第1章 花嫁
純白のウェディングドレスを纏った花嫁が、ブーケを抱えて神父の前に立っていた。
ステンドグラス越しの陽射しが頬を照らす。だが、その光は少しも彼女を温めない。
この結婚式は、どこかおかしい。教会のどこにも、新郎の姿がないのだ。
花嫁の隣にあるのは椅子が一脚。そこに置かれているのは、スマートフォン一台。
チャペルは水を打ったように静まり返っていた。招待客たちは声を潜め、誰も大きく話そうとしない。スマートフォンの向こうから流れてくる声を、かき消してしまうのが怖いのだ。
神父が厳粛な面持ちで花嫁を見つめ、問いかける。
「荻原さん。あなたは冴島さんを夫とし、妻となることを誓いますか?」
荻原和夏の表情は凪いだまま。だが参列席へ視線を滑らせた瞬間、瞳の奥にひと筋の憎悪が宿った。
「……誓います」
見られた三人が、羞恥と後ろめたさを隠すように視線を落とす。
(荻原征佑、原村美保子、荻原美菜……今日わたしが受けた辱め、簡単に終わらせると思わないで)
荻原征佑は実の父。原村美保子は継母。荻原美菜は義妹。
荻原和夏は、怪異じみた結婚式に立たされていた。理由はひとつ――家が金を欲しがったから。そして自分が差し出された生贄だったから。
参列者たちは小声でささやき合う。
「冴島家の伝説の若様に会えるって話じゃなかった? なんでスマホだけなのよ。顔、見たかったのに」
「すっごいブサイクらしいよ。女が誰も嫁ぎたがらないって。荻原征佑の会社、倒産寸前で投資が欲しくて必死なんだろ」
「冴島家も名門のくせに、新郎も親も来ないとか……執事だけ寄越すなんて、嫁のこと気に入ってないの丸わかり」
「かわいそう。娘が二人いるのに、こっちだけブサイクに押しつけられるとか、親が露骨に偏ってる」
声は小さい。だがチャペルが静かすぎた。荻原和夏の耳にも、断片が刺さる。
(母さん、天国で見てる? あなたの娘は嘲笑われてる。これが、あなたが愛した男の末路よ)
荻原和夏は荻原征佑へ視線を戻した。
軽蔑が、深く沈んだ瞳に滲む。
荻原征佑はまた目を逸らした。膝の上の拳をぎゅっと握り、周囲の嘲笑を聞くたび、席を立って逃げ出したい衝動に駆られている。
原村美保子が堪えきれず立ち上がり、怒鳴った。
「黙りなさい! 和夏が冴島家に嫁ぐのは幸せになるためよ! 冴島零の奥様になることがどれほど尊いか、あなたたちに分かる!?」
参列者が慌てて口を閉ざす。
荻原和夏は白目を剥き、内心で冷笑した。
(幸せ? その福とやら、あんたと娘で受け取れば? 結婚式当日に新郎も家族も来ないのに。嫁いだ先で、どんな扱いをされるか想像するだけで笑える)
荻原征佑は顔色を変え、原村美保子の腕を引いて低声で罵る。
「何やってる。冴島零の誓約がまだだろうが。このタイミングで騒いで式を邪魔したいのか、面倒を増やす気か」
原村美保子ははっとして口元を押さえ、椅子のスマートフォンを見る。
そこからは、何の音もしない。
冴島零が怒った――そう思ったのだろう。原村美保子の顔が青ざめていく。
荻原征佑、原村美保子、荻原美菜が、固唾を呑んでスマートフォンを見つめる。
そして。
「……誓う。契約書を渡して、署名させろ」
それきり、通話は途切れた。画面には〈通話終了〉の表示。
冴島家は地元随一の名門。百年の歴史を持ち、幾つもの財団を抱え、投資先は世界を代表する大企業ばかり。
だが、そんな冴島家にも世間に知られた傷がある。
後継者であり長男の冴島零が――醜い容貌だと言われ、滅多に人前に出ないこと。
さらに、女性に触れられないほど身体に問題がある、という噂まであった。だから冴島家は、表向き後継者の話を避けてきた。
式のあいだ壁際に控えていた執事、福生が近づいてくる。手には一通の書類。
「荻原さま。こちらへ署名を。これであなたは冴島零さまの妻となり、荻原家は冴島家の投資を得ます。さらに、あなたの弟君には最良の医療が提供されます」
荻原和夏は書類を見つめ、瞳に濃い憎しみを燃やした。
(この紙切れのために、わたしの尊厳は踏みにじられた。あの三人は、早く署名しろと待ち構えてる)
「荻原和夏、何をぐずぐずしてる。さっさと署名しろ」
荻原征佑が急かす。原村美保子と荻原美菜も並び、目を釘づけにして書類を追う。
荻原和夏はペンを取り――署名しようとして、ふっと口角を上げた。
そして書類を福生へ戻す。
「福生さん。少しだけ……家族と二人きりで話す時間をいただけますか。最後に言っておきたいことがあるんです」
福生はわずかに眉を寄せたが、頷いた。
「承知しました。10分後に参ります」
福生がチャペルを出ると、招待客たちもぞろぞろと離れていく。
ほどなく、残ったのは荻原和夏の家族だけ。
「で、何だ。話があるなら手短にな。会社の用事が山ほどある」
荻原征佑は眉をひそめ、荻原和夏を見下ろす。
その目は娘を見る目ではない。躾の悪い犬でも見るような冷たさだ。
「そうよ、お姉ちゃん。みんなの時間を無駄にしないで。あたし午後はデートなの」
荻原美菜は腕時計に視線を落とし、苛立った声で言った。年は同じくらいで美人だが、原村美保子譲りの艶めいた派手さがある。
荻原和夏はその腕時計を見て、胸がきゅっと痛んだ。
今年、荻原征佑が荻原美菜に贈った誕生日プレゼント。
母が亡くなってから、荻原和夏が贈り物をもらったことは一度もない。
荻原美菜は自慢げに腕をひらひらさせ、荻原和夏の瞳の痛みなど意に介さない。
――かつて荻原征佑は、荻原和夏の母、葉山莉子に誓った。永遠に愛すると。
二人で会社を切り盛りし、葉山莉子の才覚で企業価値は上がり続けた。だが過労が祟り、運転中に事故に遭った。
荻原和夏が母の重傷に打ちのめされている間に、荻原征佑は会社の権限を奪い取ったうえで、一組の母娘を家へ連れ込んだ。
原村美保子と荻原美菜――愛人と私生児。
その日、荻原和夏は父の正体を知った。
獣だ。荻原美菜の年齢を見れば、結婚当初から葉山莉子を騙し続けていたと分かる。
荻原征佑は荻原和夏に見つめられ、わずかな罪悪感に刺されたのか、虚勢を張って脅した。
「忘れるな。お前の弟の病を治せる病院は全国で冴島家だけだ。署名しないなら、病院から追い出されて死ぬぞ」
「それはどうも。荻原相馬に生きる権利を恵んでくださって、ありがとう……父親さま」
荻原和夏は皮肉たっぷりに言った。
荻原相馬は、母が孤児院から引き取った子だ。葉山莉子が可哀想だからと養子にした。
しかし母が亡くなると、この家は彼を追い出し、凍え死にしかけた。
荻原和夏が連れ戻したのに――今は彼が、荻原征佑たちの脅しの切り札になっている。
荻原和夏は息を吸い、淡く笑った。
「父さま、継母さま、妹……わたしに名門へ嫁ぐ機会をくださって感謝します。だから、わたしからもお礼を」
「礼なんていい。お前はもう十分――な、何をする気だ!?」
荻原和夏が脇の収納から、銃を取り出した。
三人の顔が真っ青になる。
「結婚式に花火がないなんて味気ないでしょう? これが、わたしの仕返しです」
荻原和夏は異様な笑みを浮かべ、銃のボルトを引いた――
