第9章

 セレステは茫然と顔を上げ、ルシアンを見た。

「降りろ」

 彼は冷酷な声で繰り返した。

 セレステは反論も哀願もせず、ただ機械的に車のドアを押し開け、よろめきながら車を降りた。

 黒いセダンは一瞬たりとも留まることなく、夜の闇へと滑り込み、通りの突き当たりへと消えていった。

 いつの間にか降り出した雨は、次第に激しさを増していく。

 セレステはあっという間にずぶ濡れになった。

 彼女は茫然と歩道の中央に立ち尽くし、空虚な眼差しで周囲を見渡した。

 ニューヨークの夜はこれほどまでに華やかだというのに、彼女のために灯る明かりは一つもなかった。

 どこへ行けばいいのだろう。

 アパート? あそこは家ではない。冷たくて華やかな牢獄にすぎない。

 診療所? こんな時間、リナはとっくに帰っている。

 数日前に連絡を絶たれたコスタ家の屋敷など、言わずもがなだ。

 この広大なニューヨークに、自分の居場所などどこにもなかったのだ。

 しばらくして、セレステはアパートの方向へと、機械的に足を踏み出すしかなかった。

 寒い。骨の髄まで凍りつくような寒さに、歯の根が合わずガチガチと鳴る。

 腕の傷は、冷たい雨に打たれ続けるうちに、痛みの感覚すら麻痺してしまった。

 ひどい目眩がして、胃がコントロールを失ったように痙攣している。

 脳裏では、倉庫での血生臭い光景と、五年前の波止場での光景が、絶え間なく交錯し、重なり合っていた。

 銃声、閃光、鮮血……。

 エミリが倒れる姿、そしてルシアンの冷酷な声。

『よく見ておけ。この痛みを刻みつけろ。これはお前が彼女に負った借りだ』

 そう、自分はエミリに借りがある。

 命という借り、幸せという借り、そして完全な家族という借り。

 だから、このすべてを背負うのは当然の報いなのだ。

 辱めを受けるのも、傷つけられるのも、この冷たい雨の夜に、負け犬のように一人で歩き続けるのも、すべては自業自得。

 どれくらい歩いたのか、セレステの体力は完全に底を突いていた。

 足取りはますます覚束なくなり、目の前が何度も真っ暗になる。

 ついに、ある街角を曲がろうとしたとき、足から力が抜け、そのまま前にのめり込むようにして、濡れて冷たい歩道に激しく打ち付けられた。

 膝に走る激痛で、少しだけ意識がはっきりする。

 立ち上がろうとしたが、ひどく虚脱しており、何度試しても失敗に終わった。

 とうとう力尽きて地面にへたり込み、果てしなく深い夜空を仰ぎ見ながら、無情に打ちつける雨に身を任せた。

 このまま死んでしまうのも、悪くない。

 そんな考えが、再び頭をもたげる。

 甘美な誘惑にも似た解放感に、彼女はそっと目を閉じ、抗うことをやめ、意識が寒さの中に溶けていくのに身を委ねた。

 恍惚の中、何年も前の、陽光が降り注ぐ午後へと戻ったような気がした。

 コスタ家の庭では、藤の花が満開だった。

 幼いエミリは白いチュールドレスを着て、まるで精巧な作りの小さなお姫様のように、芝生の上で一匹の蝶を追いかけている。

「お姉ちゃん! お姉ちゃん! 早く来て! この蝶々、すごく綺麗!」

 エミリは振り返り、笑顔で手招きをした。

 駆け寄って、妹と一緒に薔薇の花に止まった青い蝶を見つめる。

 エミリが恐る恐る手を伸ばすと、蝶は逃げることなく、ふわりとその指先に止まった。

「お姉ちゃん、見て、この子、私のこと好きみたい!」

 エミリの瞳がキラキラと輝いている。

「それはね、エミリが世界で一番可愛いお姫様だからよ。蝶々だって好きになっちゃうわ」

 優しく甘やかすような自分の声が聞こえた。

「じゃあ、お姉ちゃんもお姫様だね!」

 エミリは真剣な顔で言った。

「私たち、ずっと一緒に、一生仲良しの姉妹でいようね!」

 セレステは、涙が出そうなほど笑っていた。

 しかし、景色は唐突に一変する。

 エミリが自分に向かって倒れ込んでくる。その白いワンピースは、暗闇の中で突然咲き誇り、そして瞬く間に散っていく花のようだった。

 生温かい血が、顔に、身体に飛び散る。

「お姉ちゃん……逃げて……」

 エミリの声は、今にも消え入りそうだった。

「だめ! エミリ! いや!」

 彼女は悲鳴を上げ、ずり落ちていく妹の身体を死に物狂いで抱きしめた。

「約束して、ちゃんと生きて……私の代わりに、ルシアンのこと、それからパパとママのことも……」

 エミリの瞳から次第に焦点が失われていく。それでも、口元には必死に微笑みを浮かべようとしていた。

「お姉ちゃん、ごめんね、一緒にいてあげられなくて……」

「エミリ! エミリ!」

 彼女は狂ったように泣き叫び、腕の中で冷たくなっていく身体を揺さぶった。

「どうして死んだのがお前じゃないんだ?」

 唐突に、怨嗟に満ちた声が響いた。

 顔を上げると、目の前にエミリが立っていた。全身血まみれで、空虚で恨みがましい目を自分に向けている。

「お姉ちゃん、どうして死んだのがお姉ちゃんじゃないの? 私、すごく寒いよ、痛いよ、私の命を返して……」

「違う……エミリ、私じゃない……」

 彼女は恐怖に駆られ、後ずさりした。

「お姉ちゃんのせいだよ、お姉ちゃんが私を殺したの! 勝手に家出したから! 私を港に連れて行ったから! お姉ちゃんだ、全部お姉ちゃんのせいだ!」

 血まみれのエミリが一歩一歩近づき、蒼白な手を伸ばして、彼女の首を絞めにかかる。

「あっ!」

 セレステはハッと目を見開き、悪夢から跳ね起きた。

 視界に飛び込んできたのは、見慣れない天井と、薄暗いオレンジ色の明かりだった。

 身体には柔らかい布団が掛けられ、ずぶ濡れだったドレスは着替えさせられており、腕の傷も新しく手当てされていた。

 自分は、まだ生きている……。

「セレステ先生、気がついたんですね!」

 リナが目を真っ赤にしてベッドのそばに飛び込んできた。

「神様、本当によかった、やっと目を覚ましてくれて! すごく心配したんですよ!」

 セレステは茫然と彼女を見つめた。一瞬、夢と現実の区別がつかなかった。

「私……どうしてここに?」

「道端で先生を見つけたんです!」

 リナはまだ恐怖が抜け切らない顔をしていた。

「何度電話しても出ないし、診療所にもいらっしゃらないから、何かあったんじゃないかってアパートまで行ってみようとしたんです。そしたら途中で、雨の中で倒れている先生を見つけて!」

 リナはそう言うと、またポロポロと涙をこぼした。

「一体何があったんですか? どうして銃傷なんて……ルシアンさんが……」

「もう聞かないで、リナ」

 セレステは疲労困憊して目を閉じた。

「ありがとう……助けてくれて」

 これ以上聞いても無駄だと悟ったリナは、涙を拭い、彼女を助け起こして水を飲ませ、少しの食事を運んできた。

 セレステは無理に数口食べたが、それ以上は喉を通らなかった。

 身体はひどく熱く、頭は重く淀んでいる。意識ははっきりしたり、混濁したりを繰り返していた。

 夜はまだ長かったが、セレステはもう眠ることができなかった。

 高熱による頭痛と記憶のフラッシュバックが、容赦なく彼女を苛み続けた。夜が明け、ようやくその恐ろしい熱が引くまでは。

 それでも彼女は、アパートに帰ると言い張った。

「先生、あそこには戻っちゃだめです! あんな場所、あの人……」

 リナは焦って足踏みをした。

「帰らなくちゃいけないの」

 セレステは弱々しく首を振った。

「あそこは私の家で、私の夫がいる場所よ。私はエミリに約束したの。ちゃんと生きて……彼を支えるって」

 最後の言葉は、絞り出すように発せられた。

 支える? 自分のことすらまともにできないのに、自分を骨の髄まで憎んでいる男を支えるなど、どうしてできようか。

「遺言の一言のために、一生あの人に痛めつけられるつもりですか? そんなの、割に合いません!」

 リナは今にも泣き出しそうだった。

 割に合うか、合わないか。

 セレステは、そのことについてもうずっと考えていなかった。

 いや、そもそも彼女の心の中に、そんな問いが存在する余地などなかったのだ。

「そうね、リナ」

 セレステは自嘲気味に笑った。

「でも、私はエミリに借りがある。私には、他に選ぶ道なんてないの」

 説得を諦めたリナは、仕方なく彼女に清潔な服を着せ、さらにコートを羽織らせた。

 送っていくというリナの申し出を、彼女は断った。

「一人で帰らせて。ありがとう、リナ。本当に」

 セレステは、今も自分を気遣ってくれる唯一の少女を抱きしめ、背を向けて歩き出した。

 アパートに戻ったセレステは建物の下に立ち、雲を突くような高層の摩天楼を見上げた。

 午後の日差しは明るく澄み渡り、ガラス張りの外壁に反射して眩しい光を放っていたが、その光が彼女を照らすことはなかった。

 指紋認証でエントランスのドアを開け、エレベーターに乗り込む。

 エレベーターがゆっくりと上昇していく。絶え間なく変わる数字を見つめながら、彼女の心臓も少しずつ沈んでいった。

 チン、と音がして、最上階に到着した。

 扉が開く。

 セレステは足を踏み出したが、その瞬間、その場に凍りついた。

 玄関に、見知らぬ上品なピンク色のハイヒールが一足、置かれていたのだ。

前のチャプター
次のチャプター