第1章
セレステは、再び悪夢を見ていた。妹が自分をかばって銃弾に倒れた、あの日の夢を。
エミリの白いワンピースは鮮血で赤く染まり、彼女の身体は羽根のように軽く、セレステの腕の中に崩れ落ちていた。
「お姉ちゃん……約束して……ちゃんと、生きて……」
エミリの声は今にも消え入りそうで、蒼白な唇の端から血がとめどなく溢れ出す。
「代わりに……ルシアンのこと……それからパパとママのことも……愛してあげて……」
「ばかなこと言わないで」
セレステは彼女をきつく抱きしめ、息もできないほど泣きじゃくる。
「私が欲しいのは、あなただけよ……生きてさえいてくれれば……」
ルシアンがエミリにプロポーズしたと聞いた瞬間、家を飛び出した自分を、セレステは心底呪った。
あのとき、感情から逃げようとしなければ。
エミリが慌てて港まで探しに来ることもなかった。
マフィア同士の銃撃戦に巻き込まれることだって、決して――。
全部、自分のせいだ。
エミリは引きつるような笑みを浮かべ、弱々しい息の合間に言葉を紡ぐ。
「お姉ちゃん……知ってるよ……本当はずっと……ルシアンのこと……好きだったんでしょう……」
「違う! そんなことない!」
セレステは悲鳴のような声で否定した。そう叫べば、この胸を焼く罪悪感まで消せるような気がして。
けれど、エミリの血は、止まるどころか勢いを増していく。セレステは全身を震わせた。怖くてたまらなかった。
「救急車はもうすぐ来るわ。だからお願い、もう少しだけ……私はまだ、あなたがルシアンと結婚するところを見てないのよ……」
「お姉ちゃん、約束して……」
エミリは顔に触れようと、か細い手を持ち上げる。けれど、その手は途中で力尽き、ぱたりと落ちた。
星をたくさん湛えていたはずの瞳から、完全に光が消える。
「エミリ! 約束する! 何だってするから、お願いだから――!」
セレステの絶叫とともに、夢が破れた。
心臓を鷲掴みにされ、えぐられるような痛みが、吐き気となって込み上げてくる。
寝巻きは冷や汗でぐっしょりと濡れ、セレステはベッドの上で身体を丸め込んだ。シーツを握りしめる手の関節は、血の気をなくして真っ白になっている。
――また、同じ夢。
この五年間、彼女はずっと、同じ悪夢に囚われ続けていた。
ふらつきながら起き上がり、薬棚へと向かう。引き出しの中には、薬瓶が几帳面に並んでいた。
エミリを失ってからというもの、セレステは重度のうつ病を患っていた。満足に眠れた夜など、一日もない。
抗うつ薬を二錠飲み込み、さらに睡眠薬を三錠、手のひらに出す。
錠剤が喉につかえ、苦味がじわりと広がった。
「セレステ先生?」
寝室のドアのところに、助手のリナが立っていた。心配そうな眼差しで。
昨日、セレステは診察中に気を失い、そのまま診療室で倒れた。心配したリナは、彼女のアパートまで付き添ってきてくれている。
「また悪い夢を見たんですね?」
リナが静かに問いかける。
セレステはこくりと頷き、掠れた声で尋ねた。
「私、どれくらい眠ってた?」
「五分くらいです」
リナは目を伏せる。
「昨日より、また短くなりました」
セレステは、自嘲するように口元を歪めた。
――症状が悪化しているのかもしれない。
でも、それでいいのだと思う。病が重くなればなるほど、夢の中でエミリに会える。生きていて、笑っているエミリに。
「睡眠薬は減らさないと。本当に危険なんですよ、この飲み合わせは……」
リナは必死に訴えかける。
「構わないわ」
セレステは窓の外、セントラルパークの夜景を見つめた。その瞳には、何の光も宿っていない。
「本当は、私はあのとき死ぬべきだったのよ」
「そんなこと言わないでください!」
リナの目に、あっという間に涙が溜まる。
かつてのセレステは、ニューヨークで最も注目されていた精神科医だった。自信に満ち、優しく、生命力に溢れ、数え切れない患者たちを救い出してきた。けれど、自分自身だけは救えなかった。
今の彼女は、骨と皮ばかりに痩せこけ、眼窩は落ちくぼみ、薬でどうにか意識を保っているだけの、生気の抜けた抜け殻に成り果てている。
あの悲劇は、エミリという命だけでなく、セレステという人間の魂までも奪い去ってしまった。
リナは躊躇いがちに切り出した。
「ニュースで……ルシアンさん、明日ニューヨークに戻るって……」
その名を聞いた瞬間、セレステの薬瓶を握る手が、わずかに強張った。だが声は、氷のように平坦だった。
「私には、何も言ってこなかったわ」
マフィアのドン、ルシアン・ヴィトリの動向は、世界中が注目している。その妻だけが、彼の居場所を知らない。
「きっと……急に決まったんですよ」
リナはどうにか慰めようとするが、
「どうでもいい」
セレステは小さく首を振った。
「戻ってきたとしても、私に会いには来ない」
リナが部屋を出ていくと、セレステは窓辺へと歩み寄った。
セントラルパークを臨むこの最上階のペントハウスは、生前のエミリが一番憧れていた場所だ。
「ルシアンと一緒に、あそこでニューヨークの夜景が見たい」と、無邪気に笑っていた。
だからこそ、セレステはすべての貯蓄をはたいて、この部屋を買った。エミリとルシアンの新居にするつもりで。
音もなく、涙が頬を伝う。
――エミリ、見える?
お姉ちゃん、ようやくあなたをセントラルパークに連れてきたわよ。
でも、ごめんね。
お姉ちゃんには、ルシアンを連れてくる力がなかった。あなたが夢見たこの景色を、一緒に見せてあげることができなかった。
お姉ちゃんは、あなたに会いたくてたまらない。
***
翌朝、セレステは市場へ出かけた。
新鮮な白トリュフ、ブラッドオレンジ、ローズマリー――どれも、ルシアンの好物だ。
彼がここで食事をすることはないと、わかっている。それでも、彼女は腕を振るう。
料理は、エミリの一番の趣味だった。
妹は新しいレシピを見つけるといつもセレステを味見役にし、「おいしい」と言ってもらえると、嬉しそうにもう一人分作ってルシアンに届けていた。
そうしているうちに、セレステはルシアンの好みを、すべて覚えてしまった。
ローズマリーのフォカッチャに、ブラッドオレンジとオリーブオイルのサラダ。
食卓を丁寧に整え終えると、椅子に腰を下ろし、ただ静かに待つ。
いつの間にか、テーブルに突っ伏したまま、意識が遠のいていた。
――扉の開く音で、彼女ははっと目を覚ました。
玄関に、ルシアンが立っていた。
ドア枠に届きそうなほど背の高いその身体。濃いグレーのコートは前を開け放ち、シャツの第一ボタンは外れている。鎖骨に刻まれた鷹のタトゥーが覗いた。
全身から酒の匂いがし、ダークブラウンの髪は無造作に乱れ、その目は、疲れと麻痺したような無表情さで濁っている。
セレステは一言も発さず、キッチンへ向かい、温めておいた迎え酒用のスープを持ってきた。
そっと、彼の前のローテーブルに置く。
ルシアンがゆっくりと首をめぐらせ、彼女の顔を見た。
その瞳に、一瞬で憎悪が噴き上がる。
彼は乱暴に腕を振り払った。
ボウルが跳ね飛び、熱いスープがセレステの身体にかかる。腕には瞬く間に赤い腫れが広がり、水ぶくれが浮かんだ。
「やめろよ、セレステ。その芝居がかった優しさ、反吐が出る」
ルシアンは彼女を睨み付け、微塵の悔いも見せない。そこにあるのは、底なしの憎しみだけ。
「どうして生き残ったのがお前なんだ? どうして彼女じゃなかった? いつまでのうのうと生きている?」
セレステは唇を噛みしめた。
泣きもしない。痛いとも言わない。
ただ黙って、布巾を取りに行き、床に膝をついて破片を片付け始める。
床に散った陶器の破片が、指先を鋭く裂いた。赤い血がじわりと滲む。
「っ……」
思わず漏れた息を、ルシアンの手が遮った。
彼は彼女の手首を掴み、骨がきしむほどの力で締め上げる。
そのまま乱暴に引き起こし、今度は逆に床へ叩きつけた。
「その程度の傷で音を上げるのか?」
血走った目で彼女の胸ぐらを掴み、狂人じみた声音で怒鳴る。
「エミリは、お前の代わりに命を投げ出したんだぞ! どれだけ血を流したか、見てなかったのか!」
セレステは伏せた睫毛の影で、息をすることさえ苦しいほど胸を締め付けられていた。
――あの日の絶望を、一番よく知っているのは、自分だ。
毎日、考えている。
どうして自分が死ななかったのか。
どうして、あの日撃ち抜かれたのが彼女ではなく、自分ではなかったのか――。
シャツの布が裂ける音とともに、現実が一気に手荒な方向へ転がり始めた。
「どうして平然と、彼女のすべてを奪えるんだ?」
ルシアンの指が、彼女の衣服を乱暴に引き裂く。
「彼女のアパートも、彼女の夢も、そして――彼女の男まで」
「違う……私は……」
か細い声で否定しかけた言葉は、彼の怒号にかき消される。
「違わない!」
「家出だって、わざとだろう? お前はわかってた。エミリが必ず探しに来るって。全部計算済みだったんだ。彼女に死んでもらって、お前が彼女の場所に座る……そうだろう!」
「違う、違う……」
セレステは首を振り、涙を零した。
けれど、彼の耳には届かない。
その夜、彼は一片の情けもなく、彼女の身体を貫いた。
全身に走る痛みは、もはや慣れたものだった。心の中の痛みに比べれば、取るに足りない。
セレステはぎゅっと目を閉じ、ただ彼の怒りと憎悪を受け入れた。
――エミリ、ごめんね。
私、ルシアンのことをちゃんと支えてあげられなかった。
また怒らせちゃった。全部、私のせい。
私は罪人なんだ。
すべてが終わると、ルシアンは黙って衣服を整え、セレステを一瞥することもなく背を向けた。
「お前の顔が、彼女に似ていなかったら……触れることすら、汚らわしい」
吐き捨てるようにそれだけ言い残し、ドアを乱暴に閉めて出て行く。
セレステは冷たい床の上で身体を丸め、震えていた。
病という名の黒い手が、心臓をわし掴みにして離さない。
締め付けはどんどん強くなり、息が詰まる。視界の端が暗く染まる。
――また、死にたい。
何度、そう思ったかわからない。
実際に、手首に刃を当てたこともある。けれど、そのたびに誰かに見つかり、病院に運ばれた。
「この毒婦め。お前みたいな女に、死ぬ資格なんてない」
ルシアンの、あの冷たい声が耳の奥で木霊する。
彼の言うとおりだ。
自分は、取り返しのつかない罪を犯した。エミリに会う資格も、赦しを請う資格もない。
だからセレステは、もう自殺をしなかった。
どれほど心も身体もズタズタになろうとも、ひたすら生き続けると決めた。
――エミリが、生きていてほしいと願ったから。
けれど、こんな日々を、あとどれほど耐えられるのか。
その答えだけが、どうしても見つからないままだった。
