第8章

 三日後、セレステは半ば強引に退院した。

 胃出血には本来絶対安静が必要だが、彼女に選択の余地などなかった。

 もう少し入院を続けるべきだと必死に説得するリナに、セレステはただ首を横に振るだけだった。

 ルシアンが交渉の場に同行しろと命じた以上、彼女の体調ごときでその決定が覆るはずもない。

 迎えによこされた車は、彼女のアパートではなく、直接高級なスタイリングスタジオへと向かった。

 そこにはヴェロニカの姿もあった。鏡の前でジュエリーを合わせた彼女は、セレステの姿を認めるなり、甘い笑みを浮かべた。

「お姉ちゃん、だいぶ顔色が良くなったみたいね」

 ヴェロニカは歩み寄り、親しげにセレステの腕にすがりつく。

「今夜のドレス、ドンに選んであげてって頼まれたの。安心して、とびっきり綺麗にしてあげるから」

 セレステは腕を引こうとしたが、その手は思いのほか強く握られていた。

 更衣室に連れ込まれると、幾人ものスタイリストが群がり、採寸し、衣装を選び、ヘアメイクの相談を始める。

 すべてはヴェロニカの主導で進められ、セレステは糸の切れた操り人形のようにされるがままになっていた。

 最終的に選ばれたのは、ミッドナイトブルーのベルベットドレスだった。露出の少ない上品なカッティングが、痩せこけた身体と生々しい傷跡を完璧に覆い隠してくれる。

 ヴェロニカは自らメイクの筆を執った。分厚いファンデーションで血の気のない肌と目の下の隈を塗り潰し、赤いルージュを引いて、せめて生きた人間のように見せかける。

「お姉ちゃん、とっても綺麗よ」

 背後に立つヴェロニカは、鏡越しのセレステを見つめてゾッとするような声で囁く。

「でも残念ね。いくら着飾っても、エミリにはなれないわ」

 セレステの指が、ドレスの裾をきつく握りしめた。

 夕刻、ルシアンが姿を現した。

 セレステを一瞥し、数秒だけ視線を留めたが、何の感想もこぼすことなく、「行くぞ」とだけ短く告げた。

 交渉の場は、市外にある放棄された倉庫だった。

 夜の闇を切り裂いて走る車内で、セレステは窓外を流れる街灯りを眺めながら、幾重もの思案を巡らせていた。

 今夜の交渉がどのような内情かは知らない。だが、ルシアンがわざわざ自分を連れ出すのだ、ろくな事態にならないのは火を見るより明らかだった。

「覚えておけ」

 唐突にルシアンが口を開く。

「中に入ったら俺の側から離れるな。口は開くな。余計なものも見るな。お前の役目は、ただそこに突っ立っていることだ。わかったな?」

 セレステは小さく頷いた。

 理解している。自分はただの飾りであり、あるいは人質か盾なのだと。

 マフィア同士の交渉は一寸先は闇だ。女を同伴するのは珍しいことではない。自らの権勢を誇示する道具であり、いざという時の弱みや交渉材料にもなり得る。

 車が倉庫の前に滑り込む。

 黒服の護衛たちが迎えに出る中、ルシアンが降り立ち、セレステも後に続いた。

 夜風はひどく冷たく、薄手のドレス一枚の彼女は、たまらず身震いをした。

 ルシアンはちらりと彼女を見たが、何も言わずに倉庫の鉄扉へと歩みを進める。

 セレステも小走りでその後を追った。

 倉庫の中は薄暗く、中央に置かれた長机の両側には、すでに幾人かの男たちが陣取っていた。

 上座にふんぞり返っているのは、顔に醜悪な刀傷を持つスキンヘッドの巨漢――イーストサイドの新興マフィアを束ねるカーロだ。

 その対面の空席は、言うまでもなくルシアンのために用意されたものだった。

 ルシアンの姿を認めるなり、カーロは金歯を覗かせて下品に笑った。

「ルシアン、やっとおでましだな。女連れか? どうした、俺に食われるのが怖いのか?」

 値踏みするような視線が、セレステの全身を舐め回す。

 ルシアンがカーロの正面に腰を下ろし、セレステはその斜め後方に控えるように立った。

 カーロやその手下たちのいやらしい視線が、まるで爬虫類が這い回るように肌を粟立たせる。

 彼女は思わず目を伏せ、ひたすら自分の爪先を見つめて気配を殺した。

 交渉が始まった。

 議題は、いくつかの上りのシマにおける麻薬取引のシェア分割について。

 より多くを要求するカーロに対し、ルシアンは一歩も譲らない。

 互いに声のトーンは平坦だったが、言葉の端々に散る火花は、セレステにさえはっきりと感じ取れた。

 張り詰めた空気が限界に達しようとしていた。

「ルシアン、いい加減にしろよ」

 カーロが突如として顔を険しくする。

「あのシマは俺がもらう。お前が首を縦に振ろうが振るまいがな」

 ルシアンは冷ややかな笑みを浮かべた。

「カーロ、ここはイーストサイドじゃない。ニューヨークの掟を決めるのは俺だ」

 カーロは鼻で笑い、不意にセレステへと視線を移した。

「こいつがお前の細君か? 自分の妹を見殺しにしたっていうコスタ家の図太いお嬢様。面構えは悪くねえが、ベッドの上じゃ、あの短命だった妹と比べてどうなんだ?」

 言い終わるや否や、ルシアンの瞳に極寒の殺意が宿った。

「交渉の場だ。余計な口を叩くな」

「なんだ、図星を突かれて痛いか?」

 カーロはさらに下劣な笑い声を上げる。

「まあな、姉妹揃って抱いたんだ、情も湧くわな。だがよ、ルシアン。こんな女のために自分のシノギを危険に晒す価値があるのか? こうしようぜ。あのシマを譲るなら、お前のその色恋沙汰には二度と触れねえって約束してやる。どうだ?」

 セレステは全身を強張らせ、燃え盛るような羞恥心に身を焦がした。

 ルシアンが、ふっと笑い声を漏らす。

 彼はゆっくりと立ち上がり、スーツの袖口を直した。

「どうやら今夜は、これ以上話しても無駄なようだな」

「カーロ、チャンスは与えたはずだぞ」

 カーロの顔色が変わる。

 彼もまた立ち上がり、背後の手下たちが一斉に腰のホルスターへと手を伸ばした。

「ルシアン、どういう意味だ?」

「言葉通りの意味だ」

 ルシアンは悠然と告げる。

「あのシマには、指一本触れさせない。それから――さっきの貴様の軽口、ひどく耳障りだった」

 その言葉を合図にしたかのように、倉庫の高所の暗がりから、突如として幾つもの赤い光点が現れた。

 スナイパーライフルのレーザーサイトが、カーロと彼の主要な手下たちの胸元にピタリと定められている。

 カーロの顔から一瞬にして血の気が引いた。

「てめえ……最初からこのつもりで……!」

 ルシアンは答えず、ただわずかに手を挙げた。

「やれ」

 一発の銃声が轟いた。

 だがそれは狙撃銃の音ではない。カーロの側近の一人が咄嗟に銃を抜き、ルシアンに向かって発砲したのだ。

 しかし、放たれた凶弾はルシアンを逸れ、その傍らにいたセレステへと向かった。

 銃声が響いた瞬間、ルシアンは顔色を変え、猛烈な勢いでセレステを自分の懐へと引き寄せた。

 それでも弾丸はセレステの腕を掠め、ベルベットの生地を引き裂いて、鮮血の飛沫を散らした。

「あっ!」

 小さな悲鳴が漏れる。

 だがその声は、直後に巻き起こった喧騒に掻き消された。

 銃声が入り乱れる。

 カーロの手下たちが応戦し、ルシアンの護衛たちも一斉に引き金を引いた。

 倉庫は瞬く間に凄惨な戦場と化した。

 銃弾が飛び交い、マズルフラッシュが闇を切り裂く。

 セレステはルシアンに引きずられるようにして、横転した鉄机の陰へと転がり込んだ。

 腕が火で炙られたように熱く痛み、生温かい血が伝い落ちていく。

 目の前で交錯する人影、鼓膜を破るほどの銃声、そして鼻を突く硝煙と血の匂い。

 そのすべてが、あまりにも見覚えのある光景だった。

 港。

 銃撃戦。

 悲鳴を上げて逃げ惑う人々。

 自分を庇って飛び込んできたエミリの、真っ白なワンピースに咲いた赤い花――。

「いや……嫌……!」

 セレステは全身を震わせ、床に丸くうずくまった。

 両手で耳を塞ぎ、きつく目を閉じる。

 見たくない。聞きたくない。思い出したくない。

「目を開けろ」

 頭上から、ルシアンの氷のような声が降ってきた。

 彼女は首を振る。必死に拒絶する。

 だが、乱暴な手が彼女の両腕を引き剥がし、無理やり顔を上げさせた。

 ルシアンは彼女の前にしゃがみ込み、その髪を掴んで、戦場と化した倉庫の中央を見据えさせた。

「よく見ろ、セレステ」

 耳元で囁く声は、どこまでも冷酷だった。

「こいつらがどうやって死んでいくか、その目に焼き付けろ。弾丸が肉を貫き、血が吹き出し、命が消え失せていく様を。とくと見ろ!」

「やめて!」

 セレステは絶叫し、狂ったようにもがいたが、ルシアンの手はビクともしない。

 カーロの部下が胸を撃ち抜かれ、よろめきながら椅子をなぎ倒して痙攣し、その下から赤黒い血だまりが広がっていくのが見えた。

 ルシアンの護衛が頭部を撃たれ、即座に崩れ落ちて物言わぬ屍となるのが見えた。

 柱の陰から応戦していたカーロが、上部からの狙撃を肩に受け、絶叫とともに倒れ伏すのが見えた。

 血。どこもかしこも、血だらけだった。

「エミリ……」

 セレステは虚ろな瞳でうわ言のように呟く。

「エミリも……こんな風に……血がいっぱいで……私に逃げてって……私を、突き飛ばして……」

 粘り気のある鮮血がエミリの身体から溢れ出し、自分の足元まで這い寄ってくる。

 俯けば、その禍々しい赤が靴を汚しているのがはっきりと見えた。

 ルシアンの身体が、一瞬だけ硬直した。

 セレステの蒼白で生気のない顔を睨みつける彼の瞳の奥に、複雑な感情が渦巻き――すぐさま、どす黒い憎悪へと塗り潰された。

「そうだ。あいつはお前を突き飛ばした」

 彼はさらに強く髪を掴み、血みどろの光景から目を逸らすことを許さない。

「彼女はお前を庇って銃弾を受け、死んだ。そしてお前は生き残った。だから、しっかり見て、この光景を骨の髄まで刻み込め。これが、お前が彼女に負った罪の代償だ」

 血の赤が視界のすべてを覆い尽くし、涙に滲むセレステの目には、それがひどく痛々しく映った。

 やがて、銃声がまばらになっていく。

 カーロの一味は死ぬか重傷を負うかして、残った数名も膝をついて降伏した。

 ルシアンは手を離し、わずかに乱れたスーツを整えると、傍らの部下に命じた。

「綺麗に片付けておけ」

 そして、未だ地べたにうずくまっているセレステを見下ろす。

「行くぞ」

 セレステは動かなかった。

 腰が抜け、立ち上がることができない。魂が抜け出して宙を漂い、下に転がる壊れた肉の抜け殻を見下ろしているような感覚だった。

 出口まで歩みを進めたルシアンが振り返り、眉をひそめる。

「手を貸してやらないと動けないのか?」

 セレステは震えながら、怪我をしていない方の手で床を突き、何度かよろけながらもどうにか立ち上がり、ふらつく足取りで後に続いた。

 車に乗り込むと、ルシアンから一番遠い隅へと身を縮める。

 車が発進し、夜の闇へと溶け込んでいく。

 セレステは無言のまま、身体を丸めていた。

 頭が割れるように痛み、胃の腑が激しくかき回され、吐き気が喉元までこみ上げてくる。

 口元を覆ったが、それでも耐えきれずに喉の奥から声が漏れた。

「うっ……」

「静かにしろ」

 ルシアンが不快げに吐き捨てる。

 セレステは唇を噛みしめ、必死に声を殺したが、身体の震えはどうしても止められなかった。

 ルシアンが彼女を一瞥する。薄暗い車内灯の下、紙のように青ざめた顔は涙とメイクでぐちゃぐちゃになり、腕から流れた血がドレスにどす黒い染みを作っている。その様は、見るも無惨で哀れだった。

 だが、彼の心には一欠片の同情も湧かない。あるのはただ、底知れぬ嫌悪感だけ。

 車が道のりを半ばほど進み、セントラルパークの付近に差し掛かったとき、ルシアンが唐突に命じた。

「車を止めろ」

 運転手が路肩に車を寄せる。

 ルシアンは首を巡らせ、冷え切った声で言い放った。

「降りろ」

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