第7章

 セレステがゆっくりと目を開けると、まず鼻を突いたのは消毒液の強い匂いだった。

 何度か瞬きをして、次第に意識がはっきりしてくる。

 記憶の最後にあるのは、診察室でのハンナの慌てふためく顔と、胃が引き裂かれるような強烈な痛みだけだ。

「気がつかれたんですね!」

 傍らから、リナの喜びを含んだ声が聞こえた。

 セレステが首を巡らせると、目を赤く腫らしたリナがベッドの脇に座っていた。

 セレステが目を覚ましたのを見て、リナは慌ててナースコールを押す。

「私……どうしたの?」

 セレステが口を開くと、その声はひどく掠れて乾いていた。

「倒れられたんです。胃の出血で」

 リナは心配そうに顔を曇らせた。

「お医者様のお話では、長期的な強いストレスと不規則な食生活が原因の、急性胃潰瘍による出血だそうです。運ばれてきたときは血圧もすごく低くて、危うく……」

 彼女はそこまで言って言葉を濁したが、セレステには十分伝わった。

 ――もう少しで、助からなかった。

 それもいいかもしれない。

 セレステはぼんやりとそう思った。

 だが、リナの続く言葉に、セレステの胸はぎゅっと締め付けられた。

「お医者様が検査をしてくださったとき……」

 リナの唇が震え、再び大粒の涙がこぼれ落ちる。

「先生のお身体の傷を、見てしまったんです。腕の噛み傷とか、その他にも……数え切れないくらいの、古い傷跡を。どうしてこんなに傷があるのかと聞かれても、私……なんて答えたらいいか、わからなくて」

 セレステは無意識に、病衣の袖を引っ張った。

 腕の噛み傷はすでに丁寧に手当てされていたが、ゆったりとした作りの病衣では、鎖骨や首筋に残る他の痣までは隠しきれない。

 それらはすべて、ルシアンがつけたものだ。

「リナ、聞かないでちょうだい」

 セレステは弱々しく首を振った。

「でも!」

 リナは感情を高ぶらせ、セレステの手をきつく握りしめる。

「あの傷……事故じゃないですよね? 誰の仕業なんですか? ルシアンさんですか? 彼が先生をぶったんですか? どうしてあんなひどいことを……」

「リナ!」

 セレステはふいに声を荒らげて彼女の言葉を遮り、直後に激しく咳き込んだ。

 リナは慌てて水を注ぎ、セレステの口元に運んで慎重に飲ませる。

 息を整えたセレステは、すがるような眼差しでリナを見つめた。

「お願い、何もしないで。誰にも言わないでちょうだい。これは……全部、私が受けて当然の報いなの」

「当然の報いって、どういうことですか!?」

 リナは信じられないと言わんばかりに目を丸くした。

「あんな扱いを受けていい人間なんて、どこにもいません! 先生は、私が知る中で一番優しくて、素晴らしい人です。あんなにたくさんの患者さんを救ってきたのに、こんな目に遭うなんて絶対に間違ってます! 私、警察に行きます、警察に……」

「やめて!」

 セレステは、リナの手首を強く掴んだ。

「私のことを、少しでも上司だと、友人だと思ってくれているなら、警察には行かないで。お願いだから、リナ」

 そのひび割れ、絶望に満ちたセレステの瞳はリナの胸を深く刺し、彼女の言葉をすべて喉の奥に押し込めてしまった。

 病的に痩せ細り、全身傷だらけの目の前の女性が、五年前のあの自信に満ち溢れ、「ニューヨークの薔薇」とまで謳われた天才精神科医と同一人物だとは、到底信じられなかった。

 あの日の悲劇は、一体どれだけのものを壊してしまったのだろうか。

「でも……どうしてですか?」

 リナは泣きじゃくりながら問い詰める。

「どうして、こんな仕打ちに耐えなきゃいけないんですか? 先生が、一体どんな悪いことをしたっていうんですか?」

 ――私が、何をしたか。

 セレステは心の中で、その問いを静かに反芻した。

 私は、自分の妹を死なせた。

 ひとつの家族を壊した。

 他人の幸せを、奪い取った。

 私が生きていること、それ自体が最大の罪なのだ。

 だが、セレステはそれを口には出さず、ただ疲れたようにまぶたを閉じた。

「リナ、少しだけ、休ませてくれる?」

 リナはまだ何か言いたげだったが、そこへ医師と看護師が入ってきたため、仕方なくベッドから離れた。

 医師はセレステの容体をひと通り確認すると、厳しい表情で口を開いた。

「コスタさん、胃潰瘍の状態がかなり悪いです。少なくとも一週間は入院して、経過を観察する必要があります。それに、極度の栄養失調と貧血を起こしていますし、お身体には新旧様々な軟部組織の挫傷や裂傷が見られます。医師としてお聞きしなければなりませんが、これらの傷は、どうやってできたものですか?」

 セレステは焦点の定まらない虚ろな瞳で、天井を見つめたまま答えた。

「自分で、うっかり怪我をしたんです」

 医師は明らかに疑念を抱いていたが、セレステが頑なに心を閉ざしているのを見て、深く息を吐くしかなかった。

「痛み止めと栄養剤の点滴を出しておきます。どうか、安静になさってください。精神的なストレスは、胃の病気に最もよくありません」

 医師と看護師が病室を出て行くと、再び静寂が下りた。

 セレステはひどい疲労感に苛まれながらも、眠りにつくことはできず、ただぼんやりと天井を見上げるしかなかった。

 どれほどの時間が過ぎたころか、病室のドアがそっと押し開かれた。

 入り口に、一つの影がためらうように立っている。

 セレステが首を向けると、彼女はハッと息を呑んだ。

 ――父だった。

 セレステの鼻の奥がツンと痛み、たちまち涙が溢れ出した。

「パパ……」

 彼女は声を詰まらせて呼んだ。

 レナートは無言で歩み寄り、フルーツの籠をベッドサイドのテーブルに置いた。

 彼はセレステの蒼白く痩せこけた顔を見つめ、何度か唇を動かしたあと、ようやく絞り出すように言った。

「……具合は、どうだ?」

「ええ」

 セレステが頷くと、涙はとめどなく頬を伝った。

 父からこんな風に、穏やかな声で話しかけられるのは、一体いつぶりだろう。

 エミリが死んでからというもの、父がセレステに向ける視線は常に苦痛と失望に満ちており、やがては顔を合わせることすら避けるようになっていた。

 レナートはベッド脇の椅子に腰を下ろし、長い沈黙が流れた。

「イザベラが……お前のところへ行っただろう」

 不意に、彼が口を開いた。

 セレステの心臓が、冷たく沈み込む。

「あの書類は……」

 レナートは一呼吸置いてから、続けた。

「私の意思だ」

 セレステは目を閉じた。

 わかっていたこととはいえ、父の口からはっきりと告げられると、やはり心臓を鋭い刃でえぐられたような痛みが走る。

「お前を追い詰めたいわけじゃないんだ」

 レナートの声には、重苦しい響きがあった。

「ただ……ヴェロニカという子は、とても気が利いてね。お前の母親を喜ばせるのが上手いんだ。母さんはこの五年間、本当に辛い思いをしてきた。だから、ヴェロニカがエミリの好きだった色の服を着て、エミリの好きだった髪型をして、母さんと話しているのを見ると、母さんは少しだけ笑うんだ。それを見ていたら……これでいいのかもしれないと、そう思ったんだ」

 彼は顔を上げ、セレステを見つめた。その瞳の奥には、拭い去ることのできない深い悲哀が揺らめいている。

「セレステ、お前を愛していないわけじゃないんだ。ただ、お前の顔を見るたびに、どうしてもエミリを思い出してしまう。あの日の、霊安室でのことを……。あの子はあんなに小さくて、あんなに冷たくなって……」

 レナートの声が震えた。

「父さんには、耐えられないんだ。すまない」

 ――すまない。

 五年経って、セレステはついに父から「すまない」という言葉を聞くことができた。

 だがそれは、こんなにも残酷な形でもたらされた。

 喜ぶべきなのだろうか。これで胸のつかえが下りるのだろうか。

 なのに、どうしてこんなにも心が痛み、空っぽに感じるのだろう。

「パパ、謝らなきゃいけないのは、私の方よ」

 セレステは泣きじゃくりながら言った。

「私がエミリを死なせたの。私が、この家族をめちゃくちゃにした。パパとママが私を憎むのは、当然のことよ。あの書類には、喜んでサインしたわ。コスタ家のものは、私みたいな罪人が受け取っていいものじゃないから」

「そんな言い方をするな」

 レナートは手を伸ばし、彼女の頭を撫でようとした。

 だが、その手は中空で止まり、力なく下ろされた。彼は腕時計に目をやると、ふいに表情を強張らせた。

「……もう行かなければ。母さんには、ここに来ることは内緒にしてある。もし知られたら……」

 彼は言葉を濁したが、セレステには痛いほどよくわかった。

 もし父が自分に会いに来たことを知れば、母はまた半狂乱になって怒り狂うだろう。

「ええ、早く帰ってあげて」

 セレステは必死に笑顔を作った。

「私は平気だから、心配しないで」

 レナートは立ち上がり、もう一度彼女を振り返った。その眼差しには、セレステには到底読み取れない、あまりにも複雑な感情が渦巻いていた。

 やがて彼は一つ頷くと、逃げるように足早に病室を後にした。

 まるで、耐え難い苦痛から一刻も早く逃れたいとでも言うように。

 セレステは父が消えたドアを見つめながら、声もなく涙を流し続けた。

 あの束の間の温もりは、真冬に擦った一本のマッチのようなものだった。ほんの少しの暖かさを感じた途端、冷たい風に吹き消されてしまった。

 それでも、父は会いに来てくれた。

 それでも、父は「すまない」と言ってくれた。

 その微かな温もりの記憶だけで、彼女はこれからの日々を、なんとか生き延びていけるかもしれない。

 リナが着替えや日用品を取りにアパートへ戻っている間、セレステは一人ベッドに横たわり、点滴の管から一滴、また一滴と落ちる透明な液体を虚ろな目で見つめていた。

 ――突然、病室のドアが乱暴に開け放たれた。

 凍てつくような冷気を纏ったルシアンが足を踏み入れ、背手でドアを閉めると、ベッドの脇に立ち、セレステを冷酷に見下ろした。

「ずいぶんと真に迫った仮病だな」

 彼の口を突いて出たのは、相変わらずの冷ややかな嘲笑だった。

 セレステの心は、一瞬にして氷点下まで凍りついた。

「仮病なんかじゃないわ」

 彼女はかすれた声で反論した。

「そうか?」

 ルシアンは鼻で笑うと、乱暴に掛け布団を剥ぎ取り、彼女の手に刺さった点滴の針と包帯を一瞥した。

「胃潰瘍? 過労? セレステ、言い訳だけは達者だな。病院のベッドに寝そべっていれば、自分が受けるべき罰から逃げられるとでも思ったか? それとも、その哀れっぽい姿で同情でも引こうって魂胆か? 例えば……お前の父親の、とかな」

 セレステは弾かれたように彼を睨みつけた。

「あなた……」

「なぜ知っているか、か?」

 ルシアンは身をかがめ、両手をベッドの縁について、嫌悪感も露わに彼女をねめつけた。

「ここはニューヨークだぞ、セレステ。俺の耳に入らないことなどない。お前の父親がこっそり見舞いに来て、十分と経たずにコソ泥のように逃げ帰ったこともな。どうだ、あの男の無様な姿を見て、さぞいい気分だっただろう? ついに絆されて、お前を許してくれたとでも思ったか?」

「そんなこと……」

 セレステは首を振り、またしても涙が溢れてきた。

 どうして、この男の前に出ると、いつもこんなに簡単に泣いてしまうのだろう。

「教えてやろう、夢を見るな」

 ルシアンは上体を起こし、軽蔑の眼差しで彼女を見下ろした。

「父親が見舞いに来たのは、お前を許したからじゃない。ただの臆病者だからだ。母親のようにお前を徹底的に憎むこともできず、かといってまともに向き合うこともできない。だからあんな風にコソコソと嗅ぎ回って、自分を誤魔化しているだけだ。だがな、よく覚えておけ……」

 彼は手を伸ばし、セレステの顎をきつく掴んだ。

「誰も、お前を許しはしない。父親も、母親も、そして俺もだ。お前のこの先の人生に価値があるとすれば、ただ生きて罪を償うことだけだ。だから、こんな小賢しい真似はさっさとやめて、大人しく罪人という役目を演じ続けろ。わかったな?」

 セレステは彼を見つめた。彼女が何年もの間、愛し続けてきたその顔を。

 かつて、その深いダークブラウンの瞳は、エミリに対する底知れぬ優しさに満ちていた。

 だが今、そこにあるのは、自分に対する底なしの憎悪と軽蔑だけだ。

「……わかったわ」

 自分の声が、ひどく空ろに響いた。

 ルシアンは手を離して身を起こすと、ハンカチを取り出して指先を拭い、それをそのままゴミ箱へと放り投げた。彼は最後にもう一度だけ彼女を一瞥し、踵を返した。

 ドアのところで立ち止まるが、振り返ることはなかった。

「数日後の夜、取引の場に同行してもらう。それなりの格好をしてこい。死に損ないみたいなツラをして、俺の顔に泥を塗るなよ」

 ドアが開き、そして閉まった。

 セレステはベッドに横たわったまま、天井を見つめていた。胃の奥底で、再び鈍い痛みが蠢き始めている。

 だが、この心のどうしようもない麻痺に比べれば、そんな痛みなど取るに足らないものだった。

 リナが病室に戻ってくると、セレステは虚ろな目で天井を見つめ、目尻から絶え間なく涙を流して枕を濡らしていた。

 リナは慌てて駆け寄った。

「リナ」

 セレステは、消え入るような声で呟いた。

「私は、自業自得なのよ」

「生きている資格なんて、ないの」

「私が生きていること自体が、すべての人に対する罰なんだわ」

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