び出しそうなくらい激しく鼓動し、あの電流が走ったような瞬間のせいで全身から力が抜けていく。

『ただの事故よ、結衣。深く考えちゃだめ』

一方、拓也は主寝室に戻ると、ドアを閉めて背中を預け、深く息を吐いた。

「……クソ」

彼はその光景――結衣の濡れた髪、剥き出しの肩、そして狼狽した瞳――を思い出さないように必死で自分に言い聞かせた。彼女がタオルを握りしめる様は、あまりにも無防備で、守ってやりたいという衝動を掻き立てる……。

「しっかりしろ、拓也」彼は自分に言い聞かせた。「ただの男の正常な反応だ。彼女は契約相手に過ぎない。影響されるな」

だが目を閉じると、あのイメージが焼き付いて離れなかった。彼女の体つきのせいではない。彼女の瞳に宿っていた信頼のせいだ。あんな気まずい状況でさえ、彼女の視線には恐怖はなく、ただ羞恥心だけが浮かんでいた。

これは危険だ。取締役会の脅威よりも、ずっと。

石原結衣は、これが全てただの芝居だということを、彼に忘れさせようとしていたからだ。

三日目の朝、私は朝食を作ることにした。

どうせ他にやることもないし、拓也さんはブラックコーヒーだけで朝を済ませてしまうような仕事人間だろう。子供の頃から知世の面倒を見てきた私は、誰かの世話をすることに慣れていた。

拓也さんが主寝室から出てきたとき、オープンキッチン全体が卵とベーコンの香ばしい匂いで満たされていた。

「俺のためにこんなことをする必要はない」彼はキッチンへの入り口に立ち、完璧なネイビーのスーツを着て、出勤の準備を整えていた。

「誰かの世話をするのには慣れてるんです」私は用意した朝食をアイランドキッチンに置いた。「それに、私も食べなきゃいけないし――ただ、一人分多く作っただけです」

拓也さんは席に着き、卵を口にした。彼の表情に驚きが浮かぶ。

「ありがとう……美味いな」彼の口調は、いつもよりずっと優しかった。

「本当ですか?」私は嬉しくなった。「知世はいつも、私が作る目玉焼きが世界一だって言うんです。まあ、嘘かもしれませんけど」

知世のことを口にすると、私の笑みは柔らかくなった。拓也さんはその変化に気づき、彼の瞳に複雑な感情がよぎった。

「彼女の様子は?」と彼が尋ねた。

「手術は来週に決まりました。あなたのお金で……」私は言葉を区切った。「このお金で、あの子は大丈夫です」

拓也さんは黙って静かに私を見ていた。だが、彼が私を観察し、理解しようとしているのが感じられた。

私が密かに彼を研究しているのと同じように。

その日の午後、私がリビングで読書をしていると、突然ドアベルが鳴った。

「まずい」拓也さんが書斎から出てきて、真剣な顔つきになった。「田中さんだ。今来る予定じゃなかったのに」

「田中さん?」

「俺のビジネスパートナーだ」拓也さんは素早く私に近づいた。「いいか、俺たちは愛し合う夫婦だ」

そう言うと、彼は私の腰に腕を回し、ぐいと抱き寄せた。

瞬間、私の世界がぐらりと揺れた。

彼の胸は硬くて温かく、微かにコロンの香りがした。彼の心臓の鼓動と、自分の頬が燃えるように熱くなるのを感じた。

「話を合わせてくれ、結衣」彼は私の耳元で囁いた。その温かい息が、私をぞくっとさせる。

ドアベルが再び鳴った。拓也さんは私を解放し、ドアに応対した。

「田中さん!これはこれは、思いがけないことで」拓也さんの口調は、即座に熱のこもったものに変わった。

白髪交じりの中年男性が部屋に入ってきて、その視線は私の上で少し留まった。

「こちらが新婚の奥様かな?」田中さんは優しく微笑んだ。「実に美しいお嬢さんだ」

「結衣、俺の妻だ」拓也さんは再び私の腰に腕を回した。今度はもっと親密に。「結衣、こちらが田中さんだ」

私は自然に振る舞おうとしたが、腰に置かれた拓也さんの手が、親指でそっと私の肋骨を撫でるので、集中することがほとんど不可能だった。

「君たち二人は本当に愛し合っているんだな」田中さんは感心したように言った。「拓也、結婚は君を変えたようだ。もっと……優しくなった」

拓也さんは私を見下ろし、その瞳の優しさは、これが全て本物だと私に信じ込ませてしまいそうだった。

「彼女が、いろんな意味で俺を変えてくれたんだ」彼は柔らかく言った。

私の心臓は制御不能なほど高鳴った。しっかりして、これはただの演技なのに!

三十分後、田中さんはようやく帰っていった。ドアが閉まった瞬間、拓也さんはすぐに私を解放した。

リビングルームは気まずい沈黙に包まれた。

「あれは……ただの演技だ」彼は言ったが、その声は不自然に聞こえた。

「わかってます」私は自分の声が落ち着いているように聞こえるよう努めた。「私たち、うまくやりましたね」

それなのに、どうして私の心臓はまだこんなにドキドキしているのだろう?

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