第1章

杏奈は思ってもみなかった。今日会う取引先が、父違いの妹――菊地美波だなんて。

オートクチュールで身を固めた菊地美波を、杏奈は目を見開いて見つめた。信じられない――そんな色が瞳をよぎる。

「菊地美波……?」

菊地美波は泰然とソファに腰を下ろし、ゆっくり口角を上げた。

「杏奈。やっと来たのね」

胸の底が、すとんと沈む。視線だけが複雑に揺れた。

今日は会社を代表しての商談だ。けれど美波は三年前に海外へ行ったはず。どうして今、こちらが頭を下げる相手として、目の前にいる?

「あなた……どういう――」

杏奈の戸惑いを読み取ったように、美波は微笑んだ。

「今の私がある理由を聞きたい? ……全部、お義兄さんのおかげよ」

お義兄さん――葉山陸斗。

杏奈は言葉を失った。そんな話、陸斗は一度もしたことがない。

結婚して三年。陸斗はいつだって忙しかった。出張か会議か接待か。二人で腰を落ち着けて食事をすることすら、指で数えられるほどしかない。

「杏奈。今日はね、あなたに見せたいものがあるの」

美波は話題を切り替え、持ってきた書類から分厚い束を取り出した。

航空券――全国各地への便名と日付が、ずらり。

杏奈は眉を寄せる。意図が読めない。だが、美波の性格を知っているからこそ、背筋にひやりとした警戒が走った。

三つ年下のこの妹を、杏奈は一度も「完全に」見抜けたことがない。

幼い頃、菊地父に田舎へ捨てられ、祖母のもとに預けられた。祖母が亡くなった年、菊地父は突然、良い父親ぶって杏奈を都会へ連れ戻した。

美波は笑顔で手を取ってきた。ずっとお姉ちゃんが欲しかった――願いが叶った、と。

けれど翌日のパーティーで、彼女はわざと階段から転げ落ちた。怒り狂った菊地父が杏奈を責めに来た時、美波は涙をこらえながら庇うふりをした。

その結果、杏奈はその夜のうちにまた田舎へ送り返された。

美波は相変わらずにこにこしながら言う。

「この航空券、行き先と日付……見覚えあるでしょ? 葉山陸斗が出張するたび、隣にいたのは私なの」

杏奈は呆然と航空券を見つめた。

頭を鈍器で殴られたみたいに世界がぐらぐら揺れ、目の前の声が遠ざかっていく。

同行したいと願ったことはある。けれどそのたび、もっともらしい理由で拒まれてきた。

美波は笑みを深くし、杏奈の手首に視線を落とす。赤い宝石が連なったルビーのブレスレット。

「そうそう。そのルビーのブレスレット、気に入った? 私があなたのために選んだの」

杏奈ははっと顔を上げる。

「……あなたが?」

それは陸斗が前回の出張で持ち帰った、初めての贈り物だった。あの時、どれほど嬉しかったか。

「ええ。でもね、あなたのはおまけ。正規品は――私の腕にあるの」

美波が得意げに右手を揺らす。そこには、より美しいブレスレットがきらりと光っていた。

杏奈の瞳孔が縮む。

胸の奥に大穴が開いたように痛い。冷たい風がそこを吹き抜け、骨まで冷える。血が、少しずつ凍っていくみたいだった。

ふらつく杏奈を前に、美波は楽しそうに言葉を重ねる。

「私たち姉妹、趣味が驚くほど似てるのね。私が好きなもの、あなたも好き。――私の男まで、あなたも好きだった」

杏奈は鋭く遮った。美波を睨み据える。

「当時、菊地家と葉山家の政略結婚だった。陸斗は結婚前に交通事故に遭って、植物状態になる可能性が高かった。あなたは自分に傷がつくのが嫌で、夜逃げみたいに海外へ飛んで元彼とよりを戻した。陸斗を捨てたのは、あなたでしょ!」

美波の顔色が一瞬だけ変わったが、すぐに戻る。

「それが何? 私が戻れば、葉山陸斗の心には私しかいないのよ」

憐れむようで、嘲るような目で杏奈を見る。

「見て? 男が本気で女を愛してるなら、お金も時間も権力もくれる。……葉山陸斗は、あなたに何をくれた?」

その問いに、杏奈は言葉を失った。

喉を見えない手で掴まれ、息が詰まる。

杏奈は逃げ出した。

帰り道、問いが何度も頭の中で繰り返される。

葉山陸斗は、私に何をくれた?

何年も、触れられたことすらない。

家のための結婚。老人たちを納得させるための飾り――表に置かれた縁起物。

愛も、時間も、権力も。何ひとつ手にしていない。

グループへの入社だって、実力で面接を突破した。

一方で美波は陸斗の名を盾に、杏奈が頭を下げる側の「客」の席に座っている。

目を閉じる。

陸斗の態度を、美波へのそれと並べて比べてしまう。その差は刃物みたいに胸を切り裂いた。

魂が抜けたみたいに帰宅すると、陸斗がソファで経済ニュースを読んでいた。黒の部屋着に金縁眼鏡、袖口は無造作にまくってある。

杏奈を見ても、淡々と言うだけ。

「明日、案件で出張だ」

杏奈は胸の痛みを押し殺し、真剣に彼を見た。

医師に「一生目覚めないかもしれない」と宣告された時、毎日そばで物語を読み、祈り続けたのは杏奈だった。奇跡は起きた。

そして菊地父に悪しざまに責められたあの日、涙を拭くハンカチを差し出してくれたのも陸斗だった。今も大切にしまってある。

努力すれば、いつか彼の本心を得られる。

そう信じてきた。葉山の祖父の信頼だって得た。

目に見えて回復している――そう思っていたのに。今日、美波が最も醜く痛い現実を、目の前でむき出しに裂いた。

杏奈は不意に問う。

「今回の出張、あなた一人? それとも誰か連れていくの。私も一緒に行っていい?」

陸斗の眉間に皺が寄る。

「仕事に行くんだ。遊びじゃない」

航空券の束が脳裏に焼き付く。

胸の中で、何かがぱきりと割れた音がした。

杏奈は静かに言った。

「葉山陸斗。離婚しましょう」

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