第4章 対面
白石京明は、荻原和夏の恋人だった――今は、おそらく元恋人。
雰囲気のある男の子で、和夏はかつて、夢中になって追いかけた。指は長くしなやかで、鍵盤の上を滑る姿が、とびきり格好よかった。
和夏はスマートフォンのアルバムを開く。
そこには、白石京明とのツーショットが残っていた。遊園地へ行った日。ライブを一緒に観た夜。クリスマスにアイスを食べながら、ツリーに向かって願いごとをした写真。
『いつか必ず、世界で一番きれいなピアノをあなたに贈る』
『じゃあ俺は、そのピアノでソロのコンサートを開いて、世界に俺たちの愛を宣言する』
思い出が胸を刺し、涙がこぼれた。
けれど白石京明は大富豪じゃない。今の和夏を救える相手ではない。
「……ごめん」
かすれた声で呟き、白石京明に関わる写真を、すべて削除した。
涙を拭い、柚木真唯へメッセージを送る。
[今夜の集まり、行くね]
気持ちを整えてから、和夏は階段を下りた。
規則にうるさい家だ。外出など許されないと思っていたのに、冴島羽美はまるで興味がないらしい。
「犬の散歩に行くわ。早めに帰りなさい。外泊なんてしたら、うちの名誉に響くから」
羽美は和夏を一瞥しただけで、手をひらひらと振った。鬱陶しい虫でも追い払うみたいに。
和夏は反射的に拳を握りしめる。けれど表情だけは、作り笑いで固めた。
「承知しました。早めに戻ります」
背を向けて玄関へ向かう。足取りは、知らず速くなっていった。
冴島家の荘園を出た瞬間、和夏は長く息を吐く。
「自分たちを何様だと思ってるの……玉座を守るドラゴン?」
荘園の方角へ中指を立て、タクシーを拾った。向かう先は、親友と約束した場所。
エハトンホテル。市内でも指折りの高級ホテルで、レストランも客室も、若者向けの遊興施設も揃っている。
エレベーターで指定のフロアへ。
扉が開いた途端、柚木真唯が突進してきて、勢いよく抱きついてきた。
「ちょっと見てよ! 本日の花嫁さま! ねえ、新郎さんは一緒じゃないの?」
真唯は和夏の背後を覗き込む。だが、エレベーターの中は空っぽだ。
「真唯、からかわないで。事情、知ってるでしょ」
肩をすくめた、その瞬間。和夏の笑みがぴたりと固まった。
白石京明。
白いカジュアルシャツ姿で廊下の壁に寄りかかり、複雑な目でこちらを見ていた。
彼はゆっくり近づき、いつも通りの穏やかな声で言う。
「来ないと思ってた。せいぜいメッセージだけかと」
和夏は気まずく視線を落とす。
別れを告げたのは、たった一通のメッセージだけだった。電話も取れなかった。
「ほらほら。せっかく二人で話せるようにしてあげたんだから。今日は、みんなで楽しくね」
真唯は二人の間へ割って入り、和夏と京明の手を引いて個室へ押し込んだ。
部屋には同級生たちが揃っていて、和夏の到着に声が上がる。
そして話題はすぐ、冴島家へ雪崩れ込んだ。
「和夏、冴島零に嫁いだんだって? もう身分が違うよね」
「今度、仕事紹介してよ。うちら仲いいじゃん?」
「冴島家ってどう? 荘園とかすごいんでしょ。王族みたいに使用人がぞろぞろいる感じ?」
羨望の視線が刺さる。
和夏はぎこちなく笑って、当たり障りのない返事を並べた。
「荘園はあるけど……王族みたいな暮らしってほどじゃないよ」
――違う。あそこは傲慢な怪物の巣だ。息をするのも苦しい。
そう思ったとき、眼鏡の男が空気を切り裂くように言った。
「和夏さ。噂で聞いたんだけど……金のために白石京明と別れて、冴島零に嫁いだって本当?」
個室が、すんと静まり返る。
白石京明はビール缶のプルタブに指をかけたまま、動きを止めた。
和夏は笑みを消し、淡々と答える。
「本当。私はお金のために別れた。お金が必要だった」
京明の手に力が入る。缶が、ぎゅっと歪んだ。
気まずい沈黙に、真唯が慌てて割って入る。
「やめやめ! 今日は集まって飲んで楽しむ日! ほら和夏、これ!」
差し出されたグラスを和夏はひと口含み、話題を流そうとした。
けれど京明が言った。
「金が欲しいなら……将来、俺が金を手にしたら。君は離婚して、俺と結婚してくれる?」
真唯は笑顔のまま、目の奥に一瞬だけ嫉妬を走らせた。和夏は気づかず、呆然とする。
京明は沈黙を答えと受け取ったのか、喉を鳴らしてビールを飲み干し、缶を潰してテーブルに置いた。
真唯が声を張り上げる。
「今日は和夏の結婚の日! さ、花嫁に乾杯しよ!」
「乾杯!」
「おめでとう!」
次々にグラスが上がる。和夏も空のグラスを持ち上げ、ぎこちなく笑った。
――和夏は京明に言えなかった。弟の病は、金だけじゃ解決しない。冴島家が握る医療資源が必要で、特殊な薬も、冴島家の病院でしか手に入らない。
(嫌われたままでいい。憎しみのほうが、愛より手放しやすい)
そう思った瞬間、視界がふらりと揺れた。
悲しみのせいだと片づける。けれど体の熱が、じわじわと上がっていく。
――同じ頃。エハトンホテルの正面に高級車が停まり、鍛え上げられた体躯の男が降り立った。冴島零だった。
「冴島零。お前に会うのも一苦労だな」
ピンクのスーツに、オールバックの青年が現れる。新田達也。
腕には妖艶な女を二人ぶら下げていたが、零の姿を見た途端、女たちを押しのけて抱きつこうとする。だが零は、すっと身を引いた。
「女に触れた身体で近づくな」
淡々としているのに、不快だけが滲む声。
「まだ治ってないのかよ。最高の医療チームでも? かわいそ」
達也は肩をすくめ、女たちに去るよう手を振った。
「行こう。お前の欲しいものは上だ。……今回の帰国、家に言ってないのか?」
「急に予定を変えた。誰にも知らせていない……」
