第10章
リビングから女の嬌声と、ルシアンの穏やかな相槌が聞こえてきた。
どうやら、彼の機嫌はいいらしい。
セレステは靴を脱ぎ、素足で冷たい大理石の床を踏みしめながら、音もなくリビングへと近づいた。
そして見てしまった。ソファの上で、シルクのネグリジェを纏ったヴェロニカが、ルシアンにぴったりと寄り添っているのを。
昨日、彼女がここに泊まったのは火を見るより明らかだった。
ヴェロニカは手にアルバムを開き、その中の一枚を指さして花のように笑っている。
「ドン、見てくださいよ。エミリー姉さんの小さい頃、すっごく可愛い! このリボン、この前クローゼットで見つけたんですけど、写真のと同じですよね?」
ルシアンは横顔を向け、久しく見ていなかったほどに柔らかな眼差しで写真を見つめた。
彼は小さく頷き、写真の中の笑いかけるエミリーに触れようと手を伸ばす。
ヴェロニカは、まるで自分がこの家の女主人であるかのように、ごく自然に彼の肩に寄りかかっていた。
リビングの入り口の暗がりに立ち尽くし、セレステは心の中がすっと冷え込んでいくのを感じた。
――ああ、私にはもう、自分を誤魔化すためのほんの少しの余白すら残されていないのね。
エミリー、見ている?
あなたが一番好きだったアパートも、あなたが深く愛した男も、あなたが夢見ていた生活も……。
今、別の女があなたの名前を使って、少しずつ奪い取っているわ。
それなのに、お姉ちゃんはただここに立って見ているだけ。声を上げる資格さえないの。
視線に気づいたのか、ヴェロニカが顔を上げ、こちらへ目を向けた。
彼女の顔には微塵の焦りもなく、むしろ一段と甘い笑みが浮かぶ。
ただ、その笑顔には勝者としての優越感がこれでもかと滲み出ていた。
「あ、お姉ちゃん、お帰りなさい」
ヴェロニカは背筋を伸ばし、まるで客人をねぎらうかのような自然な口調で言う。
「雨に濡れちゃったみたいだけど、大丈夫? お手伝いさんに生姜湯を淹れさせたから、少し飲む?」
ルシアンも振り返り、セレステの蒼白く憔悴した顔に視線を落とした。
昨夜の彼女の脆く惨めな姿など、すでに彼の記憶から消え去っているかのようだ。今、彼女を見据えるその瞳には、いつもの氷のような冷酷さと嫌悪だけが宿っている。
「帰ってくる気はあったんだな」
彼は淡々と言い放つ。
そしてすぐに視線を外し、再びヴェロニカの手元にあるアルバムへと向いた。
「続けろ」
ヴェロニカはセレステに向かって申し訳なさそうに微笑んでみせると、あっさりと彼女を無視し、再びルシアンの肩に寄りかかった。
耳障りな笑い声を聞きながら立ち尽くすセレステは、再び胃が痙攣し、頭がくらくらと眩むのを感じた。
血の味が滲むほど下唇を強く噛み締め、どうにか己を奮い立たせて踵を返す。息の詰まるこの空間から、一刻も早く逃げ出したかった。
「待て」
不意にルシアンの冷ややかな命令が飛んだ。
セレステが足を止めると、背後から彼の声が響く。
「俺とヴェロニカの朝食を用意しろ」
『俺たち』という曖昧な言葉ではない。はっきりと『俺とヴェロニカ』と言った。
妻である彼女を完全に蚊帳の外に置き、使用人のように自分たちを給仕しろと命じているのだ。
これは、彼なりの明白な侮辱だった。
セレステは唇を震わせたが、拒絶の言葉は喉の奥でつかえて出てこない。
彼女に拒む権利などない。もし逆らえば、その代償はなんだろうか。
監禁か、暴力か、それともまた別の新しい罰か。
結局、彼女の口から絞り出されたのは、短い一言だけだった。
「はい」
セレステはリナから借りた服を着替え、キッチンへ入り冷蔵庫から食材を取り出した。
極度の虚弱のせいで動作は普段よりずっと遅く、指先は微かに震えている。
のろのろとコンロに火をつけ、フライパンを温めて油を引いた。
卵の焼ける音だけが、静まり返ったキッチンにやけに大きく響く。リビングの二人は、相変わらず顔を寄せ合って親しげに囁き合っていた。
やがて朝食が完成した。
彼女はトレイを両手で持ち、ダイニングへ向かう。
長いダイニングテーブルには、すでに二人分のカトラリーが並べられていた。
彼女の心はさらに重く沈む。
予想通り、自分の席はない。
無言で朝食の皿を並べ終え、キッチンへ戻って乾いたパンを一切れ取ろうとした。
胃の痛みが限界に達し、何かを胃に入れないと立っていられなかったからだ。
だが、二人連れ立って歩いてきた気配が、セレステの動きを止めた。
「わあ、お姉ちゃんが朝ご飯作ってくれたの? すごく豪華!」
ヴェロニカはルシアンから離れて小走りで近づき、当然のように、いつもセレステが座っていた席に腰を下ろした。
空のトレイを持ったまま、セレステはその場に凍りつく。
ルシアンは上座に座ると、テーブルに並んだ朝食を一瞥し、それからセレステへと視線を上げた。立ち尽くす彼女の態度が気に入らなかったのか、ほんのわずかに眉をひそめる。
「コーヒー」
彼が短く命じた。
我に返ったセレステはトレイを置き、黙って彼のそばへ歩み寄ると、銀のポットを持ち上げてコーヒーを注ぎ始めた。
しかし、手がひどく震えていた。熱い琥珀色の液体が数滴跳ね、純白のテーブルクロスに染みを作る。
ルシアンの眉間の皺が、さらに深くなった。
「気をつけてよ」
ヴェロニカがセレステを軽く咎めるように睨み、すぐにルシアンへ笑いかける。
「ドン、お姉ちゃん、まだ体調が完全に戻ってないみたい。怒らないであげて」
セレステは何も言い返さず、コーヒーを注ぎ終えると足早に脇へ退いた。
胃を締め付けるような激痛がどんどん増し、額に冷や汗が滲んでくる。
何か食べなければ。あるいは、薬を。
「お姉ちゃん、顔色すっごく悪いよ。座って一緒に食べようよ」
ヴェロニカが「親切心」から声をかけ、長いテーブルの反対側の端を指さした。
そこは、ルシアンから最も遠い席だ。
セレステは瞳を微かに揺らし、首を横に振った。
「私はお腹が空いてないから、二人で食べて」
背を向け、キッチンへ逃げ込もうとした。
「待て」
ルシアンが再び口を開く。
セレステは彼に背を向けたまま、ピタリと足を止めた。
「午後、俺と一緒にブロンクス区へ来い」
セレステは振り返り、訝しげに彼を見た。
ブロンクス区といえば、ヴィトリ・ファミリーの勢力が比較的弱く、最もトラブルが頻発する境界の縄張りだ。
「トレントの家が、三ヶ月も借金を踏み倒している」
ルシアンはベーコンを口に運び、ゆっくりと咀嚼しながら言った。
「老トレントは病に伏せ、今はあのろくでなしの息子が家を取り仕切っている。あいつは狡猾で、何度使いをやっても適当にあしらいやがる。今日は、俺が直接出向く」
セレステの胸が早鐘を打った。
ルシアンが自ら取り立てに赴くということは、事態がそう単純ではないことを露骨に示している。昨夜のような銃撃戦に発展する可能性すら……。
「そんな些細なこと、ドンが自ら行く必要ないんじゃない?」
ヴェロニカが不安げに口を挟む。
「あの辺りは物騒だし、危ないわ」
「俺が自ら足を運ぶからこそ、意味があるんだ」
ルシアンはナイフとフォークを置き、ナプキンを手に取って優雅に口元を拭った。
その嘲るような視線が、セレステの青白い顔に突き刺さる。
「それに、セレステもファミリーのビジネスがどういうものか、少しは学ぶべきだ。ヴィトリの妻という肩書きを背負っている以上、いつまでも象牙の塔に引きこもって、世間知らずの医者ごっこを続けるわけにはいかないだろう?」
セレステは悟った。
これもまた、新たな罰なのだ。
暴力と血の匂い、そして裏社会の闇をまざまざと見せつけ、己の罪の深さを骨の髄まで思い知らせるための。
「私は……」
体調が悪いと言って、断りたかった。
しかし、出かかった言葉を喉の奥へ呑み込む。
拒んだところで何になるというのか。さらに過酷な罰を招くだけだ。
「午後三時だ。準備しておけ」
ルシアンが言い放つ。
それは相談ではなく、絶対の命令だった。
セレステは伏し目がちに睫毛を落とし、掠れた声で答えた。
「はい」
***
午後三時、セレステは時間通りにアパートの前に姿を見せた。
ルシアンはすでに車の後部座席に座り、目を閉じて休んでいる。
彼女が乗り込むのを見て、彼は薄く目を開けて一瞥しただけで、何も言わなかった。
車は、混沌としたブロンクス区へと向かって走り出す。
通りは次第に荒廃し、壁のグラフィティ、散乱するゴミ、そして敵意に満ちた目つきで徘徊する人々の姿が増えていく。
セレステの心臓は、じわじわと恐怖に締め付けられていった。
トレントの家はひときわ古びた区画にあり、まるで不気味な古城のような佇まいをしていた。
四人の屈強なボディガードに囲まれながら、ルシアンがその扉を叩く。
応対に出てきたのは、痩せこけた老婆だった。トレントの母親らしい。
ルシアンは完璧なまでに穏やかな笑みを浮かべ、訪問の意図を告げた。
トレント氏が体調を崩していると聞き、妻を伴って見舞いに来たこと。そして、少しばかり昔の帳簿の整理も兼ねて、と。
老婆は震えながら、彼らを屋敷の中へと案内した。
奥の部屋から、派手な柄のシャツを着た軽薄そうな若い男が現れた。老トレントの息子だ。
彼はルシアンの顔を見るなり一瞬顔色を変えたが、すぐに愛想笑いを浮かべ、大げさな身振りで挨拶をしてきた。
虚飾に満ちた世間話もそこそこに、やがて本題へと入る。
案の定、トレントは目を泳がせながら、金がないと泣き落としを始めた。
ルシアンの忍耐は、すでに限界に達していたようだ。彼が目配せをすると、ボディガードの一人が進み出て、書類をテーブルに叩きつけた。
「トレントさん」
ボディガードが氷のような声で言う。
「この借用書、初めて見るわけではないでしょう。両家の古き良き関係を重んじ、ヴィトリ・ファミリーはあなた方が苦しい時に協力を惜しみませんでした。この金は単なる借金ではなく、両家の絆の証。まさか、その恩義を仇で返すような真似はなさらないと信じていますが?」
室内の空気が、一気に凍りつく。
トレントの額から、どっと冷や汗が噴き出した。
これがルシアンの最後通牒だ。
ヴィトリ・ファミリーをコケにした者がどうなるか。最低でも、家族全員の片腕を差し出すことになる。
トレントはせわしなく眼球を動かし、不意に立ち上がった。
「せ、せっかく遠くからお越しいただいたんですから、何か飲み物でも」
彼は逃げるようにキッチンへ駆け込んだ。
しばらくして、彼はトレイを持って戻ってきた。
まず、セレステの前に恭しく水の入ったグラスを置く。
「奥様、どうぞお召し上がりください」
ルシアンがセレステを横目で見た。その感情の読めない視線に、彼女は息を呑む。
セレステは無意識のうちに、トレントから渡されたグラスをルシアンの前に差し出していた。
自分自身も喉が渇いており、胃の調子も悪かったため、彼女はもう一つのグラスを手に取り、一口飲んだ。
彼女が何事もなく水を飲んだのを見て、ルシアンも自分のグラスに手を伸ばす。
空気が少し和らいだと勘違いしたのか、トレントは再び家の窮状を並べ立て始めた。
ルシアンはうんざりした様子でそれを聞き流し、ボディガードに指示を出そうと顔を向けた。
だが、言葉を発する前に彼の動きが不自然に止まる。その瞳が刃のように鋭く細められ、猛禽類のようにトレントを射抜いた。
彼は素早くグラスに顔を近づけ、中の水の匂いを嗅ぐ。途端に、その顔が恐ろしいほどに黒ずんだ。
ほぼ同時に、セレステも自身の胃の奥から異様な熱が立ち上り、全身の血管へと急速に広がっていくのを感じた。
心臓が制御不能なほど激しく打ち鳴り、頬が焼けつくように熱い。視界がぐらりと揺れ、ぐるぐると回り始める。
この水……何かがおかしい!
「貴様、よくも……」
ルシアンが凄まじい勢いで立ち上がるが、その身体が千鳥足のように大きくよろめいた。
彼もまた、薬にやられていたのだ。
それを見たトレントは、被っていた仮面を完全に脱ぎ捨て、後退りしながらけたたましい指笛を鳴らした。
瞬間、家の外から無数の荒々しい足音が響いてくる。完全に待ち伏せされていた。
「走れ!」
ルシアンは瞬時に状況を判断し、意識が朦朧とし始めているセレステの手首を掴むと、彼女を強引にドアの方へ引き寄せた。
ボディガードたちはすでに、なだれ込んできた男たちと乱闘を繰り広げている。鼓膜を劈く銃声が轟いた。
大混乱の中、ルシアンはセレステを引きずりながら、立ち塞がる敵を体当たりで弾き飛ばし、屋敷を飛び出す。
セレステの足は完全にもつれ、彼の速度に全くついていけない。半分引きずられるようにして走るたび、胃袋が裏返るような激痛が走る。
だが何よりも恐ろしいのは、体中を駆け巡る狂暴な熱流だった。目眩に襲われ、膝から崩れ落ちそうになる。
それでもどうにか、待機していた車に転がり込んだ。
ボディガードの援護射撃を受けながら、車は狂ったような猛スピードで発進し、追手を振り切った。
ルシアンは後部座席に深くもたれかかり、荒い息を吐いている。その顔は異常なほど赤く上気していた。
苛立たしげにネクタイを引き剥がしたが、全く効果はない。
体内で煮えたぎるマグマのような熱が、彼の理性を容赦なく削り取っていく。
セレステの状態も、決して良くはなかった。
彼女は座席の隅に丸く縮こまり、両腕で自身をきつく抱きしめている。唇から血が出るほど噛み締め、痛みで意識を保とうとするが、効果は薄かった。
「あの水……」
不意にルシアンが唸るように言った。
「その水……お前が俺に渡したものだな」
セレステはびくりと身を震わせ、虚ろな目を上げた。
「え……?」
「聞いてるのか」
ルシアンがぎょろりと首を向ける。
「トレントが水を渡し、それを、お前が俺に寄こした」
彼が、自分を疑っている。
「違う、私じゃない……!」
セレステは恐怖に顔を歪め、必死に首を振った。
「あいつが……あいつが出してきたの……私は何も……」
「何も、だと?」
ルシアンが獣のようにのしかかり、彼女を車のドアへ乱暴に押し付けた。
「セレステ、お前は本当に死にたがりだな。こんな掃き溜めで、奴らと結託して俺に薬を盛るだと?」
「何を企んだ? ああ!?」
彼女の顎を万力のような力で掴み、怒りに燃える目で睨みつける。
「俺が狂うのを見たかったか? こうやって俺のベッドに這い上がるつもりだったのか? それとも、これがお前の新しい懺悔の形か? その身体で償えば、罪が軽くなるとでも思ったか!」
「違う! トレントよ、水を用意したのは彼! 私は本当に何も知らない!」
セレステは泣き叫び、必死に身をよじって抵抗した。
だが彼の力は圧倒的で、彼女はピクリとも動けない。
「信じろと?」
ルシアンは鼻で笑ったが、その瞳の奥には底なしの暗い欲望が渦巻き始めていた。
「セレステ、お前の何を信じろと言うんだ? エミリーに似たその面か? 吐き気のするようなその身体か?」
彼の指が彼女の頬を這い、そしてゆっくりと首筋を滑り落ちて、ブラウスの第一ボタンに触れた。
セレステの瞳孔が恐怖で限界まで見開かれる。
「やめ、やめて! ルシアン……お願い……」
彼女は絶望的な声で懇願した。
だが、薬の効力と怒りの炎に焼かれたルシアンの最後の理性の糸は、ついに呆気なく断ち切られた。
「自業自得だ」
――布の裂ける鋭い音が響く。
セレステの衣服は無残に引き裂かれ、華奢な身体が彼の前に完全に曝け出された。
