第3章 気まずい立場
冴島羽美が唐突に上げた悲鳴に、その場の全員がびくりと肩を跳ねた。
「痛っ……痛いっ! 離して、早く口を放しなさい!」
チワワが冴島羽美の指に食らいつき、凄まじい力で噛み締めている。
冴島羽美は必死に犬の頭を叩いた。だが叩けば叩くほど、歯は深く食い込み、いっこうに口を放す気配がない。
「やめてください! それじゃ指が駄目になります!」
荻原和夏が駆け寄り、片手でチワワの目元を覆い、もう片方で鼻先をつまむ。
するとチワワはあっさり口を開き、冴島羽美はようやく指を引き抜いた。歯形と滲む血を見た途端、痛みに目尻が潤む。
「福生さん、救急箱を!」
荻原和夏の声に、執事の福生がはっとして駆け出した。すぐに救急箱を抱えて戻ってくる。
「病院で狂犬病の予防接種を受けられますか」
「この子がずっと室内で適切に飼育されているなら、可能性は低いです。必要ないと思います」
荻原和夏はそう答えながら、チワワの頭をそっと撫でた。
指の処置を受けつつ、冴島羽美は荻原和夏とチワワを見比べ、眉をひそめる。
「……どういうこと? 私には噛みついたのに、あなたには噛まない」
「皮膚炎かもしれません」
荻原和夏はチワワの脚にある淡い赤みを指した。
「跡が新しいです。暑さで悪化したのかも。直射日光を避けて、軟膏を塗れば落ち着きます」
冴島羽美は、荻原和夏の手つきをじっと見つめ、眉間の皺を深くした。
そして背後のメイドに目配せする。メイドは頷き、荻原和夏の腕の中からチワワを引き取った。
チワワが離れた瞬間、冴島羽美の眉がわずかにほどける。
「……あなた、獣医なの?」
顎を少し持ち上げ、値踏みするような視線。
荻原和夏は小さく頷いた。
「はい。母が小動物好きで、私も好きで。獣医を目指しました。まだ卒業前ですが、病院に――」
「仕事の話はどうでもいいわ」
冴島羽美が冷たく遮る。
「外に、私の息子の妻が獣医だと知られたら、家の体面に関わる」
(獣医が何よ。自分で稼いで生きるのが、そんなに恥なの?)
荻原和夏は奥歯を噛み締めた。だが不満を顔に出すわけにはいかない。
「福生さん。外から本物の獣医を呼んで。スウィートを診せるの」
命じられ、福生は一礼して立ち去った。
(信用ゼロってわけね。噛まれて当然よ)
毒づきながらも、胸の奥に不安が溜まっていく。こんな女に育てられた息子が、まともなはずがない。
「お召し替えを」
年配の女中、メリーが衣服を抱えてやって来た。
冴島羽美は荻原和夏を見下ろし、当然のように言う。
「着替えなさい。あとでメリーが部屋へ案内して、ここでの規則を教えるわ」
「承知しました。すぐに」
荻原和夏は礼儀正しい笑みを貼りつけ、服を受け取って車へ入った。
着替えて降りると、冴島羽美もメイドたちも姿を消していた。暑さに耐えられず、屋敷へ戻ったのだろう。玄関前に残っているのはメリーだけ。
「荻原さま、こちらへ。ウェディングドレスは処分いたします。お部屋へご案内します」
メリーは顎をわずかに上げ、抑揚のない声で告げると、すぐ踵を返して屋敷の中へ歩き出した。
荻原和夏は後を追いながら周囲を見回す。
内装は豪奢で、濃い紫のカーテンが重々しく揺れている。まるで貴族の宮殿に迷い込んだみたいだ。
だが、女中たちは黒白の制服でうつむき、黙々と働いていた。声ひとつ立てず、まるで人形みたい。
「こちらが、お部屋です」
三階の一室。メリーが扉を開けた瞬間、中からメイドが二人、慌てた様子で飛び出してきた。
「メリーさま、荻原さまのお部屋の清掃を――」
二人とも怯えたように視線を落としている。
「いい。下がりなさい」
淡々と言われ、二人は逃げるように去った。
荻原和夏は気にも留めず部屋へ入ろうとした。――そのとき、耳元に小さな囁きが刺さる。
「冴島さまの奥さまだって。綺麗だけど、なんか運が悪そう」
「ね。アイリスにまで不運が移った。罰、どうなるんだろ」
荻原和夏は眉を寄せ、メリーを見る。
「アイリスって、誰ですか」
「奥さまの愛犬、スウィートのお世話係です」
胸の奥がかっと熱くなる。荻原和夏は堪えきれず声を荒げた。
「どういう意味です? 厄を持ち込んだのは私って? 世話係がきちんと犬を管理してなかっただけでしょう。私に関係――」
「次からは『スウィート』とお呼びください。奥さまは犬という呼び方を好まれません」
メリーの眼差しは静かで、底の方が冷えている。
荻原和夏は拳を握り締めた。
「陰で私を噂してるのに、注意しないんですか」
「私は聞いておりません。なお、この屋敷で大声はお慎みください。奥さまがお嫌いです」
荻原和夏は息を呑んだ。
相手の瞳の奥に、冴島羽美と同じ色がある気がして――言葉を飲み込む。
「……分かりました。気をつけます」
声を落とし、無理に笑って部屋へ入った。
室内もまた、豪奢で甘ったるいほど贅沢な趣味に満ちている。けれど心はぐしゃぐしゃで、美しさを味わう余裕など残っていなかった。
「奥さまのティータイムが近いので、私は下へ。終わり次第、規則をお伝えします」
メリーはそう言い残し、扉すら閉めずに去った。
荻原和夏は扉を蹴り飛ばしたい衝動に駆られた。だが厳しい規則と、入院中の弟の顔が脳裏をよぎる。
静かに扉を閉め、深呼吸した。
ドレッサーには高級化粧品がずらりと並んでいる。女なら心が弾むはず――なのに。
荻原和夏はすぐ眉をひそめた。どれも開封され、使われた形跡がある。
さっき慌てていたメイド二人。おそらく、勝手に手を出したのだろう。
「……この家での私の立場、スウィート以下ってことね」
自嘲が漏れる。訴えたところで、誰も聞く耳など持たない。
そのとき、スマートフォンが鳴った。
親友の柚木真唯からのメッセージだ。今夜の集まりへの誘い――そして、白石京明も来ると書いてある。
白石京明の名を見た瞬間、荻原和夏の表情が、ほんのわずか揺れた。
