第2章 傲慢な奥様
執事の福生は、チャペルの内側から響いた銃声にびくりと肩を跳ねさせた。
「……まさか、発砲事件?」
福生はすぐさま扉の前へ駆け、勢いよく押し開ける。だが、飛び込んできた光景に言葉を失った。
荻原和夏が銃を構え、家族に向けて引き金を引いている。
――ただし飛び出したのは銃弾ではない。色とりどりの塗料を詰めたペイント弾だった。
「何をしてるの!? 今すぐやめなさい!」
「やだっ、服が……! デートが台無し! 荻原和夏、殺してやる!」
「和夏! 父親として命じる、直ちにやめろ!」
荻原征佑、原村美保子、荻原美菜は頭を抱え、チャペルの中を右へ左へ逃げ回る。死ぬことはないが、当たれば容赦なく痛い。
「父さん、おばさん、美菜……何を言ってるの? わたしたち家族でしょう? おめでたい日なんだから、もっと盛り上げなきゃ!」
荻原和夏の顔は歪んだ笑みに染まり、弾が尽きるまで撃ち続けた。
荻原征佑がようやく息をついた、その直後――銃身が勢いよく彼の頭へ叩きつけられる。
「さあ、父さん。久しぶりに野球しようよ。こんなハッピーな日に、みんなで遊ばなきゃね」
荻原和夏は銃を逆手に持ち、銃床をバット代わりにして三人を追い回した。
「このイカれ女! やめろ!」
荻原征佑は隙を突いて銃を奪い取り、手を振り上げる。次の瞬間には平手が和夏の頬へ落ちる――はずだった。
和夏は咄嗟に身を引きかけ、扉の外に立つ福生の姿に気づくや否や、ぴたりと止まる。むしろ、わざと頬を差し出した。
「やめなさい!」
福生が駆け込み、荻原征佑の手首を掴む。
「福生さん、何の真似だ。俺が娘を躾けるだけだぞ!」
怒鳴る荻原征佑に、福生は冷ややかに視線を返した。
「荻原征佑さん。念のため申し上げますが、荻原和夏さまはすでに当家社長の妻です。このあと奥様にお目通りします。頬に手形がついたままお会いするなど、無礼に当たります」
荻原征佑は、熱が引いたように一瞬で冷静を取り戻した。
和夏はというと、得意げに父を見上げている。
「父さん、どうしたの? 早く躾けてよ。平手が物足りないなら、銃身で頭でも殴って。血が出るくらいがちょうどいいかも」
和夏は首を突き出し、荻原征佑の目の前へ差し出した。
荻原征佑は拳を握り締め、歯ぎしりの音を立てる。それでも手は出せなかった。
「……お嬢様というより、ならず者ですね」
福生が眉をひそめる。
「荻原和夏さま。今のお姿は、少々よろしくありません」
「結婚式って、お祭りみたいなものでしょ。多少派手でもいいじゃない」
荻原和夏は肩をすくめた。福生が立ち塞がる以上、あの三人をこれ以上叩きのめすわけにもいかない。
福生は全身塗料まみれの三人を一目見て、ため息をつく。
「それでは。荻原和夏さまを奥様のもとへお連れします。皆さまはお帰りになり、お着替えを」
そう告げると、福生は荻原征佑たちを顧みず、荻原和夏を連れてチャペルを出た。
和夏は去り際、三人に向かって舌を出してみせる。
「……ムカつく! なんであんな女がいるのよ!」
「仕返ししてやる! 今日の辱め、全部返してやる!」
荻原美菜が甲高く叫ぶ。
「二人とも黙れ!」
荻原征佑が妻と娘を睨みつけた。
「荻原和夏の今の立場を忘れるな。下手に刺激したら、あの女は冴島家の屋敷に火でもつけかねん。巻き添えを食うのはこっちだ」
「そんなの、弟が要らなくなったらの話でしょ」
荻原美菜が鼻で笑う。
荻原征佑は冷たく言い放った。
「馬鹿が。あの子がずっと無事でいられると祈れ。もし何かあれば、荻原和夏は本物の狂気になる」
その眼差しに射抜かれ、荻原美菜は押し黙る。原村美保子も、夫の機嫌が最悪なのを察して口を閉ざした。
「……行くぞ。さっさと帰って洗い流せ」
荻原征佑は冷えた顔のままチャペルを出る。
原村美保子と荻原美菜がぴたりと後に続き、知り合いの視線を避けるように車へ滑り込み、そのまま家へと逃げ帰った。
――一方。
荻原和夏は福生に連れられ、冴島家の荘園へ向かった。
冴島家の敷地は広大で、門から邸宅まで車で数分かかる。
車が止まり、荻原和夏は助手席から降りた。純白のウェディングドレス姿のまま。
(出迎えもいない。冴島零に地位がないのか、それとも、わたしにないのか)
胸の内で毒づいた、そのとき。
犬を抱いた貴婦人が玄関から現れた。背後には数人のメイド。
紫のルームウェアを纏い、階段の上でチワワの頭を撫でながら、荻原和夏を値踏みするように見下ろしている。
「奥様。荻原和夏さまをお連れしました」
福生が一礼する。
(冴島零の母親……冴島羽美。手入れが行き届いてる。こんな美人が、あの噂の醜い息子を? 父親はどれだけ……)
荻原和夏は内心で悪態をつきつつ、丁寧に頭を下げた。
「はじめまして。荻原和夏です。よろしくお願いいたします」
冴島羽美は腕の中のチワワに何か囁く。犬は喉の奥で低く唸り、牽制するように鼻を鳴らした。
冴島羽美は和夏を上から下まで眺め、体をわずかに引く。犬の背を撫でる手つきが、せわしなくなる。
「あなたの家は服も買えないの? 乞食みたいじゃない」
荻原和夏はドレスに視線を落とした。チャペルで暴れたせいで布地は裂け、髪も乱れている。確かにみすぼらしい。
「家族とお別れをして……皆、感情的になってしまって。抱き合ったときにどこかに引っかけたのだと思います」
とっさの嘘。荻原和夏は福生へ視線で訴える。
(お願い、合わせて)
福生は一瞬迷い、それから頷いた。
「はい。その通りでございます」
冴島羽美の嫌悪は隠しようもなく、犬を撫でる手が強くなる。チワワが不思議そうに顔を上げた。
「言っておくけど、ここではここの規則に従いなさい。第一。汚れた服で屋敷に入ることは禁止」
冴島羽美は背後のメイドへ命じる。
「メリー。着替えを。車で着替えさせてから入れなさい」
年配のメイドが頭を下げ、屋敷の中へ戻っていく。
(この家で、まともに息ができる気がしない。犬にまで嫌われるなんて)
荻原和夏はそう思いながら、チワワの後ろ脚に薄い赤い斑点があるのを見つけた。
そして――冴島羽美の指が、そこへ触れようとしている。
(来る)
荻原和夏は口角をわずかに吊り上げ、心の中で数える。
(3、2、1……)
次の瞬間。
冴島羽美が甲高い悲鳴を上げた。
